私のことを〝戸倉菜乃香〟と旧姓で呼んできたところからして、電話口の女性――古田夏美さん――は私が結婚したことを知らないみたいだった。
でも、だからと言ってよく素性の分からない相手に「私、結婚して今は波野菜乃香になっています。戸倉は旧姓です」と説明するのも何だか違う気がして。
私はそこに関しては訂正しないまま黙っておくことにした。
結果、菜乃香だと言う意味では間違っていないと言う意味で「はい、合ってます」とだけ答えたのだけれど。
私の言葉をすぐ横で聞いているたっくんのことだけは気になってしまう。
私がたっくんの立場なら、もしかしたらそこ、ちゃんと訂正して欲しかったかも?と思うと、自分の判断が正しかったのかちょっぴり不安になった。
だけど――。
そんなことを悠長に考えていられないくらいに突然、電話口から『わぁっ』と泣く声が聞えてきて。
私は、余りのことに思わずたっくんと顔を見合わせてしまう。
もちろん、電話が掛かってきてすぐの時から電話口の夏美さんは、何故だか泣いている気配だった。
だけど……私が菜乃香であることの〝何が〟彼女をそこまで感極まらせたのかが分からなくて。
「あ、あの……夏美、さん?」
私が恐る恐る呼び掛けたら、
『菜乃香さん……、に電話っ、ちゃんと繋がった……。なおさんが……もう番号変えてるかも知れな、ぃとか、言うから……。私、私……。こんなことなら……もっと早、くに菜乃香さっ、に電、話し、てたら、良かっ、た』
そこまで一気に言うなり、夏美さんがまた泣き出して、私は戸惑ってしまう。
きっと、彼女が言う〝なおさん〟は〝なおちゃん〟と道義だ。
なおちゃん自身からの電話ではなかったけれど、彼絡みの話であろうことは明白で。
私はたっくんのためにスピーカー通話のまま会話を続けるのが最善だと判断した。
でも、やっぱり一応そのことは相手にも伝えておくのが筋だよねとも思って。
私は一度だけ深呼吸をすると、電話口で泣きじゃくる夏美さんにそっと呼び掛けた。
「夏美さん……」
『あ、あのっ、なっちゃんって……呼、んでく、ださい。なおさん、もっ、そう呼んでくれて、た、ので……』
何故はじめましての彼女とそこまでフレンドリーに接しないといけないんだろう。
一瞬、〝古田夏美〟というのは偽名で、電話の主はなおちゃんの奥様なのでは?という疑念がわいたけれど、もしそうなら不倫相手だった女性相手に、こんな風に接したりはしないだろう。
だとしたら彼女は一体――。
もちろん、私だってその疑念に思い当たる節がないわけじゃない。
私がなおちゃんとサヨナラした原因は、なおちゃんに奥様以外の女性の影を感じたからだもの。
でも、だったら尚のこと……私はそんな相手と仲良くなりたくなんかない。
そんな風に思ったけれど〝なっちゃん〟と呼び掛けないと前に進めない気もして。
私はしぶしぶ夏美さんの提案を受け入れた。
「じゃあ、なっちゃん。私ね、ひとつだけ貴女に伝えておかなきゃいけないことがあるの」
『……な、んでしょう?』
泣きながらもそんな声が返って来て、私はちょっとだけ安堵する。
「実はね、私、ちょっと前に結婚してて……。すぐそばで主人もこの電話を聞いているの」
『えっ? ……ご、主人、が? あのっ、そ、の方は……菜、乃香さんと……なおさんのこと』
「知ってます。だからこそ不安にさせたくなくて。貴女のお話もどうやら緒川さん絡みみたいですし……スピーカー通話で主人にも聞こえるようにしてるんですけど……差し支えありませんか?」
あえて〝なおちゃん〟と言わずに〝緒川さん〟と呼んで、彼との関係に線引きをした上でそう切り出した。
さすがにイヤって言われちゃうかな?
そう懸念した私に、夏美さんが案外アッサリ『……構い、ません』と返してくれてホッとしたのだけれど――。
『その、方、が……菜乃香さ、とお会いしやすく、なると思、……ので』
と続いて、どういう意味?となってしまった。
***
『なおさんが……緒川直行さんが……今朝、亡くなりました。菜乃香さんは……そのことをご存、知です、か?』
声を震わせながら、嗚咽混じりに古田夏美と名乗った見知らぬ女性が、そんな意味不明のことを言ってくる。
「え……?」
私、昨夕なおちゃんと話したばかりだよ……?
なのに亡くなっただなんて何の冗談?
「嘘、ですよね……? いきなり電話してきてバカなこと言わないで下さい。……だって私、昨日彼からの電話を受けて……それで……」
――頼むから俺を助けると思って顔見せてくれよ。
――俺、菜乃香がいないと駄目なんだ。
――会いたい。
そう言ってきたなおちゃんを、私はもう結婚したから……という理由で突き放した。
「私、私……」
混乱してうまく言葉が紡げない。
どうしよう。
お願いだから嘘だと言って?
余りの衝撃に呼吸が上手く出来なくなってしまった私を、たっくんが無言で抱きしめてくれた。
「菜乃香、しっかりしろ」
そうして、痛いくらいに腕に力を込められる。
私はたっくんを虚ろな目で見詰めてポロリと涙を落とした。
「あの……突然割り込んですみません。菜乃香の夫です。夏美さん、でしたっけ? ……えっと、今の話は……本当なんですか?」
オロオロと視線の定まらない私に変わって、たっくんがスピーカー通話を解除して電話を耳に当てた。
「はい、はい。ああ、それで……。ええ、今夜が通夜で葬儀は明日の――」
ねぇたっくん。今話しているのは誰のお通夜で、誰の葬儀のことなの?
分かっているけれど、その言葉はまるで真実味を伴わないままに私の上を通り過ぎていく。
ややして通話を終えたたっくんが、私を抱きしめたまま言った。
「緒川さんが亡くなったのは事実みたいだよ、菜乃香。今夜が通夜らしいんだが、夏美さんと一緒に行ってくる? 夏美さんが菜乃香に伝えたいことがあるって。……菜乃香が望むなら俺も一緒に付いて行くし、もちろん嫌だって言うなら断ることも出来るけど……」
たっくんの言葉に、私はしどろもどろ。
「……待ち合わせ場所は……どこ?」と問いかけていた。
***
夏美さんとの待ち合わせ場所は市内を流れる一級河川の近くにある大手グループの葬祭会館駐車場で。
なおちゃんの葬儀とお通夜も、そこで行われるらしかった。
私はかつてなおちゃんから、そこの葬儀場へ行くと何故か肩や頭が重くなるから苦手なんだと聞いことがある。
だから知人の葬儀なんかでそこへ行かないといけないときには、清めの塩やお守りが手放せないんだ、とも。
(何でよりによってここなんだろう)
ぼんやりとした頭でそう思わずにはいられない。
(やっぱりなおちゃんのお通夜や葬儀じゃないんじゃないかな? 彼なら絶対ここだけは避けるはずだもん)
今更だけどそんな可能性を捨て切れないと言ったら、みんなからバカだと言われるだろうか。
***
なっちゃんは黒のワンボックスカーに乗ってくると言っていた。
大きめの、ファミリーカーもかくやという車に乗ってくることで、彼女が独り身ではないことを何となく察してしまう。
私は赤色の軽自動車で行くと伝えて電話を切ったのは、ついさっきのこと。
オロオロと心配そうにするたっくんに、喪服に着替えた私は「大丈夫だよ。行ってくるね」と微笑んで、単身ここへ来た。
ここまでの道すがら、雨がポツポツとフロントガラスを濡らし始めて……。気が付けば、今では結構な雨量。
外で話すのはもちろんのこと、葬祭会館の中で話すのもおかしいよねということで、なっちゃんの車の中で話をすることにした。
初めまして、というありきたりなあいさつの後、ショートボブに髪の毛を切りそろえた細身のなっちゃんが、私に恐る恐る切り出した。
「私も……なおさんとお付き合いさせて頂いていました」
私は小さくて少しぷにっとした印象のセミロングで、可愛い系だとよく言われる。
対してなっちゃんは、スレンダーでシャープな印象のキャリアウーマンタイプ。
全然雰囲気の違う私たちに、どうしてなおちゃんは手を出したんだろう?
なっちゃんとなおちゃんの出会いは、なっちゃんがなおちゃんの勤めるごみ処理場第一工場へ嘱託職員として配属されたことが切っ掛けらしい。
私より四つ年下のなっちゃんは、十八歳の時に結婚をして、二人の男の子にも恵まれていると言う。
子供の年齢こそ十以上離れているとはいえ、なおちゃんも二人の男の子の父親ということで、最初は子育てなんかの相談に乗ってもらっていたらしい。
それが男女の関係に発展したのは、どうやら私のお母さんが病気になって、なおちゃんと会える機会がガクッと減った辺りかららしかった。
「下の子がね、ミニーのミニカが好きで。誕生日に可愛い猫の描かれたラッピングカーのミニカを欲しがって。なおさんには関係ないことなのに一緒に色々探し回ってくれる姿が本当に素敵に見えて」
なっちゃんの旦那さんは「車のおもちゃなんて何だっていいじゃん。適当に誤魔化せよ」と言って取り合ってくれなかったらしい。
なおちゃんはそれを、一緒になって色々探してくれたんだとか。
私はそこで、母の病気でずっと会えなかったとき、久々のデートで彼と一緒に件のミニカを探したことを思い出した。
(そっか、あれ、なっちゃんの子供さんのためだったんだ……)
――あの日感じた違和感の正体はこれだったのね。
一緒にいた時にも、なおちゃんの心の中には既に別の女性がいたんだと思うと、何だかモヤモヤとした気持ちがくすぶって。
「ごめんなさい。こんな話聞かされてもイヤですよね。……私、実はなおさんから『俺には菜乃香っていう大事な彼女がいる。菜乃香から連絡が入ったらそっちを優先するからそこだけは覚えておいて?』ってずっと言われてて。菜乃香さんのことは彼と付き合う前から知っていたんです。なおさん、菜乃香さんのこと、私に色々話してくれてたので。……それで勝手に菜乃香さんのこと、かなり前からの知り合いみたいに思ってて……。菜乃香さんからしたら私の存在なんて知らなかったでしょうし、ご迷惑なお話でしたよね」
なおちゃんは私に奥さんがいると告げたのと同じように、なっちゃんには妻と私がいると伝えた上で、一番にはしてあげられないけどいいか?と聞いてきたらしい。
それにOKするなっちゃんもなっちゃんだけど、そんなスタンスを崩さないなおちゃんも相変わらず残酷な人だなって思った。
「私にもなおさんにも配偶者がいたから……。お互い家庭を壊してまで一緒にいる気はなかったですし、そのぐらいの距離感がちょうど良かったんです」
私の心を察したみたいになっちゃんが言って。
お互いに、妻や夫で満たされない部分を補い合っていただけなので……とポロポロと涙をこぼす。
ねぇ、なっちゃん。そんなに泣かれてたら「ふーん、そうなんだ」って思えないよ?
私は初めましてをした時からずっと、なっちゃんが泣き続けているからか、彼女と会ってからは嘘みたいに涙が枯れてしまっていた。
なおちゃんが死んでしまったという話を、心の奥底ではまだ信じられないままなのもあるからかも知れない。
「そっか。私は……なおちゃんと結婚したいって思うようになってしまったから……愛人としては失格だなって思ったの。母が病気になって以前みたいに会えなくなった時になっちゃんの影を感じるようになったのが決定打になってね。なおちゃんを独り占め出来ないことに我慢出来なくなって……彼に別れを告げたの」
「はい、なおさんが凄く落ち込んで『菜乃香が俺から離れた。今度こそ取り戻せそうにない』って話してくれたのでその辺の経緯は何となく知っています。実はその頃からなんです……。なおさんが自殺未遂を繰り返すようになったの……」
「えっ?」
一瞬、私はなっちゃんが何を言っているのか理解出来なかった。
だってそれってまるで――。
「ごめんなさい。菜乃香さんを責めているわけじゃないんです。ただ……」
なっちゃんはなおちゃんに、『そんなにしんどいんなら私が菜乃香さんに連絡してあげるよ?』と話したらしい。
なおちゃんの手首に刃物の傷が増えるたび、なっちゃんは何度も私に連絡しようと思ったんだとか。
でもその度に『菜乃香にだけは知られたくない』『せっかく俺から離れられた菜乃香に負担は掛けたくない』となおちゃんに言われて二の足を踏んでいたと言う。
それでももう一度同じことが起こったら今度こそ私に連絡しようと思って……。
なっちゃんは私の電話番号をこっそりなおちゃんの携帯から盗み見てメモしていたらしい。
なおちゃんの携帯のロック番号は、変わっていなければ0912の四桁。私の話をことある毎にしていたというなおちゃんが、なっちゃんに0912を話していても不思議ではなかった。
私となおちゃんの誕生日十月十日がちょうど丸五週間離れていて、毎年お互いの誕生日の曜日が同じことなどもセットで話していたとしたら、彼女の中での記憶はより強固なものになっていたはずだ。
ロックを掛けた上でなおちゃんはきっと、都度都度浮気相手との着信履歴やメールなどに関しては証拠隠滅を図っていたんだとは思う……。
なおちゃんにはそういう狡猾さがあったけれど、コソコソと常に携帯を持ち歩いていたら逆に奥さんから怪しまれるから、という理由で携帯の扱い自体は割とぞんざいで。
私と一緒にいる時も、しょっちゅうトイレなどで離席する際なんか、平気で携帯を机上に置き去りにしていた。
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