テラーノベル
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廃別荘を包んでいた雪が止み、
世界は刺すような静寂に包まれていた。
カレンダーの数字は、ついにあの付箋に書かれていた「卒業式」の前日を指している。
元貴の状態は、もう限界を超えていた。
意識を保っている時間は短くなり、起きている間も、若井のことが分からずに怯える時間が長くなっている。
それでも、若井が抱きしめると、その体温にだけは安心して身を委ねる。
それが今の二人の、細い、けれど強固な絆だった。
「……元貴、行こう。俺たちの卒業式に」
若井は、動かなくなった軽トラックを捨て、元貴を背負って雪道を歩き始めた。
目指すのは、あの始まりの場所。二人の秘密が詰まった、高校の音楽室。
ふもとの街に降りると、いたる所に警察の車両が止まっていた。
「病弱な少年を連れ去った誘拐犯」として、若井滉斗の名前と顔は、街中に知れ渡っている。
「(大丈夫だ、元貴。
俺が、絶対に見つからずに連れてってやる)」
若井は、影から影へと移動した。
元貴は若井の背中で、ぐったりと力なく揺れている。
時折、その細い指が若井の肩をトントンと叩く。それは元貴が覚えた数少ない手話の一つ、『 ここに・いるよ 』の合図だった。
その時、若井のスマートフォンの電源を一度だけ入れた。
通知の嵐の中、一通の短いメールが目に留まる。
件名:『ステージは整えた』
差出人:藤澤涼架
『学校の裏門の鍵は開けてある。警備員は僕が引き受けた。……滉斗、元貴の「最後の音」を、僕に聴かせて。』
若井は画面を強く握りしめた。涼ちゃんもまた、すべてを賭けて戦っている。
深夜二時。誰もいない校舎。
若井は元貴を背負ったまま、裏門を潜り、影のように校舎内へと滑り込んだ。
昼間は賑やかな廊下も、今は冷たい月光が差し込むだけの、死んだような通路。
音楽室の前に辿り着いたとき、若井の足は震えていた。
扉を開けると、あの懐かしい埃と、古いピアノの匂いがした。
「……ついたぞ、元貴。俺たちの、音楽室だ」
若井が元貴をソファに下ろすと、元貴はゆっくりと目を開けた。
光さえ失われつつある瞳。けれど、元貴は不思議そうに周囲を「感じて」いた。
「……あ、……ぅ……」
元貴の手が、宙を彷徨う。
若井はその手を導き、音楽室の壁に触れさせた。そこには、かつて二人がふざけて刻んだ小さな傷がある。
元貴の指先がその傷に触れた瞬間——。
「……っ」
元貴の頬を、一筋の涙が伝った。
記憶ではない。
指先が、場所を覚えていた。
ここで笑ったこと、ここで恋をしたこと、ここで若井のギターを聴いたこと。
失われた五感の代わりに、思い出が肌を通じて溢れ出す。
元貴は若井の服を掴み、自分の方へ引き寄せた。
そして、声の出ない口で、何度も、何度も、若井の「名前」を呼ぶ形を作った。
( ひろと、ひろと、ひろと…… )
若井は元貴を強く抱きしめた。
「ああ、元貴。俺だ。ここにいる。
……明日、ここで二人だけで卒業しよう。
誰にも邪魔させない。
俺とお前だけの、最高のフィナーレだ」
若井はピアノの椅子に元貴を座らせた。
元貴の指が、鍵盤の上に置かれる。
月明かりに照らされた元貴の横顔は、あまりにも美しく、そしてあまりにも透明だった。
その時、廊下から静かな足音が近づいてきた。
若井が警戒して振り返ると、そこには、ボロボロになった制服のまま、少しだけ誇らしげに笑う涼ちゃんの姿があった。
「……遅かったね。待ちくたびれたよ」
「……涼ちゃん」
「さあ、始めよう。……僕たちが、僕たちであるための、最後の演奏会を」
涼ちゃんの手には、あの日没収されたはずの、元貴が書いた「最後の楽譜」が握られていた。
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