「はぁ……今日も収穫ゼロか……」
魔王城の長い廊下を、透は一人とぼとぼと歩いていた。
例の“扉探し”はもう義務ではなかったが、ステラに頼まれて以降、なんとなくクセになっていた。
別にヒマってわけでもないが、他にやることもない。
──それが油断だった。
「…………っ!」
“カシャン”という、乾いた音。
頭上から何かが落ちてくる気配。とっさに身を引いた。
ザバーッ!!
透のいた場所の床が、水浸しになった。
真上の扉の上──そこには、空になったバケツがコトンと音を立てて転がっていた。
「……は?」
ぽたぽたと、水滴の垂れる音。
床には小さな氷も混じっていた。
「──おや?反応、早すぎませんか?」
聞き覚えのある声が響く。
振り向くと、燕尾服を着た銀髪の男が、遠くから手を叩いて拍手していた。
「くっそしょーもねえ……! バケツって、小学生かよ……!」
「これが意外とですね、成功率が高いのですよ。わたくしの中では『バケツ・オブ・ホラー作戦』と呼んでおります」
「ダッッサ……!?」
その男──ヴァルム=ロワレーンは、まるで何食わぬ顔で水浸しの床を跨ぎ、透の隣にすっと並んだ。
「……何してたんだ?」
「見回りでございます。……あ、ついでにトオルどのに“教育的指導”をと思いまして」
「教育っつーか、ただの悪戯だろ……」
「いえいえ。驚くという反応は、防御意識と反射神経を高めるための訓練でございます。れっきとした軍の練習法ですとも」
「嘘つけ」
「ばれましたか……でも、どうでした?楽しかったでしょう?」
「やられた方は楽しくねぇよ〜…」
そう言いながらも、透は小さく笑った。
ヴァルムのこのノリは、最初は腹が立つだけだったが、慣れると不思議と不快ではなかった。
“自分を気にかけてる”というのが、言葉じゃなく行動で伝わってくるからかもしれない。
「それにしても、また“扉”ですか?」
「まあな。見つけても開けるかどうかは別だけど」
「ステラ様のご命令は既に果たされたはず……それでも探すとは、律儀ですね」
「そうでもねえよ。……なんか、気になるだけ」
「なるほど……気になることに素直になれるのは、若さの特権でございますな」
そう言ってヴァルムは、床に転がったバケツを拾い上げた。
小さく氷の塊が、カランと音を立てて滑り落ちる。
「……そういえば」
不意に、ヴァルムが声のトーンを変えた。
「“仲間”は、増えましたか?」
「……またそれか」
「ええ。わたくし、執念深いので」
軽く笑いながらも、その視線はふっと鋭くなる。
「この城には、あなたを好ましく思っている者が案外多い。エンリカも、メルセデリアも、ルザリオやバルマレオも……言葉にしないだけで、あなたを認めておりますよ」
「……仲間ってのは、そう簡単にできるもんじゃない」
「では、問います。あなたが死にかけていたとしたら、誰に助けを求めます?」
透は少しだけ言葉に詰まった。
「……助けなんか求めねえよ。死ぬときは死ぬ」
「強がり。もしくは、諦め。それとも……昔、裏切られたことでも?」
「うっせーよ、探偵かお前は」
「失礼。でも、わたくしはあなたの未来を少しだけ案じております」
いつもの冗談混じりの笑顔とは違う。
そこには年長者の、いや、“戦友を何人も見送ってきた者”の重みが宿っていた。
「仲間というのは、“背中を預けられる相手”のことです。笑い合うだけの存在ではない」
「……」
「あなたはきっと、何かとてつもないものと戦うことになる。そのとき、隣に誰がいるかで生死は変わるでしょう」
「……わかってるよ、そんなこと」
透はぼそりと答えた。
ヴァルムはにこりと笑って、バケツをポン、と透の頭に乗せた。
「では、そのときのために……そろそろ、友を作りましょう。バケツの中身を被って笑えるような、そんな愚かで、かけがえのない友を」
「……うぜぇよ。なんで最後ちょっといい話にしてんだよ!?」
「わたくし、名セリフコレクターですので」
白手袋をくるりと翻しながら、ヴァルムは水たまりを軽やかに越えていく。
その背中はどこまでも柔らかく、どこまでも読めなかった。
透は小さくため息をついて、頭のバケツを外す。
(……仲間ね)
その言葉は、バケツの底よりも、よほど重たかった。
───そう思っていた次の瞬間
ドガァァァァァンッ!!
街の鼓動が止まったかのような、凄絶な爆音。
突如として、アヴィア全土に雷鳴のような轟音が響き渡る。地が揺れ、空が叫び、光が世界を裂く。
その瞬間、透の中に浮かんだのは──「最悪」の予感。
(まさか、こんな形で……!)
一瞬にして街の空が赤く染まった。
それは夕焼けではない。爆炎による血のような光だった。
──そして、始まった。
【9つの“悪意”】──あの“大森林”に集っていた“何か”が、ついに動き出したのだ。
各地へと。
魔王も天王も異淵王も魂賭王も不在。残された魔王軍幹部たちが散らばりながら、それぞれの都市を防衛するしかない。
透は、反射的に中央都市ベスカを選んだ。
それが「一番ヤバい気がする」と、どこかで感じていた。
──そして、たどり着いた光景。
「……!」
目の前の広場で、拳を振るうバルマレオが、血だらけで立っていた。
その体には裂傷、打撲、焦げ跡。普段は鉄よりも強靭な肉体が、ズタズタにされている。
それでも立っているのが信じられないほどだった。
「……コイツしつこすぎ、生きるサンドバッグ?まぁそれなら納得」
鋭く乾いた声が空を裂く。
対峙するひとり──女の声。どこか“感情”が欠落していた。
その隣には、もうひとり。
長い髪の青年らしき男が、笑いながら空中を軽くステップしていた。
「いいねいいね!殴ったら骨が砕けて、潰しても動く!なにこの相手、楽しい!」
バルマレオの体が、ぐらつく。
「くっ……が、ぁ……」
彼女は拳に魔力を纏う格闘家だ。どんな魔法も弾くその“肉体”は戦場で幾度も敵を粉砕してきた。
それが──いま、押されている。
「バルマレオ!!」
透が声を張り上げると、彼女はふらつきながらこちらに目を向けた。
「とお……る……来ちゃダメ、だよ……こいつら、ただの“人間”じゃない……っ!」
言葉の最後が、血の泡に消える。
「“強い”だけじゃない。──“嫌な感じ”がする」
透も肌で感じていた。
この2体の“敵”──明らかに異常だった。
魔力の流れも異常、構造も異常、喋り方すら異常。
まるで別の生き物だ。理屈が通じない。理性が通じない。
なのに、魔法も、戦いも、精密に動いてくる。
(……バルマレオ一人で、こいつらと2対1とか……)
透は、呼吸を整える間もなく、拳を握る。
(──行くしか、ねぇ)
力が、震えた。恐怖か、怒りか。
だが、確かに今──彼は、“ただの旅人”ではいられなかった。
──そして、その広場の屋根の上。
まだ透の目にもバルマレオの目にも映っていない男が、静かにその戦場を見下ろしていた。
背中に神輪を背負う白銀の騎士。
その名も、“無冠の騎士”ルクス。
──剣が抜かれるのは、もうすぐだった。
「トオル……?」
バルマレオの血に濡れた唇が動いた瞬間だった。
「…あれ、お前って目的のガキ? あはは、やっぱそうだよなぁ!!」
笑う男が地を蹴った。背後で乾いた衝撃波が走る。
「は?なに?コイツ?なーんだ…弱そうで良かった」狂気に満ちたような女の声とともに、光が地面を抉る。
──狙いは、透。
バルマレオを完全に“無視”したまま、2人の敵は一直線に透へと殺到してきた。
「お、おい、嘘だろ……っ」
反応が遅れた。避ける間もなく、透の胸を蹴りが貫く。
ドガッ。
肋が確実に数本折れた。息が詰まり、視界が揺れる。
続けて、空中で背を殴りつけられ、透は10メートル以上吹き飛ばされた。
「ぐ、あっ……くそっ……!」
血を吐きながら立ち上がろうとする。だが、もう一発。
今度は顎を殴られ、地面に頭を叩きつけられる。右腕は逆への字のように折れ、骨が飛び出ていた。
「やっぱ弱えなぁ、普通の人間じゃん?」
「弱いものイジメも悪くないね、気持ちがいいよ」
透は歯を食いしばりながら、地面を見つめた。
(なんだよ……こいつら……なんで俺が──)
その瞬間、風が止んだ。
空気が静まり返り、光が揺らめいた。
「──そこまでだ」
澄んだ、重みのある声。
敵も、バルマレオも、そして透も──反射的にその方向を振り向いた。
屋根の上。
降り立ったのは、一人の騎士。
“無冠の騎士” ルクス。
「…………誰?」
「騎士団の……?」
敵が困惑する中、ルクスは無言で手を前に伸ばす。
その瞬間、白銀の鎧が光に包まれた。
「──我が名はルクス。王にあらず、神にあらず。ただ一振りの剣として在る」
眩い金と白の輝きが爆発し、鎧が変化する。
胸部に輝く紋章、両肩を走る光の縁取り。
背中からは、純白の翼が羽ばたき、宙に神輪が浮かび上がる。
大地が震えた。
その姿は、もはや「人」ではなかった。
「──《天照》」
白と黄のオーラが地を這い、天を染める。
一歩、彼が歩くたび、周囲の空気が変わる。
敵の男が笑いをやめた。
「……やべぇの来た?」
女の方も即座に後退の構えを取る。
「私たちがグチャグチャにされたら意味ないんだけど…?」
ルクスは静かに剣を掲げた。
「──問答無用、か。では」
『聖剣乱舞・終光』
瞬間、空間に無数の聖剣が浮かび上がる。
それらは一斉に光を放ち、
次の瞬間──滝のように光の剣が敵へと降り注いだ。
「っ──が、あ、あああ!!」
避けようとした男の足を1本、貫通。
女の肩も、焼けるような光で穿たれる。
「魔力が、燃える……っ!?な、なん……だよコレ……っ!!」
そして──全ての剣が命中と同時に“消える”。
傷は残るが、剣の残骸はない。
光そのものが刺さり、痕跡すら残さない、“聖なる裁断”。
「……お前らに問う。撤退するか、ここで終えるか」
その一言に、敵は即座に退く。
「ちっ…またな、ガキ。今度は全部ぶっ壊す」
笑いながら男が霧散し、女もそのまま転移魔法で姿を消す。
ルクスは、透に歩み寄る。
その神輪が、今なお輝いていた。
「トオル……立てるか?」
高精度な治癒魔法をかけつつ、手を差し伸べたその目は神でも英雄でもなく──騎士だった。
透は、震える手でそれを掴んだ。
「……あぁ……助かった……マジで……」
息を吸うと、肋が痛んだ。
それでも今は─────