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ずいぶん時間が経っても乃恵ちゃんは泣き続けていた。

陣は怖い表情で睨みを効かしたまま。

俺の部屋のリビングは、重い空気が充満している。


俺は、長谷川陣という男をよく知っている。

こいつにとって妹がどれだけかけがえのない存在なのかも、大切にしてきたのかもわかっている。

だから、この怒りは当然のものだと思う。


「乃恵、帰るから支度しろ」

しばらく携帯でどこかに連絡を取っていた陣が、ソファーから立ち上がった。


「帰るって、どこへ?」

さすがに、俺も聞き返した。


住んでいたアパートも解約してしまったし、ホテルを取るにしても、陣のマンションに行くにしても何の用意もしていないだろう。

どうするつもりだろうか?


「俺のマンションへ連れて行く」


「えぇー」

不満そうな乃恵ちゃん。


「行くぞ」


どれだけ反対したところで、陣は聞かないかもしれない。

でも、退院したばかりの乃恵ちゃんにできるだけ負担をかけたくない。


「今晩だけここに泊めたらダメか?」

ダメ元で口にしてみた。


「え?」

驚いた顔をする陣。


「ここなら着替えもあるし、布団だってある。何なら陣も泊っていけ」

それが乃恵ちゃんにとっても一番良い方法だと力説した。


苦虫を潰したような顔をして、陣は考え込んでしまった。


***


不機嫌そうに、不満そうに、随分悩んだ末に陣は決断した。


「わかった。今日は世話になる。俺も泊めてもらうから」


「ああ、そうしてくれ」


陣のことだから、乃恵ちゃん1人をここに泊めるなんて許すはずがないのはわかっている。


「明日には俺のマンションに連れて行くつもりだし、休んでいる間はできるだけ俺が付き添うから」


「そうか」


返事をしたものの、きっと無理をして時間を空けるつもりなんだろう。

何人かの従業員を使っているとはいえ、陣の力で回っているような会社を陣本人が何日も休めば、開店休業状態になる。

たまたま大きな仕事がなければ良いが、それによって仕事が遅れるようなことがあれば、会社の信用問題にもなりかねない。

どれだけ小さくても、会社を経営するってことはそれだけのリスクも負わなければならないんだ。

しかし、今の陣に「お前が休みなんか取って会社は大丈夫なのか?」なんて言えない。

そのことは本人が一番よくわかっていることだろうから。

ましてや俺に対しても怒っている陣に、俺の口からは絶対に言えない。


「とにかく、乃恵はもう寝ろ」

苛立ち気味に乃恵ちゃんを追いやる陣。


「はぁい」

乃恵ちゃんの方も、抵抗することもなくゲストルームへと入って行った。


***


乃恵ちゃんがゲストルームに入ってから、俺も陣もパソコンを広げて仕事を始めた。

家でできる仕事なんてたかが知れているが、少しでも前倒しして仕事をこなし明日以降の時間を確保したかった。


そんな中でも、15分に1度は部屋を覗き乃恵ちゃんの状態を確認しようとする陣。

やはり陣にとって乃恵ちゃんは特別な存在なんだと思い知った。


「人の苦労も知らずに気持ちよさそうに寝てるよ」

何度目かの確認から帰ってきた陣が独り言のように呟く。


「そうか」


ちょうど仕事の切りも良いタイミングだったため、俺も立ち上がり台所に向かった。



「陣、飲むか?」

冷蔵庫からビールを出して見せる。


「ああ」



適当なつまみも見繕い、缶ビールを2本テーブルに運んだ。


「お疲れ」

「ああ、お疲れ」


何がお疲れなのかと思いながら、ビールを流し込む。


「まさか、乃恵が徹のマンションにいるとはなあ・・・」

「あ、ああ」


やはり、この話は避けては通れないよな。


***


「と、言うわけだ」

完結に要点のみをチョイスして、陣に説明した。


こうなった以上嘘をついてもしかたがないが、余計な情報を入れる必要もない。

初めて出会ったときのことや発作を起した乃恵ちゃんをうちに泊めたことは言わずに、陣に紹介されたのが初めてで、たまたま送っていったアパートが荒らされていたから連れ帰ってきたと説明した。


どうやら警察に出した被害届から陣に連絡が入ったらしく、乃恵ちゃんの勤務先である病院へ連絡して入院したことも知っていた。

おおよその事情はわかっていたようで、俺の説明でそんなに驚かれることはなかった。


「アパートが荒らされているってわかった時点で、何で俺に連絡しなかった?」


2本目のビールを取りに行った俺に向かって声がかかる。


「うぅーん」

何でて言われても・・・


「きっと乃恵が、黙っていてくれって頼んだんだよな?」

「まあな」


「確かにあの時は仕事のトラブルで急の出張になったときだったから、知らせられても困ったんだが、」


「だろうな」

それも知らせなかった理由の1つではある。


「それでも、知らせて欲しかった」


怒ると言うよりは悲しそうな陣の声に、顔が見られない。


***


「それで、入院したのはいつ知った?」


「今朝だ。昨日、たまたま麗子が病院で会ったらしくて、」


「え、ちょっと待て。麗子って青井麗子?何であいつが出てくるんだよ」


「だから、土曜日に、乃恵ちゃんとアパートや警察の手続きに行く途中で麗子に会ったんだ。それで乃恵ちゃんのことも知っていて」


「はあぁ?俺の知らないところで、お前達何してるんだっ」


「別に何もしてないよ。偶然麗子に会って『誰なの?』って聞くから、『陣の妹だ』って答えた。それだけだよ」


そこに関して、やましいことはない。


「わかった。偶然麗子が乃恵と病院で出会った。そのことを今日徹は聞いたわけだ」

「ああ、そうだ」

間違っていない。


「じゃあ聞くが、なぜ俺に知らせなかった?」

「えっ、それは・・・」


「徹、お前とは長い付き合いだから、俺が乃恵の体のことを心配していることはよくわかっていたはずだよな?」

「まあな」


「アパートが荒らされていて帰れないから泊めてくれるのと、退院した乃恵をマンションに連れて帰るのは事情が違うぞ」


どういうつもりなんだと陣が聞いている。


俺が仕事を放り出して病院へ駆けつけた理由。

陣に知らせずに、マンションに連れ帰った理由。

それは、乃恵ちゃんのことが心配だったから、放っておけなかった。

でも、その行動の根拠は俺にもわからない。


***


「乃恵に泣きつかれたか?」


「まあ」

それもある。


「それでも、お前は知らせてくれるべきだったと思う」


コトンとビールをテーブルに置き、陣が俺を睨んだ。


「すまない」


テーブルに手をつき、頭を下げた。


陣の気持ちを考えれば、この怒りは当然だ。

俺には親も兄弟もいないから身内に対する特別な思いはよくわからないが、もしこれが孝太郎や一華だったらと思うと、理解できる気もする。

きっと俺なら、陣よりも激しく相手に詰め寄るだろう。




「なあ、徹」


今日はリビングのソファーで寝ると言って聞かない徹のためにブランケットを用意し、少しでも寝やすいようにと準備する俺を陣が呼んだ。


「何だ?うちのソファーはでかいから、お前でも窮屈なく寝られるぞ」


やはり、ソファーでは休まらないんだろうか?

だからって、ダブルベットとは言え陣と二人で寝る気にはならないし・・・

さすがに男一人暮らしの家に来客用の寝具なんてないから、ソファーで勘弁してもらうしかないんだが。


「寝床はソファーで十分だ。そうじゃなくて」


困った表情の陣。


「どうしたんだよ?」


乃恵ちゃんの体調が心配なんだろうか?

それとも、仕事のトラブルか?


「お前は、乃恵の事をどう思っているんだ?」


えっ?


一瞬にして、俺の周囲から音が消えた。


***


「金もあって、仕事もできて、見た目だって悪くはない。一見取っつきにくいがその愛想のなさを補って余るだけの好条件のお前だ、学生時代からもてていたじゃないか。それでも、特定の彼女がいたことはなかったよな?」


「ああ」


「お前は良い奴だし、信用できる人間だ。人とは少し違った環境で育ったせいで、他人に対しての警戒心が強いのも、心を許すことが苦手なのも、全てひっくるめて俺はお前のことを親友だと思っている」


「ぁ、ああ」

あまり褒められた気はしないが、とりあえず頷く。


「でも、乃恵のことは話が別だ」


「えっ?」


「お前は、俺にとってかけがえのない人間。俺が生きていく上でいてもらわないと困るんだ。でも、乃恵は俺の命だ。こいつのためになら俺は命を投げ出せる。こんなことを言うとシスコンみたいでイヤだけど、乃恵がいなければ俺の人生なんてもうどうでもいい」


「陣・・・」


家族を持たない俺に、陣の気持ちはわからない。

でも、その真剣さは伝わってきた。

もし乃恵ちゃんに何かあれば、陣はためらうことなく俺に刃を向けるだろう。


「だから、聞くんだ。徹、お前は何を思って乃恵をここに連れてきた?」


「それは・・・」


「それは?」


「・・・」

明確な答えなんてない。


何か言わないとと思うのに、良い言葉が浮かばない。

それ以前に、自分の気持ちがわからない。


結局、黙ってしまった俺。

しばらく俺のことを睨んでいた陣も、諦めたように肩を落とした。


***


「明日の朝、乃恵を連れて帰る。仕事もなんとか休めそうだし、俺のマンションで面倒をみる。荷物は少しずつ運ぶから、もうしばらく置かせてくれ」


部屋の隅に置かれた大きめのバックを見ながらも、陣の表情は冴えない。

冷静を装ってはいるが、まだどこか苛立ちを含んでいる。


「ああ、わかった」


どれだけ止めたところで陣は聞かないだろうし、反対する理由もない。

俺は部外者でしかないんだから。


「乃恵の窮地を助けてくれたことは感謝するが、今後は何かあれば俺に知らせてくれ」


長年の友人である俺に随分気を遣いながらも、陣は怒っている。

本心は、『今後は乃恵と関わるな』と言いたいんだ。


「わかった。すまなかった」


自分のとった行動に後悔はない。

無鉄砲に突っ走る乃恵ちゃんを放っておくことはできなかった。

でも、陣の気持ちを考えれば詫びるべきだと思えた。


「もういい、シャワー借りるぞ?」

「ああ」


すっかりいつもの顔に戻った陣は部屋から出て行った。


***


じゃ、俺も寝るかと腰を上げる。

その前に乃恵ちゃんの様子でも見ようと考えて、やめた。

もう俺の出る幕ではない。

彼女には陣がついているんだから。


その時、


「あれ、お兄ちゃんは?」

寝ているはずの乃恵ちゃんが顔を出した。


「風呂に行った」

「そう」

冷蔵庫から水を出し、立ったまま流し込む乃恵ちゃん。


こうしてみると元気そのものなんだがな。


「体は大丈夫?」

「ええ、もうすっかり。お兄ちゃんにもバレてしまったし、返ってすっきりしたわ」

「そうか」


秘密を持つってことは気が重いものだから。

結果、これで良かったんだ。


「お兄ちゃん、大丈夫だった?」

「え?」


「だって、随分怒っていたし、徹さんと喧嘩にでもなったらイヤだなって」


あれだけ陣に怒られていたくせに、俺のことを心配する乃恵ちゃんがかわいい。


「俺は大丈夫だ。病人は余計な心配しなくていいから、早く寝ろ」


本当はもっと優しいことを言ってやりたいのに、つい無愛想な言葉になった。


「はいはい。じゃあ、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


パジャマを着てゲストルームに戻る後ろ姿。

細くて白くて、ポキンと折れてしまいそうなのに、芯は強い。

不器用でどんくさくて、それでも自分のキャパを無視して突っ走る無鉄砲さに惹かれている。

ヤバイ、俺はそうとう重症だ。


たった数日で随分と慣れてしまった乃恵ちゃんとの生活。

今日で終わりと思うと、

なんだか、寂しいな。

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