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「灯台ギャラリー」の準備は、アオイにとって数年ぶりの、熱を帯びた日々だった。
ハルさんの許可を得て、使っていなかった海猫軒の奥のスペースを片付け、
白い壁を作り、照明を取り付けた。
ペンキや木材の匂いは、創作意欲を刺激し、
東京で感じていた焦燥感とは全く違う、建設的な充実感でアオイを満たした。
アオイが描いたのは、まずこの町の「今」の風景だった。
穏やかな海、錆びた防波堤、そして海猫軒の軒先で昼寝をする猫。
油絵の具で描かれたその絵は、この町が持つ静かで温かい空気を写し取り、
アオイの心の中に確固たる居場所ができたことを証明していた。
彼女は、ナギが残した「灯台」のスケッチの横に、自分の絵を並べた。
それは、未来への希望を灯す、二人の画家の「約束」のようだった。
準備が進むにつれて、海猫軒を訪れる町の常連客たちの視線が、
アオイの作業に集まるようになった。
彼らは、アオイが東京から戻ってきて以来、
どこか「ここにいるべきではない」という迷いを抱えているように見えたことを知っていた。
ある日、地元の漁師である常連客が、カウンター越しにアオイに声をかけた。
「アオイちゃん、そんなに熱心に描いて。東京で描いていたデザイン画と、何か違うのかい?」
アオイは、正直に答えた。
「はい。以前は、『誰かに認められるための絵』を描いていました。でも今は、『誰かを救うための絵』を描きたいんです。」
その言葉を聞いた漁師は、少し驚いた顔をした後、静かに頷いた。
「ナギ君の絵を見て、みんな心が動かされたからね。君の絵も、きっとそうなるよ。」
ナギの絵がSNSで話題になったことは、この小さな町に、
美術や表現に対する新しい「熱」を運んでいた。
ナギの絵の純粋さが、大人たちの閉塞した心に風穴を開けたのだ。
アオイは、ナギが未来で人々を救ったという自分の言葉が、
すでに過去の町で実現し始めていたことを知った。
そして、ついに「灯台ギャラリー」がオープンする日が来た。
大々的な宣伝はしなかったが、ハルさんの口コミと、
アオイの新しい絵に対する好奇心から、町の人々が海猫軒に集まってきた。
ギャラリーに入った人々は、アオイの描いた静かで力強い風景画を前に、息を飲んだ。
都会的なセンスを持つ彼女の技術と、この町の空気感が、見事に融合していた。
「この海の色…」「あの防波堤、いつもの風景なのに、なんだか遠くまで行ける気がする」
そんな声が聞こえる中、アオイはナギのスケッチの前に立ち止まる、一組の夫婦に気づいた。彼らは、ナギをいじめていた生徒の親だった。
アオイは少し緊張しながらも、夫婦に話しかけた。「ご覧になって、ありがとうございます。」
夫は気まずそうに目を逸らしたが、
妻はナギの灯台のスケッチを見つめたまま、静かに口を開いた。
「この灯台の絵…うちの子が、ナギ君と揉めていた時に、『自分には居場所がない』って言っていた、あの岩場から見える景色ですよね。」
アオイは息を飲んだ。ナギをいじめていた少年もまた、学校や家族の中で孤独を抱え、「居場所」を求めていたのだ。
「ナギ君は、いじめられていたけど、絵を描くという光を持っていました。うちの子は、それすら見つけられなくて…」
妻は目に涙を浮かべた。
ナギの孤独を救おうとしたアオイの行動は、図らずも、いじめていた側の子供たちの孤独と、
親たちの後悔にも光を当てることになっていた。
アオイは、ナギからの手紙に書いてあった、
「絵は人の心を救い、勇気を与えることができる」という言葉を、
再び心で繰り返した。アオイは、自分の絵で、この町の人々の心を繋ぎ、
癒すことができると確信した。
「灯台ギャラリー」は、ただの展示スペースではなく、
この町の光と影が交差する、新しい「時空の交差点」となっていた。