テラーノベル
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雪に閉ざされた廃別荘。
外の世界の時間は止まり、この部屋だけが宇宙に浮かぶ小島のようだった。
元貴の病状は、残酷なまでに進行していた。
もはやスケッチブックの文字も判別できず、若井が誰であるかという「知識」さえ、時折霧の中に消えてしまう。
今の元貴を繋ぎ止めているのは、唯一残された「触覚」。
自分を抱きしめる腕の力強さと、指先から伝わる体温だけだった。
若井は、一日中元貴の隣にいた。
食事を口に運び、冷えた手足を摩り、髪を梳かす。それはもはや恋人への献身を超えて、壊れやすい神様を祀る儀式のようでもあった。
夜、暖炉の火が爆ぜる音だけが(元貴には聞こえないが)部屋に響く中、元貴がそっと若井の手を引き、自分の胸元に導いた。
「……あ、……ぅ……」
声にならない微かな吐息。
元貴は、若井の指を借りて、自分の心臓の上に何かを書かせようとした。
若井は、元貴の意図を汲み取り、彼の柔らかな肌の上にゆっくりと指を滑らせる。
『 こ ・ こ ・ に ・ い ・ る ・ よ 』
一文字書くたびに、元貴の体が小さく跳ねる。
元貴は目を閉じ、指先が描く筆跡を心に刻んでいた。
次は、元貴が若井の手の甲に指を走らせる。
視界が効かないため、その線は歪んでいたけれど、若井には分かった。
『 わ ・ か ・ い ・ の ・ぜんぶ ・ ぼ ・ く ・ に ・ ちょう ・ だ ・ い 』
若井は息を呑んだ。
元貴は、自分が自分であるうちに、若井の「存在そのもの」を体に刻み込もうとしている。
若井は元貴のパジャマのボタンを外し、その白い肌に直接、自分の名前を指でなぞり続けた。
背中、肩、腕、そして心臓の真上。
何度も、何度も。皮膚が赤くなるほど、執拗に。
「……っ、……ん……」
元貴は、その感覚を飲み込むように、若井の首に細い腕を回した。
二人は毛布の中で、肌と肌を密着させる。
視界が灰色で、音が無音でも、重なり合う体温は驚くほど鮮やかな「生」の色彩を放っていた。
若井は元貴の耳元で
(聞こえないと分かっていても)囁き続けた。
「元貴、俺はここだ。
お前の若井滉斗は、ここにいる。
お前の痛みも、暗闇も、全部俺にくれ。
お前を一人で逝かせたりしない」
元貴は、若井の背中に爪を立て、必死にその体温を吸い込もうとした。
そのとき、元貴の脳裏に、かつてないほど強烈な「オレンジ色の光」が溢れた。
それは過去の記憶でも、共感覚の悪戯でもない。
今、自分を愛してくれているこの男の、命の輝きそのものだった。
元貴は、声の出ない唇を動かし、若井にキスをした。
その唇は、はっきりとこう形作った。
( し ・ あ ・ わ ・ せ ・ だ ・ よ )
若井はその言葉を読み取り、元貴の胸に顔を埋めて慟哭した。
こんなに愛しているのに、救えない。こんなに幸せなのに、終わりが近づいている。
その夜、元貴は深い眠りに落ちた。
若井は、元貴のポケットに手を入れたとき、小さな折り畳まれた紙を見つけた。
それは、かつて涼ちゃんから渡された、あの「もう一冊のノート」の切れ端だった。
そこには、元貴がまだ文字を綺麗に書けた頃に、若井への「サプライズ」として隠していたメッセージがあった。
**『滉斗へ。もし僕が笑わなくなったら、僕たちの最初の曲を弾いて。音は聞こえなくても、僕の心臓がそれを歌うから。』**
若井は、暖炉のそばに置かれたボロボロのギターを手に取った。
指先は凍えていたが、彼は元貴のために、二人が初めて音楽室で合わせた、あの拙くて瑞々しいメロディを弾き始めた。
無音の雪原に、二人の「最初の音」が、記憶の灯火のように灯された。
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