時也の周囲に風が吹き抜けたかのように
桜の花弁がふわりと舞い上がる。
それはただの花吹雪ではない。
薄紅の光を帯びたそれらは
空中でひととき閃きを保ち
観る者の瞳に幻想を差し出す暇を与えぬまま
やがて凝り固まった意志となって
宙に留まった。
花弁の発光が収まると同時に
花弁から無数の桜の枝が
先端を鋭く研いで蜘蛛の脚のごとく伸び出す
枝は節ごとにしなり
空気を切る音もなく
男の顔の前でびたりと止まった。
光と影が交錯し
世界の輪郭が刃のように鋭くなる。
枝の先端は男の頬の数センチ前で止まり
冷たい静寂の牙を覗かせた。
男はその異様な光景に
声を発することすら忘れ
ただ目を見開くばかりである。
「言え⋯⋯!
次にその悪趣味な催しが行われるのは──
いつだっ!」
時也の声は怒りによって震えていたが
その震えはもはや俗世の言葉ではなく
断罪の鐘のように澄んでいる。
鳶色の瞳は
相手の奥底を引き裂くように凝視し
彼の全身から放たれる熱が
周囲の空気を痺れさせた。
枝の影は男の顔面に幾重にも映り込み
その輪郭に不気味な網を作る。
「⋯⋯ば、化け物、か⋯⋯っ!」
男の声は喉から引き裂かれるように出た。
恐怖に脳が支配され
正確な言葉は出ない。
思考は断片化し
心の回路は戦慄で途切れた。
時也の読心術は甘くない。
普段なら透けて見える内面が
今は怯懦と混乱で濁り
詳細は掬い取れない。
それが、時也の苛立ちを殊更に深めた。
知らねば。
聞かねば。
暴かなければ──
その欲求が牙を剥く。
「えぇ。
こんな非道なことを
平気で行える奴らを潰せるならば
〝俺〟はいくらでも──化け物になる!!」
時也の宣誓は
静かなる雷鳴のように場を震わせる。
いつもの礼節は影を潜め
代わりに冷酷と慈悲の境界が瞬時に溶け合い
彼を異形たらしめる。
花弁の群れは一層密を増し
枝の端は鋭く
しかし、石畳に映る影は
怒れる翼のようだった。
これは殺意の展示であり
同時に救済を誓う者の〝祭祀〟である。
ソーレンが肩越しに低く笑った。
煙草の先端が赤く滲み
薄い煙が断末魔のように漂う。
「お前、もう観念してよぉ──
洗いざらい吐いちまった方がいいぜ?
いつも穏やかな時也が
〝俺モード〟になったら⋯⋯
悪いが、俺らでももう止められねぇ」
その声音は脅しでもあり
同時に慰留でもある。
ソーレンは粗削りな外殻で感情を隠すが
内心では時也の持つ烈火を尊重している。
剥き出しになったその意思が
いかに破壊的かを彼は知っているのだ。
アラインは指先でトークンを弄びながら
唇に薄氷のような笑みを彩る。
氷色の眼差しが、男を撫でるように注ぐ。
「もし、ありったけの情報を寄越すなら⋯⋯
命だけは助けてあげるように
優しい優しいボクらが彼を説得してあげる。
その代わり──
ボクの〝本物の慈善団体〟の一員として
働いてもらおうかね?」
アラインの声は甘美で
そこにこもる条件は狡猾だった。
慈善の名で己を飾り
不浄の市場を回す者たちを
労働の名の下に回収する。
だがその〝慈善〟と称するものの裏には
厳格な審判と再教育の誓約があるだろう。
言葉はささやくように温かく
同時に刃を含んでいる。
男は喉を震わせ
口を開くべく力を振り絞る。
だが恐怖に満ちた目の奥はまだ確信を欠き
言葉は砂のように口内で崩れた。
彼の唇は引き攣り
額から滴る汗は、石畳に小さな光る輪を作る。
空気は再び
静止したかのように濃密になっていく。
時也の周囲の桜の光は淡く燃え
枝の網は男の逃げ道を根こそぎ塞ぎ——
問答は、もはや時間の問題となった。
だがそれでも、問いの核心は残る。
いつ。どこで。誰が。
その答えは
男の心から絞り出されるか
それとも時也の化け物じみた決意が
静かに執行を宣告するか。
廃墟に落ちる午後の光は
三人の影を長く伸ばし
石畳に刻まれた暗い輪郭を深めていく。
男が口を割るかどうか──
その瞬間までは
空気は鋭く、そして冷たく、張り詰めている
桜の枝の先端が
眼前に突きつけられていた男は
喉の奥から掠れた声を洩らすと
やがて肩から力を抜き、視線を地へ落とした
その眼差しは、もはや挑む鋭さを失い
ただ己の命を繋ぎ止める算段を
模索する者の色を帯びている。
上に知られれば、即死。
だが──ここで口を割れば
あるいは生き延びる余地が残るかもしれない
その僅かな希望が
逆に身体の力を奪い取り
脱力した姿は観念の影を宿していた。
やがて、時也の読心術に乗って
断片的な声が浮かび始める。
「⋯⋯医療チャリティー⋯⋯
解剖学講習会⋯⋯二日後⋯⋯」
途切れ途切れに
しかし確かな意識の残滓が時也に届いた。
「概ね、開催場所も把握できました。
⋯⋯これ以上の情報は
この方からは引き出せないでしょう」
時也は淡々と断じると、枝を静かに引き戻し
視線を外した。
男への興味を切り捨てるかのように踵を返し
ソーレンの方へ歩み寄る。
ソーレンは短く鼻を鳴らし
胸ポケットから煙草の箱を取り出すと
ライターごと差し出した。
「⋯⋯吸って落ち着け。
吐き出す煙の方が、幾分マシだろう?」
時也は小さく頭を下げ
一本抜き取って咥えた。
火を点けると、紫煙が細く天へと昇り
鳶色の瞳の奥に燻る烈火を
僅かに和らげていった。
その隙に、アラインがゆったりと歩み出る。
長身の影が石畳に落ち
拘束され、項垂れた男の傍らに膝を折る。
その仕草は
冷徹さと優雅さを同時に纏っていた。
「⋯⋯ふふ。キミは利口な判断をした。
命惜しさに口を割るのは卑怯かもしれない。
だが、愚かに沈黙して死ぬよりは──
ずっと生き残る価値がある」
その声は甘く響き
同時に男の首筋を
氷刃でなぞるかのような冷たさを孕む。
「さぁ。
これからはマフィアではなく
ボクの庇護の下で生きてもらおう。
安心しなよ。
キミの仲間も皆、己の罪を知って
ボクのもとで贖罪している。
アパルトメントの工事現場
それを管理するガーディアン
街を護る自警団⋯⋯
人手はいくらでも欲しいんだ。
神父の衣を纏ったこのボクが──
キミを導いてあげる」
言葉の最後に
アラインは指先をひらりと揺らし
そして、鳴らした。
──パチン
その音と同時に
男の身体は糸の切れた人形のように
地面へ崩れ落ち、意識を失った。
「ようこそ──ノーブル・ウィルへ」
冷ややかで
しかし、救済を装う声音が廃墟に残響する。
脅威が去ったと悟ったのか
アビゲイルの胸から長い溜息が漏れた。
震えの残る吐息だったが
その声音には安堵も滲んでいた。
時也は紫煙を最後に細く吐き
携帯灰皿を袂から取り出す。
火を消し去る仕草まで律儀で
そこに漂う静謐は
先ほどの烈しき怒りとは別人のようであった
アビゲイルの傍に屈み
柔らかな声音で告げる。
「今日は⋯⋯
とても恐ろしい想いをさせてしまいましたね」
少女は慌てて首を振り
涙に濡れた瞳を瞬かせる。
「い、いえ!
ルキウスが護ってくださったおかげで
傷ひとつございません。
どうか、そんなお顔をなさらないで⋯⋯!」
「⋯⋯ルキウス、大義でした。
よく護り抜いてくれましたね」
「お褒めに与り、光栄でございます。
時也様」
桃色の翼が恭しく揺れる。
だが、そのやり取りの間に
アラインが口を尖らせた。
「ちょっとちょっと!
ボクには一言もなし?
ボクが腕を貸したから
この場は収まったんじゃないの?」
拗ねたように声を上げるアラインに
時也は振り返り、穏やかに微笑む。
「アラインさんにも、深く感謝しています。
ですが⋯⋯ルキウスの実力は
十分にご覧になれたでしょう?
次は、もう少し早めに
動いてくださると助かります」
アラインは一瞬驚いたように瞳を瞬かせ
それから唇を吊り上げた。
「⋯⋯おやおや、見抜かれていたか。
ねぇ?キミのラルシュに潜ませている烏も
同じように腹が割れるのかい?」
「いえ。
ルキウスはアビゲイルさんの加護によって
生まれた式神ですから──」
時也は
肩に止まる桃色の羽を優しく撫でた。
その仕草に
アビゲイルは顔を赤らめ、胸に手を握る。
「護衛に問題はなさそうですね。
⋯⋯ルキウス。
アビゲイルさんを、桜までお連れしなさい」
「御意に」
「え⋯⋯?
時也様は、お戻りになられないのですか?」
少女の問いに、時也は静かに首を振る。
「申し訳ありません。
ですが、これからの話は
貴女の耳に入れるべきものではありません。
それに⋯⋯まだ、エルネストさんの
ベッドのマットレスも買っていませんから」
「⋯⋯わかりましたわ」
アビゲイルは
彼の瞳に揺らめく決意を感じ取り
己を納得させるように
胸の前で手を握り締めた。
「ルキウスが一緒なら
心配はありませんわ!
では、時也様、ソーレンさん、また桜で!
アライン様⋯⋯本日は命を救ってくださり
感謝いたします!」
アラインは片手を振り、肩をすくめる。
「はいはい。またね。
⋯⋯ 少しは自制心が身についたみたいだね」
「ふふっ!
お褒めの言葉と受け取りますわ!」
弾む声を残し
アビゲイルは駆け出していく。
その後を
桃色の翼を広げたルキウスが追従した。
時也とソーレンは同時に首を傾げ
小さく呟く。
「⋯⋯自制心?」
廃墟の残響の中
二人の訝しむ声音だけが僅かに重なった。
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