お母さんが亡くなったのは梅雨の真っ只中――六月下旬のことだった。
朝からひっきりなしに降り続く大雨のなか。
前日夕方に「お母さん、今日はおしっこが出ないのよ」と話してくれたお母さんは、夜には意識を失って。
その状態のまま苦しそうにずっと喘ぎ続けた。
半日以上そんな状態が続いたあと、痛み止めのモルヒネを投与したら、まるで苦しみから解放されたように永遠の眠りについたのだ。
『お父ちゃんとお母ちゃんが来るのを待ってくれとったんじゃね』
祖父母がそうつぶやいたのは、その日自営業の締め日で、どうしても片付けなければならない仕事を片してからでないと、病院へ駆けつけることが出来なかったからだ。
先生からはモルヒネを使ったらきっと、お母さんは楽になるけれど、恐らくそのまま旅立つだろうと言われていた。
私もお父さんも、お母さんを大好きな両親に見送らせてあげたかったから……。
祖父母の仕事の目処が立つまでは、先生にお願いしてモルヒネの投与を待ってもらったのだ。
結果的にお母さんを長いこと苦しませることになってしまったけれど、両親に手を握られて母を送ることが出来たことを後悔はしていない。
祖父母が駆けつけてからモルヒネを投与して母が旅立つまでの数時間は、みんな声には出さなかったけれど母の死を待っている時間だったんだと思う。
大切な人との別れは辛い。
でも、十分過ぎるほど頑張ったお母さんに、誰も頑張れなんて言葉は掛けられなかったし、何なら「もう楽になってもいいよ」とさえ思うようになっていた。
それほどまでにお母さんが旅立った日の様子は壮絶で、見ていて本当に辛かった。
こんなに苦しんでも、人は簡単には死ねないんだなと……。
病気で死ぬということのしんどさをまざまざと見せつけられて。
何度閉じても薄らと開いてしまうまぶたのせいで、すっかり干からびてしまった白濁したお母さんの眼球を少しでも保護したくて……濡れた脱脂綿を両目に乗せたこと。
喘ぎ声に混ざる喘鳴が凄く苦しそうで、看護師さんにお願いして痰を吸い出してもらうたび、血が混ざるのを見て呼吸を取るべきか、痰をそのままにすべきかを悩んだこと。
意識を失っているのに懸命に肩で息をしながら、病室の外まで聞こえる大きな声で喘ぎ続けていたお母さんの声を、私はきっと一生忘れられないと思う。
お母さんはいつになったらこの苦しみから解放されるんだろう。
そんなお母さんの姿を間近で見ながら、私はずっとそんなことを考えていた。
***
「たっくん。私、たっくんのお陰でお母さんにウェディングドレス姿を見せることが出来て……本当に幸せだったよ。有難う」
たっくんはお母さんがまだ比較的元気な間に、私に花嫁衣装を着せてくれて。
自分の足のリハビリと仕事の合間を縫うように病院のスタッフさんとの交渉もしてくれて、私はたっくんと二人、新郎新婦としての姿をお母さんに見せることが出来た。
それは、お母さんが亡くなるつい数日前のことだったから。
お母さんに、お嫁さんになった自分の姿を見てもらえたのは奇跡だったんじゃないかと思う。
もちろん、お母さんが亡くなった日も、お通夜や葬儀のときも、たっくんは私のそばでずっと私を支えてくれていた。
それが、どんなに心強かったか――。
『足がこんなじゃなけりゃ、もっと役に泣てたんだけど』
母の棺桶を持ち上げたりと、男手がいる時に手助け出来なかったことを悔やむたっくんに、私は『そばにいてくれただけで凄く有難かったよ』と告げて。
『足が治ったら、沢山沢山力仕事をしてね』と付け加えたら、たっくんは照れ臭そうに『任せといて』と微笑んでくれた。
本来ならば先に済ませなければいけなかったたっくんのご両親――波野家――へのご挨拶や、両家の顔合わせ。それから式場を押さえての挙式や入籍などは、お母さんの四十九日が済んでから動こうと二人で話した結果、どんどん後回しになって。
お母さんが亡くなったのは六月末だったのに、あれやこれやと片付けていたら、思いのほか時間がかかってしまった。
気が付けば、私とたっくんのことが正式に全て済んだ頃には二月初旬になっていた。
その間、たっくんは『せっかくの準備期間だ。婚約者気分を味わおう?』と言って、私にダイヤの付いた婚約指輪を贈ってくれて。
私はウェディングドレスを着た後にエンゲージリングを薬指にはめるという、一般的な花嫁さんとはちょっぴり順序がごちゃごちゃなお嫁さんになった。
でも――。
挙式も何もかも全てが終わった今、私の左手薬指にはたっくんとおそろいのシンプルな結婚指輪がはまっている。
***
「たっくん、ごめんね。私のせいで色々あべこべになっちゃって」
アパートを新しく借り直してたっくんと二人。愛フェレットの直太朗を連れ子に、私は新生活を始めたばかり。
伴侶を亡くしたお父さんを一人にするのはすごく心配だったけれど、お父さんは犬や猫に囲まれて毎日忙しくしているから大丈夫だ、と私の背中を押してくれた。
お母さんが亡くなってから半年以上。
私がウダウダと自分のそばを離れずに一緒に暮らしていたことを、お父さんは結構もどかしく思っていたみたい。
お母さんが存命の頃は、炊飯器でご飯を炊くことも出来ないような、典型的な昭和男だったお父さんが、お米を研いで自炊をするようになって。
メバルの煮つけを作ってくれて、それを私にふるまってくれながら、「わしは何でも一人で出来るようになったのに、菜乃香はいつまで建興くんを待たせるつもりだ?」と叱られてしまった。
***
「お義父さんの家もさ、そんなに遠いわけじゃないし、ちょいちょい様子を見に行けばいいよ」
やっと引っ越しの荷物が片付いて、二人並んでコーヒーを飲んでいたら、たっくんがそんな風に言ってくれた。
実際実家とアパートは車で十分とかからない距離。
たっくんが、一人暮らしのうちの父を気遣って、うちの実家近くにアパートを探そうと言ってくれた結果だ。
たっくんのご両親は二人とも健在だから、それほど心配しなくていいからね、と言うのがその時のたっくんの言い分だった。
「うん、そうだね」
とはいえ昭和気質な父のことだ。
きっと、余り頻繁に顔を出していたら、『旦那を蔑ろにするな。わしのことはそんなに気にせんでええ』って叱られてしまうんだろうな。
そのくせ一週間以上電話をしなかったりすると、『たまには連絡してこんと、わし、一人で死んで、臭ぉなっとるかもしれんで?』とか言ってくるタイプ。
それがうちの父だ。
本当、面倒くさい人――。
母が存命の頃は、お母さんがクッションになってくれていたからそこまで感じなかったけれど、お父さんがひとり身になって、そういうのを強く感じさせられるようになった。
お母さんは、お父さんのこういうのをみんな受け止めてくれていたんだなぁと、母の偉大さを感じて。
(ホント、お母さんには敵わないな)
ふと母のことを思い出したら、もう会えないことが悲しくなって、胸の奥がキュッと切なく疼いた。
「……菜乃香?」
そうして私の旦那様――建興くんは、そんな私の心の機微を敏感に感じ取って気遣ってくれる人。
「ちょっとね、お母さんのこと思い出してしんみりしちゃった」
淡く微笑んだら、コーヒーカップを卓上に戻したたっくんが、私の手の中のカップもスッと奪い取って同じようにして。
「素敵なお母さんだったもんな」
ギュッと私を抱きしめてくれた。
「きゃっ」
すっかり足も良くなったたっくんは、そのまま私を横抱きに抱き上げると、寝室へと向かう。
「あ、あの……たっくん?」
「寂しそうな菜乃香の顔見てたら、慰めてあげたくなった」
だなんてもっともらしいことを言ってくるけれど、その瞳は情欲を孕んでいて。
「明日も仕事なのでお手柔らかにお願いします」
私はたっくんの首筋にギューッとしがみ付いてそうお願いした。
***
たっくんのお仕事は十七時半、私は十七時が定時。
アパートから職場への距離も私の方が近いから、何かない限り、夕方は私の方が先に帰宅する。
実際今日もそうだった。
たっくんと結婚して一ヶ月ちょっと。
二人での生活にも大分慣れてきて、お互いに出来ることを助け合って仲睦まじく暮らしている。
カレンダーは三月になっていて、市役所では人事異動に向けて、ちらほらと辞令が出始める頃。
私はたっくんの帰りを待ちながら、ふと、ここ数年この頃になるとなおちゃんが調子を悪くしていたことを思い出していた。
と言うのも――。
***
会社から帰ってきて、スーパーに立ち寄って。
三〇%引きの鶏もも肉を見付けて、それを使った献立をレシピサイトでアレコレ検索している最中に、なおちゃんから着信が入ってきたから。
もちろん出るつもりなんてなかったのに、スマートフォンの画面を操作中だった指が、誤って通話ボタンをタップしてしまった。
『――もしもし、菜乃香? 緒川だけど……元気にしてた?』
懐かしいなおちゃんの声に、一瞬心が過去へ引きずられそうになる。
そのせいでかな。思わず、「うん」と答えてしまってから、私は慌てて口をつぐんだ。
『そっか、良かった。俺は最近ちょっと不調でさ。昔みたいに菜乃香の顔見たら元気になれそうな気がして……今更だし……すげぇ迷ったんだけど我慢出来なくて電話してみた』
聞いてる?と付け加えられて、私はすぐにはリアクションが取れなくて。
『なぁ菜乃香。色々思ってることあるだろうけど……一度会えないかな? 頼むから俺を助けると思って顔見せてくれよ。俺、菜乃香がいないと駄目なんだ。――会いたい』
弱気なその口調に、私は(ああ、そう言えばそう言う季節だもんね……)と思い至った。
なおちゃんは数年前、本庁の【都市開発課公園みどり班】から【ごみ処理場第一工場】へ配属になって、副工場長に任じられて以来、人事異動の頃になると体調を崩すようになっていた。
副工場長は下と上との板挟みでしんどいのだと、何度も異動願いを出していたのだけれど。
女性関係はともかくとして、責任感が強くて器用で……仕事は出来る人だったのでなかなか聞き届けてもらえなかったみたい。
辞令が下るたび、異動がないと知った後のなおちゃんは鬱気味になって、人との関わりを断ち、仕事も有給で休んだ。
私にも会いたくないという時期があったり、そうかと思うと突然顔が見たいと言い出したりと精神的に波があって。
恐らくまた今年もなおちゃんは異動が叶わなかったんだろう。
でも――。
私はもうなおちゃんとお付き合いしていた頃のようにフリーではない。
私だけを見てくれて、私だけを愛してくれる、建興くんという素敵な旦那様がいる。
たっくんは、なおちゃんが私に不誠実なことをして落ち込んでいた頃に、私の前へ現れた救世主のような人。
そればかりか、大好きなお母さんが亡くなった時、ずっと私のそばにいて、折れそうな心を支えてくれた大切な人だ。
今更なおちゃんなんかに惑わされたりしない。
私はそんな決意を込めて、「なおちゃん。私ね、先月結婚したの。だからもうなおちゃんとは会わない。申し訳ないけど二度と連絡してこないで?」と告げて通話を切った。
なおちゃんから連絡がないのをいいことに、ずっと未練がましく着信拒否出来ずにいたなおちゃんの電話番号を、すぐさま拒否リストに加えると、ほぅっとひとつ吐息を落とした。
そのせいであんなことになるなんて――。
そうなると分かっていたら、私はもう少し上手く立ち回れたのかな?
***
なおちゃんから電話が掛かってきた翌日。
仕事から帰ってきたたっくんと二人、夕飯を済ませて隣り合わせ。
座布団に座って愛フェレットの直太朗と遊んでいたら、テーブルの上に放置していた私のスマートフォンがブブブ……ブブブ……と振動しているのに気が付いた。
ぴょんぴょんと斜め横っ飛びをしながら楽しそうにククククッと声を上げる直太朗から視線を逸らすと、私は机上からスマホを取り上げる。
「あ……」
そうして明るくなった画面を見て、思わず声を漏らした。
「どうしたの?」
その声に、たっくんが反応する。
「別に大したことじゃないの。ただ……今日この番号からの着信、四回目だなって思って……」
私は番号のみが表示された画面を見せながらたっくんに事情を説明した。
直太朗が「遊んで?」と飛び掛かってくるのを軽くいなしながら、私はスマートフォンの画面を見詰めて吐息を落とす。
着信履歴に表示されたその番号は携帯電話からのもので。
どうやら電話帳に未登録の番号らしく、名前などの表示はされていなかった。
「けど、知らない番号からなの」
いつもなら未登録の番号からの複数回の着信は一旦保留にしてから、Webサイトなどで迷惑電話に指定されている番号ではないかだけ確認して、違うようならこちらから再度掛け直してみることにしている。
でも――。
昨日なおちゃんからの着信を拒否設定にしたばかりの私は、見知らぬ番号からの電話を警戒して何もアクションを起こせずにいたのだ。
とはいえ、こう何度も掛かってくるところを見ると無視し続けるのもどうかなと迷って。
「それは……掛け直した方が良くない? 知り合いの誰かが番号を変えただけかも知れないよ?」
さすがにたっくんもそう思ったみたい。
昨日の事情を知らないたっくんからしたら、どうしてこんなに何度も掛かっているのに掛け直さないのか不思議なんだろうな。
「うん、私もそう思う。……でも」
私は迷った末、たっくんに昨夕なおちゃんから着信があって会いたいと言われたこと、それを断ったのを機になおちゃんの番号を着信拒否したことなどを軽く説明してから、この見知らぬ番号からの着信を警戒しているのだと付け加えた。
「そっか……。そういう事情なら菜乃香が慎重になるのも分かるな。……僕もその話を聞いたら安易に掛け直してみなよって言うの、ちょっと戸惑うし」
たっくんの言葉はもっともだと思う。
私は「ごめんね」と要らない心配をかけたことを謝ってから、スマートフォンを再度机上に戻した。
だけどそれと同時、またしても件の番号から五度目の着信が入ってきて――。
出るべきか否か。
迷いに眉根を寄せてたっくんの方を見たら、「とりあえず出てみたら?」と、どこか不安そうな顔で言ってくれた。
私は彼の言葉に小さくうなずくと、たっくんの気持ちが少しでも晴れたらいいなと思って、スピーカー通話で応答することにした。
もしなおちゃん絡みじゃなければスピーカー通話を辞めたらいよね?
そう思って。
***
「もしもし?」
恐る恐る通話に応じたら、向こうでホッとしたような吐息が聞こえた。
そうしてガサガサと言う衣擦れの音。
あとは鼻をすする幽かな気配。
(もしかして、電話の先の人、泣いてる?)
そんなふうに思ったけれど、何故先方さんがそんな状態で私に電話してくるのかがさっぱり分からなかった。
『……ご、ごめ、なさい。何度も電話してしまって。私、古田夏美と言、います。戸倉……菜乃香さ、んの番号でお間違いな、いでしょうか』
合間合間でグシュグシュと鼻をすすりながら、見知らぬ女性がそう名乗って。
私はたっくんと顔を見合わせて予想外の展開にキョトンとした。
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