淳之介さんのマンションに居候を初めて2か月。
登生も私もすっかりここの生活に馴染んでしまった。
「ねえ、なんでボスのおさらにはトマトがないの?」
「え?」
普段と変わらない朝食の時間。
卵とソーセージを焼いてレタスでサラダを作り、冷蔵庫に2つだけ残っていたミニトマトを私と登生のお皿に乗せた。
わざと避けたわけではないけれど、トマトが嫌いな淳之介さんにわざわざ付けるのはと思ったのも事実。
「残りがそれだけだったのよ」
「じゃあ、ぼくのをあげる」
「いいから登生が食べなさい」
「でも・・・」
シュンとしてしまった登生。
「わかった、私のを半分こするわ。それでいいでしょ?」
「うん」
私のお皿に乗っていたミニトマトを半分に切って淳之介さんのお皿に乗せる。
嫌いなトマトを乗せられた淳之介さんは複雑な顔をしているけれど、登生の手前好き嫌いをすることもできず黙っている。
フフフ。
かわいい。
こんな普通の日常を本当に幸せだと思う。
***
「あのね、ゆうごはんはカレーをつくるんだよ」
「へー」
「ごはんをたべたらはなびをするの」
「ふーん、いいなあ」
朝食を食べながら今日の予定を話す登生に、淳之介さんは相槌を打っている。
今日、登生の保育園では『お泊り保育』が行われる。
いつもなら夕方には帰る子供たちを保育園に泊めて、料理をしたり花火やゲームをしたりして楽しませてくれて、次の日の夕方まで預かってくれるイベント。
普段子供につきっきりの保護者からするとうれしい催しだけれど、まだ3歳の登生を一晩預けるのには不安もある。
「寝る前には必ずトイレに行くのよ」
「うん」
「寂しくなっても『りこちゃーん』なんて泣かないのよ」
「うん」
「朝起きたら顔を洗って歯磨きをして」
「わかってる」
ムスッとした顔の登生。
「ごめん」
つい心配で言い過ぎちゃった。
登生は今日のお泊り保育をとっても楽しみにしていた。
みんなでつくるカレーも、園庭でする花火も、きっと楽しいだろう。
どちらかと言うと、送り出す私の方が少し寂しい。
「だいじょうぶだよ。あしたはかえってくるからね」
「ええ、待ってる」
少しずつ成長する登生を、きっと姉も見たかったことだろう。
そう思うと、また涙がにじんできた。
***
「璃子も、今日は遅いんだろ?」
「うん、早く帰るつもりではいるけれど・・・」
「いいよ、ゆっくりしておいで。でも、あんまり無茶するんじゃないよ」
「わかってます」
もう、淳之介さんって心配症なんだから。
今日、私は麗華と飲みに出る。
麗華の仕事が終わってからだから7時に約束して、きっと帰りは遅くなると思う。
普段から仲がいいとは言えない麗華と私が一緒に飲みに出るなんておかしな話だけれど、それにはそれなりの目的がある。
実は、今日の飲み会は中野商事の若手社員と麗華の友人たちを集めたコンパ。
麗華から、「会社の人たちと飲むんだけれど、一緒にどう?」そう誘われて、私も行くことにした。
普段だったら絶対に行かないけれど、中野商事の若手って言うからにはお姉ちゃんを知っている人がいるかもしれないし、何か情報を聞けるかもしれない。そう思って参加を決めた。
さすがに淳之介さんに言えば反対されそうだから、「麗華と飲みに出ます」としか伝えてない。
***
「りこちゃん、いってきます」
一晩会えないのに、いつも通り淳之介さんに手を引かれ玄関へと向かう登生。
「行ってらっしゃい」
私は明日の夕方まで会えないことが寂しいのに、登生は平気みたい。
「じゃあ璃子、行ってくるよ」
「いてらっしゃい。淳之介さん今夜の夕食は」
作って行った方がいいですかと聞こうとしたら、
「いいよ。適当に済ませて帰るから」
と言ってもらった。
「ごめんなさい」
家事をするからってここに置いてもらっているのに、サボるようで申し訳ない。
「気にしなくていいんだよ。友人の店に最近顔を出さないって文句を言われていたから、たまに行ってみるよ」
「そう」
それもきっと私達のせいなのよね。
仕事が終わると真っすぐに帰ってきて、いつも登生の相手をしてくれているから。
「璃子」
下を向いてしまった私の名前を淳之介さんに呼ばれ、顔を上げると、
ムギュッ。
鼻をつままれた。
「そんな顔しない。登生が心配するだろ?」
「・・・うん」
せっかくのお泊り保育だもの、笑って送り出してあげないとね。
***
「璃子」
麗華に指定された店に入ると、大きなフロアの一角に10人ほどの集団。
その真ん中に座っている麗華が私に手招きしている。
「ごめんなさい遅くなって」
約束の時間は7時。
そのつもりで家を出たけれど、途中込んでいて15分ほど遅くなってしまった。
「いいのよ、私たちも今来たところだから」
どうやらすでに乾杯は終わったようで、麗華のグラスも半分ほど空いている。
ここは中野商事の最寄り駅近くにある創作料理のお店。
お店もおしゃれで料理もおいしいって、保育園のお母さん仲間でも話題になっていたところだ。
ただ、わりとお高いから主婦には無理よねってみんなで言っていた。
「もう乾杯しちゃったから璃子も飲んで」
麗華の隣に席を空けられ、置かれた細長いグラスに入ったドリンク。
一見アイスティーのように見えるけれど、これってかなりアルコール度の高いカクテル。
その昔はまっていて何度か酔いつぶれたことがあるから、私も知っている。
「さあどうぞ」
ためらっている私に、麗華は笑顔を向ける。
こうなったら逃げることもできず、
「いただきます」
私はグラスの半分ほどを飲み干した。
***
結局飲み会に集まったのは麗華の女友達二人と、私と、中野商事に勤める男性が6人。麗華を入れて全部で10人だった。
「ねえ、璃子ちゃんと麗華ちゃんは友達なの?」
「ええ」
「じゃあ、璃子ちゃんもお嬢様?」
「いいえ、私は違います」
「へえー」
男性はみんな中野商事の社員って聞いたけれど、荒屋さんや淳之介さんとはずいぶん印象が違う。
軽いと言うか、子供っぽいと言うか、中野商事にもこんな人たちがいるのね。
「璃子は高校時代の友人なのよ」
「ふーん」
麗華の説明を聞いて、納得とばかり頷く男性たち。
「そうだ、璃子のお姉さんも中野商事に勤めていたんでしょ?」
「うん」
私が聞きたくてタイミングを見計らっていたことを、麗華が言ってくれた。
「お姉さんって?」
「八島茉子って言います」
「「ああー」」
男性たちの声が重なった。
「知っているんですか?」
「うん。俺たちは直接かかわったことがないけれど、仕事のできる人だったらしい。交通事故で亡くなったんだよね?」
「ええ」
やはり今日のメンバーで直接姉とかかわった人はいないらしい。
無駄足だったかな。そう思った時、
「八島主任って、中野専務と噂があった人だろ?」
男性の中で一番お酒の回っていそうな人がポロッと口にした。
「バカ、あれはただの噂だよ」
別の男性が必死に止めている。
えええ、どういうこと?
お姉ちゃんと淳之介さんが・・・
その時、
「おや、随分にぎやかだね」
突然聞こえてきた声に男性たちが皆固まった。
***
「やだー、淳之介さん」
初めに沈黙を破ったのは麗華だった。
淳之介さんの存在を知らない麗華の女友達はポカンとしているし、いきなり会社の専務が現れたことで男性たちは動けなくなっている。
「楽しそうな声が聞こえたから来てしまったよ」
店のオーナーらしき男性と2人でにこやかに笑って見せる淳之介さん。
でも、この笑顔は作り物だって私にはわかる。
だって、目が笑っていないもの。
「淳之介さんも今日はここでお食事ですか?」
空気を読まない麗華は遠慮なく話しかける。
「ああ、ここは友人の店だからね」
「そうですか、私もこのお店が大好きなんです。ここで会えるなんて、奇遇ですね?」
「そうか?君はうちの秘書に俺のスケジュールを聞き出していたんじゃなかったか?」
「えぇー、そんなことしませんよぉ」
でた、麗華の必殺上目遣い。
大きな目をウルウルさせながら、淳之介さんを見上げている。
「まあいい、君がどこで飯を食おうとかまわない」
「もう淳之介さんたら、私達許嫁なのに」
はあ?
つい声が出そうになるのを必死にこらえた。
麗華の妄想癖と暴走には過去何度も振り回されてきた。
その度に「うらやましい性格だな」と思ってきたけれど、今回ばかりは呆れてしまった。
***
「俺の認識が間違っていなければ、許嫁って言うのは『結婚を誓い、婚約した者同士』ってことだったはずだが。違ったか?」
「いいえ、その通りです」
感情の読み取れない表情のまま麗華に向かって言葉を投げかける淳之介さんに、麗華の方は何を今更って感じで受け流す。
「俺は君と結婚の約束をした覚えはないが、いつから一人で婚約できるようになったんだ?」
「それは、父と淳之介さんのお父様が話をして婚約の方向で決まったはずです」
いつもの上目遣いではない挑んでいくような麗華の眼差し。
「その件に関しては親父たちが勝手に決めたことだ。俺は関知していない」
はっきりきっぱりと、淳之介さんは言い切ってしまった。
元々、許嫁なんて言い出した麗華が一番悪いと思う。
淳之介さんに言い負かされて『ざまあみろ』と思わなくもない。でも、友人たちの前で恥をかかされたら麗華が少しだけかわいそう。
「そんなあ・・・」
声を震えさせる麗華。
その場にいた誰もが動けないまま時間だけが過ぎていく。
嫌だな。
私、ここにいたくない。
私はそっと席を立った。
静かに席から離れ、バックを持って一歩二歩と後ろへ下がる。
このままフェイドアウトすれば誰も私が消えたことには気づかないだろう。
どうせこのまま飲み会が再開するとも思えないし、『ごめんね』とメッセージを送っておけば大丈夫のはず。そう思っていた。
しかし、
「待ちなさい」
もう少しでテーブルから離れられるところで、腕をとられてしまった。
***
「どこへ行くの?」
どこへって・・・
真っすぐに見つめる淳之介さんの視線。
周囲から感じる驚きの眼差し。
痛いほど突き刺さってくる麗華の憎悪。
全てが私に向かっている。
「えっと、あの・・・」
今すぐにここから消えたい。
「帰るならいっしょに行こう」
「いや、でも・・・」
淳之介さんにはお連れがいるし、麗華だってすごい目で見ているし、
「淳之介さん、どういうことですか?璃子と淳之介さんは」
「あれ、言ってなかったかな?俺たち一緒に暮らしているんだよ」
「ちょ、ちょっと」
慌てた私は淳之介さんの口に手を当ててしまった。
こんなところでばらすなんて何を考えているのよ。
麗華だけじゃない、会社の人もいるのに。
「どうした?事実じゃないか、恥ずかしがることはないだろう?」
「それは・・・」
「それより、顔が赤いな。だいぶ飲んだのか?」
「いえ、そんなには」
カクテルを一杯空けただけ。
「じゃあ、食べずに飲んだだろう?」
「ああ、はい」
そう言えば何も食べてはいない。
「ダメじゃないか、すきっ腹に飲んだら酔いが回るぞ」
「すみません」
って、何で普通にしゃべっているのよ。
「悪いが今日はこのまま帰る。この埋め合わせは今度な」
「ああ、わかった」
淳之介さんは一緒にいた男性に声をかけ、麗華たちのテーブルの料金も自分に回すようにと指示した。
「璃子、いくぞ」
誰も止めることなどできないとわかっていて、私の肩を抱き店の外へと向かう。
立ち止まることも、振り返ることも怖くてできない私は、ただ足を進めることしかできなかった。
***
乗り込んだのはタクシー。
さすがに個人的に飲みに出た時に社用車は使わないらしい。
「どうするんですか?」
いつもより感情的に言ってしまった。
このまま麗華が黙っているとも思わないし、中野商事の社員の前で発言すれば社内中に噂は広がるはず。
どちらにしても困った事態を招くことになると思う。
「あのくらい言わないと、彼女はあきらめないだろ?」
「はあ?じゃあ麗華をあきらめさせるために?」
「まあ、それもある」
「ひどーい」
それじゃあ私は当て馬にされただけじゃない。
「でも、それだけじゃないぞ」
「他に何があるんですか?」
「それは、璃子が男と飲んでいたから」
「はあ?だってそれは・・・・」
好き好んで合コンみたいな席に行ったわけじゃない。
相手が中野商事の社員だって聞いたから。少しでもお姉ちゃんの情報が聞けるかもって思ったからで、遊びに行ったんじゃない。
「初めから男が来るってわかっていたんだろ?」
「それは、そうだけど」
「俺が嫌がるのがわかっていたから、わざと言わなかったんだろ?」
「ええ、まあ」
確かに、淳之介さんの機嫌が悪くなるのが嫌で黙っていた。
それをわざとと言われれば、そうかもしれない。
「とにかく何か食べよう。話はそれからだ」
「そうね」
さっきの店では飲んでばかりで食べられなかったから、私もお腹が空いた。
「俺のお勧めでいい?」
「はい」
2か月も一緒にいるのに、淳之介さんと外で食事をしたのは水族館のカレーだけ。
それ以外はすべて自宅で食べるばかりだった。
そう言えば、2人で出かけるのも初めてだわ。
***
「ここですか?」
「ああ」
淳之介さんに行き先をお任せして、到着したのはホテルのラウンジ。
確かお腹が空いたって言っていたはずなのに・・・
「ここは料理もうまいんだ。飲みながら食べよう」
「はあ」
「中野様、お待ちしておりました。どうぞ」
いつの間に予約していてくれたのか、店の入口には黒服を着た男性が待っていた。
そして、案内されたのは大きな窓に面した個室。
「ウワァー、すごい」
高層ビルからの景色なんて見慣れているはずなのに、声が出てしまった。
この景色を堪能するために、最低限ギリギリまで落とされた室内の照明。
それを補うために置かれたテーブルのキャンドルが炎を揺らしている。
とっても幻想的で、別世界のような空間。
「お食事をなさるようでしたらメニューをお持ちしましょうか?」
「いや、お勧めでいいからお願いします」
「はい。何かお好みなどあれば伺ってまいりますが?」
「そうだね、僕はシェフにおまかせでいいよ。彼女は、魚より肉が好きで、でも、チキンは好きじゃない。ビーフもポークも好きだけれど脂身が苦手だから」
「はい」
「でも、海老やイカは好きだな。野菜は全般的に大好き。甘いものも好きだから何かデザートもお願いします」
「かしこまりました」
すごいな、私の好みが把握されている。
***
前菜からメイン、そしてデザートまで絶品のお料理だった。
もちろん素材もいいんだろうけれど、すべてに細かく手が込んでいて、一口一口に驚きがあった。
「どうだった?」
「こんなおいしいお料理は初めて」
「そうか、よかった」
満足そうな淳之介さん。
都内の一流ホテルの個室でこれだけのお料理を食べれば、一体いくらになるのだろう。
想像するのも怖いけれど、これが淳之介さんの日常なのかもしれない。
そう思うと、改めて住む世界が違うって感じてしまう。
「もう少し飲むだろ?」
「ええ」
今日は登生もいないし、こんな時でないと思いっきり飲むこともできない。
「ここはうちの実家が経営にかかわっていてね、融通が利くから璃子が酔いつぶれたら部屋をとってあげるよ」
「大丈夫。そんな事にはなりませんから」
どこから来る自身なんだと笑われながら、私も淳之介さんと一緒にワインを空けていく。
この時、自分でもこんなに飲むのは久しぶりだなと頭の片隅で思っていた。
ピコン。
メッセージの受信。
送り主が麗華だったから無視しようかと思ったけれど、逆に気になって開いてしまった。
***
『璃子、あなた一体どんな手を使って淳之介さんに取り入ったの?
淳之介さんには私と言う婚約者がいるのよ、いうなればこれは不倫。
あなたもお姉さんのように人に言えない恋をして誰の子かもわからない子供を産むつもり?
それじゃあ子供がかわいそうだとは思わないの?
とにかく、淳之介さんを返してちょうだい。
わかっているだろうけれど、淳之介さんはあなたと付き合うような人ではないわ。
身分違いもいいところ。一緒にいてもうまくいくはずがない。
これ以上あなたが私と淳之介さんの邪魔をするなら、私にも考えがある。
父に話して手を打ってもらうわよ。そうなれば淳之介さんばかりではなく、中野コンツェルンにも影響が出るはず。
あなたはそれでもいいの?
一週間だけ時間をあげるからよく考えなさい』
麗華からの怒りのこもったメールに現実を思い知らされる。
やはり、私はここにいたらいけないのか・・・
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!