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結局、その日は一日中瀬名とは口を利かなかった。というより、理人が敢えて避けていたと言った方が正しいだろう。
瀬名は何か言いたげに視線を送ってきたが、理人は仕事に集中したいと告げてその場を離れたり、忙しいふりをして一切視界に入れないようにしたりと、徹底して彼を拒絶し続けた。
これでは何の解決にもならないことは分かっていた。だが、今の理人には避ける以外の防衛手段が思いつかなかったのだ。
「――はぁ」
定時を告げるチャイムが鳴ると同時に、理人は瀬名の姿を確認してから逃げるように会社を後にした。
外はすっかり暗くなっており、見上げた空は厚い雲に覆われて今にも泣き出しそうだ。エントランスを抜け、駅までの道のりを歩き出そうと一歩踏み出した時、スラリとしたモデル体型の女性とすれ違った。 それだけならよくある光景だったが、彼女が通り過ぎた瞬間、瀬名が愛用しているあの甘い香水の香りが鼻腔を掠め、理人の足がぴたりと止まった。
オフホワイトのワンピースを身に纏い、背中まである美しい黒髪をなびかせながら、今しがた自分が出てきたばかりのオフィスへと足取り軽く向かっていく。
――間違いない、彼女が真奈美だ。
昼間も来たというのに、終業時刻にまで迎えに来たというのか。その事実に、胸の奥からどろりとしたモヤが湧き上がってくる。
瀬名は彼女に愛されている。それを再認識させられるたび、心臓を鋭い針で刺されたような痛みが走った。実際に彼女の姿を目の当たりにしたことで、自分の存在意義が音を立てて崩れていく。
「……っ」
きっと、あと数分もすれば瀬名もここから出てくるだろう。そして彼女と合流し、仲睦まじく夜の街へ消えていく。そんな光景、考えるだけでもゾッとする。
(見たくない……そんなもの、見たくねぇ……)
理人は弾かれたように走り出し、駅の改札へと滑り込んだ。電車に飛び乗り、激しい動悸を抑えながら窓の外の闇を見つめる。スマホには瀬名から数件の着信が入っていたが、折り返す気力もなく電源を切った。
家に着くと、着の身着のままベッドへ倒れ込んだ。高級なスーツが皺になるかもしれないという思考が頭をよぎったが、今の理人にはそれすらどうでもよかった。
このまま深い闇の底へ沈んでしまいたかった。 ふと、部屋の隅に置かれたままの、渡しそびれたプレゼントが目に入る。血痕が付着したままのそれは無残な有様で、今の自分たちの関係を象徴しているようで自嘲気味な笑みが漏れた。
何度も捨てようとしたのに、どうしても手放せず、かといって今更渡せるはずもない。
その中途半端な状態が、あまりにも今の自分と重なって虚しさが募った。じわりと滲んできた涙を枕に擦り付け、必死に深呼吸を繰り返して呼吸を整える。
結局、あの男が囁いていた甘い言葉の数々は、ただのリップサービスだったのだ。本気で想ってくれていたのなら、あんな風に堂々と女を職場に呼び寄せられるはずがない。
(自分だけ舞い上がって浮かれて……馬鹿みたいじゃねぇか)
真奈美の存在を認めざるを得ない以上、瀬名との関係はこれで終わりだ。これ以上、自分を騙し続けることなんてできない。
瀬名の本命は間違いなく彼女で、自分はただの「代わり」か、あるいは「暇つぶし」だった。初めて抱かれたあの日から、瀬名の腕の中を心地よい居場所だと思い込んでいた。彼に触れられるたびに心が満たされ、愛されていると錯覚していた。
妊娠させる心配のない、相性のいい身体。瀬名にとって自分は、ただ都合のいい「道具」に過ぎなかったのだ。
そう結論付けた瞬間、堰を切ったように溢れ出した涙を、もう止めることができなかった。