コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
超音波の結果は可もなく不可もなく。
やはり心臓そのものに大きな変化はない。
と言うことは、疲れとストレスと睡眠不足から来た症状で、私の不摂生と環境の変化が原因。
もちろん、新しいアパートが決まり私生活が落ち着けばいくらかは改善するんだろうと思う。
でも、この仕事をする以上多少のストレスも睡眠不足も避けられはしないはず。
困ったなあぁ。
とぼとぼと廊下を歩き、病棟へ向かう渡り廊下を進んでいたとき、
「あっ」
窓越しに、山神先生の姿が目に入ってきた。
ちょうど、小学生くらいの女の子と中庭を歩いている。
女の子は病衣の上からカーディガンを羽織り点滴スタンドを押しているから、きっと入院患者。
時々先生と言葉を交わしながら笑っている。
先生は優しいから、子供達にも人気がある。
きっとあの子も、先生のファンなんだ。
だって、あんなにギュッと手を握っているんだから。
私も子供の頃、何度も先生と中庭を散歩した。
母さんと死別し、お兄ちゃんも仕事が忙しくなり、入院中1人だった私は日に何度か病室に来てくれる先生が好きだった。
一緒に中庭を歩いているだけで、自分は先生にとって特別なんだって妄想を膨らませていた。
フフフ。
懐かしい。
***
「いつ見ても優しい小児科医よね」
窓際に立つ私の後方から、少し棘のある声が聞こえてきた。
「そうですね。子供達にも人気があって、いつも囲まれていますから。えっ?」
思わず返事をしてしまってから、慌てて振り返る。
そこにいたのは産婦人科の馬場先生。
私の指導医で、体調不良で使い物にならなくなった私の代わりに呼び出された先輩。
「あの・・・」
せっかくの日曜を、私のせいですみません。
そう言いたいのに、先輩から出るオーラがあまりにも暗くて言葉が止った。
そりゃあね、産科医なんて昼も夜もない仕事をしていれば日曜の休みは本当に珍しい。
5歳年上の馬場先生は新婚さんのはずだから、せっかくのお休みを旦那さんと過ごしていたに違いない。
つい先日救急で患者の旦那さんに詰め寄られて迷惑をかけたばかりなのに、またやってしまった。
不可抗力とはいえ本当に申し訳ない。
「案外元気そうじゃない」
私を見下ろす優しさのない声。
「すみません」
もう謝る言葉しか出てこない。
***
「患者の方が似合っているわね」
睨み付けるように私を見る先輩は、間違いなく怒っている。
「申し訳ありません」
「建康でない人間が医者になるべきではないと、私は思うわ」
「本当に」
「そう思うなら、善処しなさい。仕事は慈善事業ではないの」
「すみません」
馬場先生は150センチ足らずの小さな体に似合わずパワフルな女性。
外来でも病棟でもいつも走り回っていて、座って休む姿を見たことがないくらい。
仕事も人一倍早くて正確で、自分にも他人にも厳しい完全無欠の女医。
そのさっぱりとした性格のせいか、患者さんにも人気がある。
私だって、先輩みたいな女医になりたかった。
クスン。
泣きたくなんてないのに、目の前の景色が霞む。
「泣かないでよ。私がいじめているみたいに見えるから」
「大丈夫です」
こんな事では泣かない。
苦労して無理を続けてやっと医者になれたんだから、諦めたりなんてしない。
「辞めるなら早く決心しなさい。ズルズルされても迷惑なだけだし。もし、まだここでの勤務を続けるのならちゃんと自己管理をしなさい。今日みたいな呼び出しは2度とごめんだからね」
「はい」
私は言い返す言葉もなく、深く頭を下げた。
***
「長谷川」
いたたまれない空気の中でただ黙っていた私に、馬場先生が声をかける。
「はい」
頭を起し振り返ると、視線は私を通り越して窓の外に向かっていた。
ん?
ここから見える外の景色は病院の中庭。
車いすで散歩中の患者さんやベンチで休むスタッフ。
山神先生と女の子の姿もまだある。
「医者も人間だからね、仕事だけが生活の全てではないし、家族も家庭も生活もあるの。時には贅沢したいって思うこともあれば、趣味のためにお金や時間を使いたい人もいる」
「はあ」
先輩の言わんとすることが伝わってこなくて、とりあえず相づちを打った。
「大金を稼ぎたいなら開業医を薦めるし、出世をしたいならそれなりのやり方もある」
「はい」
確かにその通りだと思う。
「私の実家は普通のサラリーマンだし、たまたま成績が良くて国立の医学部に受かったから医者になったの。出世する気も大金持ちになりたいとも思わない。ただ普通に結婚して子供を産み育てたい。もちろん与えられた仕事は精一杯するけれど、仕事を生活の全てにするつもりはないわ」
「はあ」
そう言えば先輩の旦那さんって街の小さな電気屋さんだって聞いた。
大学時代のボランティア活動で知り合って、10年付き合って先日やっと結婚。
医者を嫁に迎えるってことで随分もめたらしい。
「全ての人が山神先生みたいにお気楽ではないのよ」
「えっ?」
急に山神先生の名前が出て驚いた。
それにお気楽って・・・
***
「あなた、山神先生が好きなんでしょ?」
「ええ、まあ」
科内の飲み会で「山神先生にあこがれて医者になりました」って漏らした記憶があるから、今さら否定は出来ない。
「そりゃあね、お金の心配も生活の心配もなくて、時間も自由に出来るならあのくらいの余裕は生まれるのかも知れないわね」
なんだか含みのある言い方。
私は意味がわからず先輩の顔を見た。
「山神先生の奥様を知ってる?」
「え、いいえ」
結婚しているって聞いたけれど、奥様のことまでは知らない。
「女優の高山凛子よ」
「えええー」
テレビでもよく見かける大物女優じゃない。
知らなかった。そんな有名人が先生の奥さんなんて。
でも待って、高山凛子って40代後半のはずじゃあ・・・
「10歳以上年上の奥様。結婚して10年くらいにはなるはずだけれど、当時は騒がれたのよ。初婚で20代の医者と離婚歴のある大物情優の結婚だものそうとうの決心よね」
「でしょうね」
私に別世界の話しに聞こえる。
「まあお陰で、お金の心配も生活の心配もなく、忙しい奥様に気を遣うこともなく自由気ままに生きられるんだからそれはそれで幸せなのかもね」
「はあぁ」
そうだろうか。
そんな生き方って幸せと言えるのかなあ?
少なくとも私には理解できない。
***
「私が言いたいのは、人それぞれ幸せの形は違うって事よ」
「はあぁ」
普段多くを語ったり長々と説教することのない先輩にしては珍しく言いたいことがありそうな口調。
私は何を言われるのかと恐々としながら先輩を見た。
「あなただって医者になることがゴールじゃないって大学で習ったでしょ?」
「ええ」
あくまでも今はスタートで、これから一生かけてスキルを積むしかない。
それだけ責任のある仕事を選んだんだと自覚している。
「あなたにとってここはベストの環境と言えるかしら?」
「え?」
「子供が好きで小児科医になる人もいれば、個性を生かして外科医を目指す人も、精神科を選ぶ人もいる。麻酔科医や病理医はそれぞれ思惑があって仕事を選ぶし、年に数ヶ月だけ働いて後は世界を回っている人もいる。人それぞれ個性と趣向があるからそれでいいと思うのよ」
「はあ」
医者にだって色々な人がいるのは当然。
そんなことは私だって、
「あなたの病気も個性の一部でしょ?」
「・・・」
答えられなかった。
言われてみればその通りだ。
普段あれだけ患者に病状告知をしているくせに、私自身が自分の病気を受け入れられていないのかも知れない。
***
「先輩、ありがとうございます」
しばらく続いた沈黙の後、やっと出てきた言葉がこれだった。
今まで厳しい事ばかり言われてきたから、余計に感動してしまった。
なのに、
「何言ってるの、私は早く辞めてくれって言っているの。鈍い子ね」
相変わらずの毒舌。
この人はいつもこうだ。
厳しいこともはっきり言うけれど、ずるいことはしないし、文句を言いながらも助けてくれる。
苦手だけれど、尊敬できる先輩。
「早く退院して復活しますから、それまで私の担当患者をお願いします」
もう一度頭を下げた。
先輩の言う通り、医者にも色々な人がいてそれぞれの働き方がある。
私にとってこの職場が、かなりハードなのも分かっている。
でももう少し、ここで頑張りたい。
一度決めたからには逃げ出したくないし、やっぱり先輩みたいな産科医を目指したいから。
「もう、わかったからおとなしくしてなさい。ほら、病室に帰るわよ」
「はい」
厳しい表情のまま背中を押され、私ば病室へと向かった、
***
病室に帰り、夜には検査の結果も出そろった。
やはり疲労と寝不足から血液検査の結果は良いとは言えないものの、心臓の機能に悪化はない。
山神先生にはお説教されたけれど、最悪の事態は免れた。
「自分の体が一番だけれど、働く以上背負っていく責任もあるんだ。医者であればその責任は人の命に関わる。無理をすれば、一緒に働く仲間に負担をかけることにもなる。そこの所を自覚して反省しなさい」
普段温厚な産科部長にも言われ、
「これからは睡眠時間にも気をつけて、少しでもおかしかったら必ず受診します」と約束をした。
順調にいけば、明日中には退院できる。
お兄ちゃんは水曜くらいに戻るって聞いたから、私が言わなければ知られなくてすむ。
退院して数日の自宅療養中にアパートを決めてしまえば、全てまるく収まる。
うん、それが良い。
『急な残業で、今夜は帰れそうもありませんから医局に泊ります』
黙っている訳にもいかず、徹さんにはメールを送った。
『体調悪いのに大丈夫なの?』
やはり心配そうな返信が来たけれど、
『平気。ちゃんと受診もしたから』
これは嘘じゃない。
入院したと伝えてないだけ。
『無理するんじゃないよ』
『はい』
とってもとっても心が痛むけれど、もう少し黙っていよう。
言えば、心配をかけるだけだもの。
***
隠し事って思わぬ所からバレることが多い。
特に秘密にしたいと思うことに限って、知られたときの反動が大きい。
日曜に入院して、このまま熱が上がらなければ帰っていいと言われた月曜日。
食事もとれるようになって血液監査の結果も良好。
さあ、荷物でも片づけようと思っていたとき、
バンッ。
派手な音とともに病室のドアが開いた。
えっ?
私は一瞬固まった。
そこにいたのは息を切らした、
「徹さん」
なぜ?どうして?
驚いて口を開けたままの私は、次の言葉が出てこない。
だって、入院したことを伝えてはいないし、今日は月曜日だから徹さんも仕事のはず。
ここにいるはずがないのに・・・
動揺して動けなくなった私の元に、ゆっくりと近づいてくる徹さん。
その顔は怒った時のお兄ちゃんと一緒。
マズイ。
瞬時に判断した私はぎゅっと拳を握った。
「仕事で帰れないんじゃなかったのか?」
「体調は変わりないって言ったよな?」
もしお兄ちゃんなら大声で怒鳴っていたところだろうけれど、徹さんは冷静に私を見下ろす。
「ごめんなさい」
「謝って欲しいんじゃない」
そんなこと言われても、確信犯である以上謝ることしか私にはできない。
***
「黙っていればわからないと思ったのか?」
「・・・・」
答えはイエスだけれど、口に出す勇気がない。
「陣には?」
ブルブルと首を振った。
「はあぁー」
盛大な溜息をつき、近くにあったイスに座ると、ジッと私を見る。
私だって良いことをしたつもりはない。
でも、たいしたことはないと思ったし、退院して元気になり新しいアパートに引っ越をすれば全ては笑い話になると思った。
きっと言い訳にしか聞こえないだろうけれど、これ以上余計な心配をかけたくなかった。
「陣に知らせるぞ」
上着のポケットから携帯をとりだした。
「ま、待って。すぐに退院するの。退院したら3日間は休みを取るし、ちゃんと元気になったら自分で話すからもう少し黙っていて」
お願いと手を合わせてしまった。
しかし、
ピシッ。
いきなり飛んできたデコピン。
「痛っ」
つい、イラッとした。
そんなに怒らなくたって良いじゃない、こっちは病人なのに。
***
「お前、全然反省してないだろう?」
一旦携帯をポケットにしまい、私の顔を見た徹さんは少々呆れ顔。
「え、いや、」
決して反省していないわけではない。
でも、余計な心配をかける必要もないかと・・・
「今日の朝一で麗子からお前が入院しているって聞かされて、俺がどれだけ焦ったかわかるか?」
やっぱり麗子さんが話したんだ。
そりゃあそうよね、随分心配していたもの。
ちゃんと話しなさいって言われたし、黙っていた私が悪い。
それはわかっているんだけれど・・・
「徹さん、心配したの?」
「ああ。まず驚いて、次に腹が立って、しまいには仕事が手につかなくなった。集中力がなくなったせいか普段しまいようなミスガ続いて、とうとう仕事を投げ出してここまで来てしまった」
「そんなあ・・・」
いつも冷静な徹さんからは想像もできない。
「全部お前のせいだ」
なぜだろう、胸の奥がギュッと締め付けられるようで体が震えた。
「もう、隠し事はやめてくれ。心配でおかしくなりそうだ」
「ごめんなさ」
本当に申し訳ないと思い謝ろうとした言葉は、抱きしめられた徹さんの体に吸い込まれてしまった。
***
大きくて温かいその温もりに、私は流されてしまいそうだった。
たった数日前に初めて会った人のことが愛おしくて、背中に手を回す。
ここが職場だって事も、いつ誰が入ってくるかわからないことも、気にならなくなっていた。
今は徹さんの鼓動を感じていたい。
離れたくない。
離したくない。
「怒ってごめん」
私の知っている穏やかな声。
「いいの」
怒られるようなことをしたのは私だから。
「それでも、病人相手に乱暴な態度をとった」
肩を落としうなだれる徹さん。
「本当にいいの。悪いのは私だから」
叱られたくなくて隠し事をしたのは自分自身。
心配かけたくなかったなんて綺麗事で、保身のための行動だったことに間違いない。
「元気そうでよかった」
ホッとした声と共に、肩に回された腕に少し力が加わった。
「・・・会いたかった」
自然と口から出た。
人を好きになるのに理由なんてない。
人を好きになるのに時間なんて関係ない。
好きになった思いは、誰にも止められない。
私は徹さんのことが、好きだ。
***
「あんなに叱りつけてやろうと思っていたのに」
ちょっと悔しそうに、徹さんが私を見下ろす。
徹さんの中で、私はどういうポジションなんだろう。
親友の妹?
何をしでかすかわからない無鉄砲な女?
我がままで言うことを聞かない年下女子?
いずれにしても、良い印象でないのは確かだ。
はあぁー。
溜息が漏れてしまった。
「どうした?具合悪い?」
心配そうに声をかけられ、
「違うっ」
ぶっきらぼうな答えになった。
私だって麗子さんのように、余裕のある大人の女性でいたい。
怒ったり、泣いたり、叫んだり、そんなみっともない姿は見せたくない。
それなのに・・・
「もう、帰れるのか?」
「え?」
「せっかくだから送っていくよ」
「うん、でも・・・」
忙しい徹さんにそんな時間はないはずなのに。
「又逃げられても敵わないから、うちまで送る」
「うん」
うちって、徹さんのマンションだよね。きっと。
本当はホテルをとるつもりだったのに。
「ロビーで待っているから、準備しておいで」
「はい」
正直、向かえに来てくれたことがすごくうれしい。
きっと1人で帰るんだろうと思っていたし、病み上がりのせいか1人が寂しかった。
それに、私は徹さんに会いたかった。
「徹さん、ありがとう」
「バカ。待ってるから」
そう言うと、徹さんは病室を出て行った。
***
多くもない荷物をまとめ、昨日着てきた出勤用の服を着て、私は病室を出た。
久しぶりにゆっくり寝たせいか、いつもより体が軽い。
心配事が綺麗になくなった訳ではないけれど、体力が回復したせいで「さあ頑張るぞ」って気力はわいてきた。
やっぱり建康が一番。これからはもっと体を労ろう。
病室を出た私は医局に顔を出し、こから3日間の休暇届を出しから医局の先輩達に迷惑をかけてしまったことを詫びた。
不思議なことにイヤな顔をする人はおらず、「元気になって戻っておいで」と送り出してくれた。
いつも辛辣なことを言われる続けているからびっくりしたけれど、でもうれしかった。
ここに戻ってきて良いんだと言ってもらえた気がした。
「お待たせ」
「ああ」
ロビーに降りると徹さんが待っていて、私が持っていた大きな紙袋を奪う。
さも当然のように私の隣に立ち、腕をとる徹さん。
幸い今日は週明けの月曜日で病院も混雑しているから、私に気づくスタッフはいなかった。
「お大事に」
きっと私の素性なんて知らないであろう受付スタッフに笑顔で言われ、
「お世話になりました」
ペコリと頭を下げた。
「さあ、行こう」
腕をつかんだ徹さんが歩き出すと、私もつられて正面玄関へと向かった。
***
どうやら本当に早退して帰ってきてしまった徹さんは、私を車に乗せて自宅マンションへと向かった。
「つらかったらシートを倒して寝てろ」
「うん」
「何か食べたいものがあれば、買って行こうか?」
「大丈夫」
徹さんのマンションにはぎっしりと食材の詰まった冷蔵庫があるんだもの。
そこから好きなものを食べさせていただく。
「明日は午後から抜けられない会議があるんだ。暫く1人にするけれど」
えっ、
もしかして明日も休むつもり?
「私は1人で大丈夫だから、徹さんは仕事に行って」
じゃないと私の方がいたたまれない。
「何言っているんだ、病み上がりのくせに」
「・・・」
真っ直ぐに前を見たままハンドルを握る徹さんの横顔を見つめた。
病院に駆けつけたときこそ怒っていたけれど、今はとっても優しく声をかけてくれる徹さん。
その思いにどんな感情があるのか私にはわからない。
それでも、この2人の空間はとても安らぐ。もう少しこうしていたい。
「陣には本当に知らせなくていいのか?」
「うん。後で電話するから」
返事はしたものの、自分から連絡する勇気はない。
いつまでも黙っていることはできないけれど、もう少し時間が欲しい。
「そんな情けない顔するな」
徹さんが、チラッと私を見る。
「うん、ごめん」
なぜだろう、今日の私は謝ってばっかりだ。
***
マンションに帰り、私はリビングのソファーに横にされた。
もちろん抵抗はしてみたけれど、いくら「大丈夫だから」と言っても一切聞き入れてはもらえない。
こと体調に関しては、完全に信用を失ってしまったらしい。
ただ、この部屋は自宅に帰ったようにくつろげた。
漂う香りも、ソファーの感触も、カーテン越しの日差しも、自分のもののようになじんでホッとした。
ヤバイ、私はそうとう病んでいる。
「どうした?気分悪いのか?」
黙り込んでしまった私を覗き込む徹さん。
「ち、違うから」
突然至近距離から現れた顔に、思わず体を引いた。
ッたく、そんなに無防備に近づかないで欲しい。
徹さんがどういうつもりかはわからないけれど、意識してしまった私には刺激が強すぎる。
「顔が赤いぞ」
「平気だからっ」
伸びてきた腕をスッと避けて、私は背を向けた。
お兄ちゃんの親友で、7つも年上で、私のことなんて子供としか見ていない徹さんに恋をしてもどうしようもないのはわかっているのに、気持ちが止ってくれない。
医者になるんだって目標のために恋を遠ざけ、病気を言い訳に人と向かい合ってこなかった私は、思いを持て余している。
どうしよう、私、徹さんが好きだ。
***
冷蔵庫に作り置きされた惣菜を温めて夕食をとった。
お肉も、サラダも、煮物もみんな家庭の味で美味しかった。
徹さんが炊いてくれたご飯を食べる私の横で、ビールを飲む徹さん。
きっといつもこんな生活をしているんだろうな。
「お風呂は?」
「シャワーで、いいわ」
家でもほとんど浸かっていなかったから。
「熱を確認してからな」
「はぁ?」
「当たり前だろ、無理をせず、きちんと食べて、薬は毎食後、朝と晩は検温をして少しでもおかしいときは病院へ連絡する。ちゃんと注意事項を聞いてきたんだ」
「え、ちょっと待って、誰に聞いたのよ」
「病棟の看護師さん。病室を出たところで声をかけられて」
嘘。
いつの間に・・・
「他には何か話したの?」
「うーん、名前と、連絡先と、あとは・・・」
「あとは?」
「どういうご関係ですかって聞かれたから、友人ですって答えておいた」
「そう」
友人ね。
確かに、そうとしか答えられない。
でも、連絡先まで聞かなくても良いだろうに。
その時、
ピンポーン。
インターフォンが鳴った。
不思議そうな顔をして立ち上がる徹さん。
私も腰を浮かせ、画面に視線を向けた。
「はい」
徹さんの声の次に聞こえてきたのは
「俺だ」
最高に機嫌が悪いお兄ちゃんの声だった。
***
「乃恵、お前って奴は」
部屋に入ってくるなり徹さんの事は無視して私に近づいてくるお兄ちゃん。
「ま、待って、話せばわかるから」
あまりの形相に飛び上がり、窓の側まで逃げてしまった。
怖い。
それが率直な気持ち。
だって、こんなに怒ったお兄ちゃんを見たのは久しぶり。
「話せばわかるって言うなら、きちんと説明してくれ。入院したのに、俺に連絡しないってどうことだ?」
「それは、たいしたことはなかったし、知らせれば心配をかけるだけだと思って」
嘘ではない。実際1泊2日で退院できたわけだし。
「アパートはどうした?」
「えっと、それは・・・」
「借金取りに追われているって、どういうことだ?」
「・・・」
うーん、全部バレてる。
「乃恵っ、答えろっ」
どうしよう、お兄ちゃんが怖すぎる。
「陣、少し落ち着け」
見かねた徹さんが声をかけてくれた。
でも、
「徹、お前は黙っていろ。俺は今、乃恵と話しているんだ。お前との話はあとだ」
「お兄ちゃん」
10年来の親友で誰よりも心を許し信頼している徹さんに声を荒げるお兄ちゃんを見て、言葉が止った。
私は自分の都合ばかり考えて、取り返しのつかない行動をしたのかも知れないとこの時気づいた。
「乃恵、全て洗いざらい話してもらうぞ」
先ほどまでの怒鳴り声ではなく、少し落ち着いた声。
もう逃げられない。
ここで我を張れば徹さんとお兄ちゃんの関係を壊してしまう。
私は覚悟を決めて、正直に話すことにした。