コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
朝食の余韻が残る食卓に
皿の音と水音が重なる。
時也は静かにキッチンへと下がり
袖を襷で纏めながら
手際よく皿を重ねては流し台へ運び
洗い始めていた。
一方、レイチェルは
テーブルに小さな紙とカラーペンを広げ
臨時休業を告げるための張り紙に
夢中になっていた。
ピンクとミントの柔らかな色を基調に
くるりとした文字で
〝本日、臨時休業です♡〟と書かれ
その周囲には桜の花弁や
ふわふわのマカロンのイラストが
可愛らしく踊っている。
「ふふん、これで完璧ね!」
筆先を回す指先も楽しげで
横顔はどこか誇らしげだった。
そのすぐそば──
部屋の隅では
青龍が幾重にも重ねられた段ボール箱を
几帳面に束ね、透明なフィルムで留めていた
乾物、菓子用のチョコや粉糖
寄付用の生鮮食品まで
並ぶ品は実に多彩だった。
その量を目にしたソーレンは
床に片手を突きながら
げんなりとした表情で天を仰いだ。
「これ、また俺が一人で運ぶのかよ⋯⋯」
その愚痴に、青龍は一切の容赦なく返す。
「無論だ。
重力の異能で造作も無かろう。
文句を言っている暇があるなら
そこの食材も詰めんか」
「チッ⋯⋯この量、造作じゃねぇんだよ」
ソーレンは渋々、箱の中へ缶詰を詰め始めた
そこへ、キッチンから時也が現れる。
黒地に桜柄のエプロンを外し
襷をほどいて着物の袖を整えながら
穏やかな笑顔を浮かべて
リビングに戻ってきた。
「支度は終わりましたか?」
「は、こちらに全て整っております」
青龍が静かに
隅に寄せられた荷物の山を指した。
「ありがとうございます。
では、レイチェルさん⋯⋯
アリアさんの事、不在の間
よろしくお願いいたしますね」
「はーい!」
軽快に返事をしたレイチェルが
ペンを置いたそのとき。
アリアがすっと立ち上がる。
その動きに
レイチェルもふと視線を向けたが
アリアはじっと時也を見つめるだけだった。
(⋯⋯私も、行こう)
その心の声が、まるで風に溶けるように
時也の中へ流れ込んだ。
「アリアさんも、ですか?」
彼は驚きを隠さずに返す。
「ですが⋯⋯
お菓子作り教室の間と
信仰の魔女の転生者の方を探している間
僕はお傍に居られないかもしれません⋯⋯」
(⋯⋯構わん。行く)
その明確な意志に
時也はふっと柔らかく笑んだ。
「ふふ。かしこまりました。
きっと、女神様に逢えて
子供たちも喜ばれると思います。
では、少々お待ちください。
アリアさんの外出用の荷物の
支度もしてまいりますね」
レイチェルは首を傾げながら
彼の背を見送る。
(ん?
アリアさんも出かけるってことかしら?
⋯⋯これは久しぶりに
ゆっくり趣味に没頭できるわね!!)
やがて二階から
時也がアリアの外出用の薄手のストールや
鞄を持って降りてきた。
彼女の手を自然に引き
そのまま玄関へと向かう。
後ろには
荷物を山のように抱えたソーレンが
しかめっ面のまま無言で続く。
カラン、とドアベルが鳴り
三人が外へ出て行くと──
レイチェルは静かに立ち上がり
自作の張り紙を店の扉に貼り付けた。
ドアの外側から見えるように
可愛い字体の文字が揺れる。
店内に戻ると
喧騒の消えたリビングには
張り詰めたような静けさが降りていた。
その奥──
裏庭では
時也とアリアの世話から解放された青龍が
煙管を燻らせながら、ベンチに座っている。
彼の膝の上では
白猫のティアナがぐるぐると喉を鳴らし
満足そうに身体を丸めていた。
柔らかく昇る煙と、猫の温もり。
平和すぎる午前の空気の中
ふとレイチェルが
思い出したように口を開いた。
「⋯⋯あ」
そして、誰にも聞こえない程度の小さな声で
ぽつりと呟いた
「時也さんとソーレンに
障害のある子たちが
アリアさんの血で身体が治ってるの
言い忘れてたわ⋯⋯」
ペンのキャップを閉めながら
苦笑を浮かべる。
「ま、悪いことじゃないし
驚くかもだけど⋯⋯まいっか!」
春の風がカーテンを揺らし
静かなリビングの中に
一人分の陽だまりが落ちていた。