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閉店後の店に二人きりで残ることが、いつのまにか当たり前になっていた。
カウンターの明かりを一つだけ残し、他には誰もいない空間で交わす言葉は、営業時間中のそれとはまるで違う密度を持っている。舜太はその変化を、はっきりと自覚していた。
「今日、めちゃくちゃ疲れた」
舜太はカウンターに突っ伏すようにして呟いた。現地の取引先とのオンライン会議は長引き、言葉も文化も違う担当者との折衝は神経をすり減らす。それでも、この店に辿り着くと、不思議と体の力が抜けていく。柔太朗はいつものように静かにグラスを磨きながら、労うように目を細めた。
「お疲れさま。今日は甘めのやつでも作ろうか」
「甘いのより、柔太朗さんの方が欲しいわ」
冗談めかして言った言葉に、柔太朗は軽く肩をすくめただけだった。
この程度の軽口には、もう慣れている。だが舜太は、唐突に椅子から立ち上がってカウンターを回り込み、柔太朗の背後に立った。
「──ちょっと」
「疲れた時は、誰かにくっついときたいタイプなんです。知らんかったですか」
そう言いながら、舜太は柔太朗の肩に顎を乗せ、うなじのあたりに顔を寄せた。柔らかい髪の匂いと、その奥にある肌の匂いが近くなる。柔太朗の体が、一瞬だけ強張った。
「──舜太くん」
「ん?」
「今日は、ちょっと近い」
いつもより硬い声だった。舜太は少しだけ体を離しかけたが、柔太朗の耳が、らしくもなく、いつもより赤く染まっていることに気づいて、動きを止めた。
──これは、照れているだけなんだろうか。
そう思う一方で、舜太の中には別の違和感も生まれていた。柔太朗が誰かに触れられて動揺する姿など、これまで一度も見たことがない。いつも飄々と涼しい顔で、危うい態度と言葉を仕掛けてくる男が、明らかに何かをこらえている。
「柔太朗さん、意外と初心なとこあるんですね」
「そういうわけじゃ」
「じゃあ、なんでそんな、息止めてるみたいな顔してるんですか」
図星を指されて、柔太朗は小さく息を吐いた。実際のところ、息を止めているのは比喩でも何でもなかった。すぐ近くにある首筋から立ち上る、人間特有の匂い。それが、いつもより濃く感じられる。
疲れた体は血の巡りが変わり、匂いにも微かな変化が出る。柔太朗はその変化を、誰よりも敏感に感じ取っていた。
──今、少しだけ触れたら。
その先の欲求を、柔太朗は理性の底に押し込めた。何十年も守ってきた一線だった。人間の血を求めることは、単なる本能の発露ではなく、相手の命そのものに関わる行為だ。だからこそ、軽々しく踏み越えてはならない。
「──少し、離れて」
「なんでですか」
「……集中できないから」
その言い方が、あまりに人間くさく聞こえて、舜太は思わず笑ってしまった。からかうつもりで近づいたはずが、今、確かに柔太朗の均衡が揺らいでいる。その事実に、舜太の中で何かが小さく灯った。
「柔太朗さんでも、そういう顔するんや」
「……どういう顔」
「余裕なくなってる顔。俺、初めて見たかも」
柔太朗は答えなかった。答えられなかった、という方が正確かもしれない。いつもなら軽やかに躱せるはずの言葉が、今は喉の奥に張り付いたように出てこない。
舜太はそれ以上は追わず、するりと体を離してカウンターの向こう側に戻った。だが、その一瞬の距離の中で、確かに何かを掴んだという確信があった。
これまで、「振り回されているのは自分の方だ」と、どこかで思っていた。誘惑され、駆け引きに乗せられ、いつも肝心なところで煙に巻かれる。だがこの夜、初めて気づいたのだ。柔太朗にも、崩れる瞬間がある。均衡が揺らぐ瞬間がある。そしてそれを引き出せるのは、今のところ自分だけらしい、ということに。
「──次は、もうちょっと近づいても大丈夫なように、慣れといてくださいね」
舜太は席に戻りながら、悪戯っぽく笑って言った。柔太朗は何も答えず、ただ手元のグラスに視線を落とす。だがその頬には、拭いきれない熱が、まだ薄く残っていた。
店内に流れる静かな音楽だけが、しばらく二人の間の沈黙を埋めていた。柔太朗は磨き終えたグラスを棚に戻しながら、自分の中に生まれた小さな綻びを、どう扱えばいいのか分からずにいた。
──理性なら、まだ保てている。
そう自分に言い聞かせながらも、柔太朗はもう気づき始めていた。舜太という人間が、自分にとってただの気まぐれの相手では済まなくなりつつあることに。
そして舜太もまた、この夜の発見を、忘れるつもりは毛頭なかった。