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陽の欠片が、崩れた天窓から差し込み
埃と煙の中で、ゆらりと揺れていた。
アビゲイルの小さな背が角を曲がり
桃色の羽が
最後の一閃を残して消えるのを見届けると
廃墟の空間は沈黙を取り戻した。
風の抜ける音さえも遠のき
代わりに、煙草の火が微かに燻る音だけが
空気を焦がしていた。
その光の筋の中、三人の影だけが残っている。
静寂の中で、アラインが軽く掌を打った。
「さて──
清純なお姫様は退場、ってわけだね。
では、ボクら現実の亡者は⋯⋯
続きを始めようか」
その声音には
軽やかさと毒が入り混じっていた。
まるで
聖典の頁を指先で破るような無遠慮さ。
時也は静かに息を吐いた。
その吐息には
嫌悪と、赦しの狭間で軋む痛みが滲む。
鳶色の瞳を伏せ、言葉を絞り出す。
「⋯⋯耳を塞ぎたくなるような
悍ましい内容でした。
〝医療チャリティー〟
そして〝解剖学講習会〟──
それらの名を借りた、上流階級向けの宴。
食事と音楽
そして⋯⋯〝命の分配〟という余興。
彼らは、人を⋯⋯物としか見ていません」
言葉の端が震えた。
それは怒りではなく
絶望に近い静かな炎だった。
ソーレンが新しい煙草を咥え、火をつける。
火花が一瞬、紅い稲妻のように光った。
「⋯⋯クソだな」
煙を吐き出すその声は低く
鉄のように重かった。
吐息の先には、灰ではなく
腐敗した人間の世界が広がっている。
アラインはその沈黙を破るように
ゆっくりと笑った。
柔らかな笑み──
だがその奥に、底無しの冷たさが潜む。
「クソ⋯⋯か。まぁ、確かにそうだね。
でも彼らにとっては〝命〟も〝死〟も
ワインと同じ扱いなんだろう。
古ければ芳醇、新しければ刺激的──
きっと、血液型でヴィンテージを語るんだ」
時也が顔を上げた。
アラインはその鳶色の瞳に
冗談めかした残酷さで微笑む。
「ほら
ノーブル・ウィルが運営してる 孤児院だって
同じように
〝寄付者限定〟のパーティーを開くだろう?
違いがあるとすれば
ボクのところでは〝心〟を解体して
〝信仰〟を売ってるってとこさ。
──せめて、手術器具じゃなく
祈りで開いてる分、まだ清潔だろう?」
乾いた笑いが、廃墟の天井を打って砕けた。
ソーレンが眉を顰める。
「──ちっ。笑えねぇ冗談だな」
「冗談じゃないさ、ソーレン。
〝救済〟を標榜する者ほど
綺麗な顔で血を流すんだ。
慈善も宗教も、神の代行という名の商売。
彼らが切り売りしてるのは──
人間の幻想そのものだよ」
アラインの声は淡々としていた。
だが、その笑みの裏には静かな炎が見えた。
信仰も倫理も
腐敗の上で熟れ落ちると知っている者の
醒めた光。
時也はその言葉を聞きながら
一瞬だけ拳を握りしめた。
「⋯⋯なら、せめて僕たちは
〝違う道〟を選ばねばなりませんね」
「違う道?」
アラインが小首を傾げる。
「ふふ⋯⋯道なんて最初から一つしかないよ
踏み潰すか、踏まれるか。
どちらに立つかは──
選ぶ者の心の潔癖次第だ」
その瞬間、廃墟を満たしていた光が傾いた。
沈みゆく夕陽が、三人の顔を赤銅色に染める。
時也の瞳の奥では、なおも静かな怒りが燃え
ソーレンの煙がその火を隠すように流れ
アラインの笑みだけが──
その赤を鏡のように反射していた。
まるで地上に降りた悪魔が
救済の話をしているかのように──⋯
風が吹けば
剥がれかけた壁紙が 悲鳴のように揺れ
崩れた天井から落ちる塵が
金色の粉塵のように漂った。
時也は
静寂を切り裂くように言葉を発した。
「⋯⋯それよりも、アラインさん。
貴方はこの組織に
心当たりがあるんですか?」
その声には怒りの余熱が残っていたが
同時に理性の鋭さもあった。
鳶色の瞳がまっすぐに向けられると
アラインは口元に微かな笑みを浮かべた。
冷たくも上品な弧を描く唇。
その奥に隠されたものを
時也はまだ知らない。
「人身売買に手を染めるマフィアは
近年増えたからね」
アラインの声音は軽い。
だが、その響きの裏では
薄氷のような緊張が漂っていた。
「それに
〝医療チャリティー〟を名乗るだけの
権威を持っているなら
バックには何らかの学会
あるいは財団がついているはずだ。
資金の流れが複雑で
上層の監査にも手が回らない大口の団体。
そうなると⋯⋯いくつか心当たりはあるよ」
指先でトークンを弄びながら
アラインは気を失ったままの大男へと
視線を滑らせた。
その瞳は
まるで虫を解剖する学者のように冷ややかだ
「たとえば
医学会の外郭を装った〝研究連盟〟──
合法と違法の境界線を曖昧にして
慈善と医療の名を借り
裏で〝素材〟を回してる奴らだ。
上層は学者、下層はマフィア。
倫理委員会もスポンサーも
誰も手を出さない。
それが彼らの美学であり、免罪符でもある」
ソーレンの口端で、煙草の先端が揺れる。
火の粉が灰となって崩れ落ちた。
「ま、あとは──
コイツから詳細を抜き取るよ」
アラインは軽く肩を竦めた。
その声には、飄々とした響きが戻っている。
だが、その笑みは人を試すものだった。
彼の足元には
なおも気を失った大男が転がっていた。
アラインはその姿を一瞥し
唇の端をわずかに歪める。
「情報取得に関しては
時也の読心術じゃあ⋯⋯
相手が〝心の中で思い浮かべて〟くれないと
難しいだろ?
その点、ボクのやり方はもっと効率的さ。
──記憶そのものを、直接抜き取れる。
ただし⋯⋯」
彼は指先を軽く鳴らし、声を低めた。
「便利さゆえに、制約は大きい。
関係性の〝密度〟が必要なんだ。
それでも──今やこの男は
キミたちのおかげで
晴れてボクの〝庇護下〟にある。
条件は、彼が目覚めてから
いくらでも整えられるさ」
その語り口は穏やかで
どこまでも理性的に聞こえる。
しかし、鳶色の瞳に映るその姿は
どこかぞっとするほど冷たい。
(ふふ。
ボクの異能が〝記憶改竄〟だと知らずに
まだ信頼を向けてくれるのかい、時也。
誠実でなければならない。
ボクは、キミの信じる〝光〟でなければ。
だが⋯⋯
この炎を見られる機会を逃すつもりはない。
怒れる天使──
キミがどんな地獄を見せてくれるのか
ボクは見たいんだ)
アラインの内心は
氷の奥で静かに沸騰していた。
口元には笑み。
心には、試練と観察の刃。
「ま、今のうちに考えておくといい。
一番面倒なのは〝招待状〟の入手さ。
内容が内容だ。
参加者は選ばれ、出入りは徹底管理。
観客リストは封印され
会場は二重警備、 顔認証に指紋照合。
余程信頼ある会員からの譲渡でもなきゃ──
まず無しに潜入は不可能だろうね?」
ソーレンが煙を吐きながら肩を竦めた。
「つまり、金持ちどもの地獄見物か」
「そう。金で買う──〝罪〟の観劇さ」
アラインは静かに立ち上がった。
背後の光が彼の黒髪を縁取り
白い指がゆるやかに宙をなぞる。
その姿は神父でも、詐欺師でもない。
──血と祈りの境を歩く者。
「でもいいじゃないか、時也。
次の舞台はボク達が入り込むことによって
〝贖罪〟と〝断罪〟が同時に幕を開ける。
⋯⋯キミにぴったりの劇場だよ」
淡い笑みとともに
アラインの瞳にかすかな狂気が宿る。
まるで、美しい獣が──
檻の中から天使を見上げているかのように。
廃墟の空気が
再び静謐と沈痛の淵を滑り落ちるように
沈んだ。
時也の鳶色の瞳は
まるで氷の芯に燈る火のように
澄み切っている。
彼の周囲を満たしていた桜の光は淡く揺れ
そこに宿るのは裁きの炎──
柔らかくも凶暴な光の輪であった。
「贖罪と断罪の舞台、ですか⋯⋯
そんな、生優しいものに
する気はありませんよ」
その声は低く、しかし確信に満ちていた。
音の端に牙が含まれ
言葉の奥底には既に決定された意志が宿る。
廃材の粉が微かに舞い上がる中
時也の一語一語が空気を切り裂く。
「⋯⋯へぇ?なら、どうするんだい?」
逆に──
アラインの問いは柔らかく、蜜のように甘い
だが、その甘さはすぐに棘に変わる。
彼の笑顔の裏で
観察者としての渇望が白く光っていた。
時也の答えを待つ表情が
期待の色を隠せないままで。
「〝根絶〟いたします」
言葉はそれ自体が刃であった。
三人の輪郭に、瞬時に冷厳たる影が落ちる。
鳶色の眼差しはとめどなく赤く燃え
静かな狂気を帯びる。
そこには贖罪の余地も、躊躇もなかった。
根絶──それは消滅を意味し
〝救済の名に似せた、断罪の業火〟である。
アラインはその宣言を聞き
身体の隅で恍惚をこらえたように見えた。
笑みが一瞬だけ歪み、顔の輪郭に影が差す。
「あぁ⋯⋯任せてよ、時也⋯⋯
キミの〝正義〟のために
ボクが招待状を入手してみせるからさ」
声は甘く
だが、中には決意を覆い隠す熱が潜む。
アラインの胸中で蠢くもの──
それはただの協力心ではない。
時也の烈火を
天使の怒りを間近で見るための
自らの激情のための誘惑であった。
恍惚を必死に隠す彼の表情が
白い指先の細やかな震えにだけ漏れ出す。
「えぇ。頼りにしています、アラインさん」
時也は短く頷き
言葉に嘘のない信頼を乗せる。
彼にとって、アラインは
〝協力者〟であり
信じるに足る光であらねばならない。
だからアラインは本質を隠し
外套の善意を滑らかに纏って見せる。
「じゃあ、猶予はあと一日半しかない。
ボクは早速動くことにするよ。
また──二日後にね。時也、ソーレン」
「はい。⋯⋯二日後に」
交わされる約束は短く、刃物のように鋭い。
時の砂は既に、残り少ない。
アラインは背を向け
一歩を踏み出したその刹那——
「──あっ!」
時也の声が、突如として荒唐無稽な
しかしどこか人間臭い緊張を砕く。
緊張の糸が緩む瞬間
アラインもソーレンも
驚きと苛立ちを籠めて時也を振り返った。
「⋯⋯なぁに?お別れのキスでも忘れた?」
アラインが嘲るように呟く。
「エルネストさんのマットレスを
買うのを忘れていました!!」
時也の声は
先程までの断罪の炎を思わせる震えとは
対照的に──
どこか抜けた無垢さを伴って弾んだ。
あれほど 赤々と燃えさせた
殺気を抱えた直後に放たれる日常の凡事。
この唐突な生活感が
三者の間に奇妙な均衡を生む。
「なんだよ。
てっきり、狩りの合図なだけかと思ったが
それもマジだったのかよ」
ソーレンの声音は呆れ混じりで
煙草の先が眉間の緊張が解れるのを
薄く照らす。
アラインは時也の言葉に
思わず唇を歪ませた。
ふと浮かぶ微かな嘲笑を
陽の縁に溶かしながら
彼は内心で小さく笑みを噛みしめる。
――嗚呼。なんと人間らしい禅問答だ、と。
「⋯⋯ふふ。
ボクのお気に入りのお店に
まだ開けといてくれって
連絡しておいてあげる。
場所は⋯⋯
ソーレンの携帯に送っといてあげる。
とりあえず、そこの大通りを西に向かってて」
アラインは軽やかに提案し
手の指先でスマートな所作をなぞるように
指示を出す。
慈善の仮面を掛けつつ
狩りの匂いを絶やさぬその所作は巧妙であり
それが彼の矜持でもある。
「助かります、アラインさん。
危うく、彼を床に寝かせるところでした。
それでは──失礼します。
急ぎますよ、ソーレンさん!」
時也の声は柔らかくも確かで
ソーレンに先を促す。
彼の決意は
日常の雑事すらも使命として紡ぎ込む。
「⋯⋯やれやれ。
せっかくの天使が
ただの聖人に戻ってしまったか⋯⋯
まぁ。二日後にまた、見れるよね──」
アラインは背中越しに呟き
小さく肩をすくめた。
その言葉の裏で彼の胸は高鳴る。
――二日後。
劇場の幕が上がるその時
彼は最前列で時也の顔を見据え
天使が血に染まる瞬間を
心の中で待ち焦がれている。
表向きは協力
内心は己が愉悦のための策略。
彼の恍惚は
誰にも触れさせぬ密やかな祝祭である。
廃墟の夕陽は
それぞれ歩き出した三人の影を引き伸ばし
石畳に赤銅色の線を描いた。
約束の時間は──刻一刻と迫る。
刻まれた刃のような言葉は
既に運命の輪郭を描き始めていた。