「つ、尽くしたくありませんっ」
たっぷり数十秒。
信武が告げた言葉をじっくりきっちり頭の中で転がして、ゆっくりと自分なりに咀嚼した日和美は、視線を上げるとキッ!とすぐそばの信武を睨みつけた。
日和美なり。懸命に言われた言葉の意味を考えたけれど、優しい雰囲気のふわふわ王子――不破――に言われたならともかく、俺様鬼上司の信武にこき使われるのは嫌だ!という結論に達したのだ。
「はぁっ!?」
恐らく断られるなんて選択肢は信武の中に存在していなかったのだろう。
日和美が拒絶の言葉を発した途端、グッと二の腕を掴まれて身体を揺さぶられた。
「痛い……っ」
彼が不破だった時にも思ったけれど、華奢に見えたってやはり男性だ。
信武がちょっとその気になれば、日和美の二の腕なんていとも容易くへし折られてしまいそうな気がする。
眉根をしかめた日和美に、しかし信武は「悪ぃ、つい……」とバツが悪そうにつぶやいて、すぐさま腕の力を緩めてくれた。
「信武さんも私も、ある意味今日が初対面みたいなものだと思いませんか?」
なのにいきなり不破にしたように尽くせだの、お前が気に入っただの、ついていけなくて当然ではないか。
日和美が信武から数歩ばかり距離をあけるように後退りながら理由を述べたら、信武が小さく吐息を落とした。
「お前が言いたいことは分かった……」
ややしてポツンとそう言ってくれたから、「分かってくれましたか!」と瞳を輝かせた日和美だったのだけれど。
「だったら……」
信武は日和美がせっかくあけた距離を一気に詰めてくると、日和美を壁際に追い詰めて――。
「あ、あのっ」
ソワソワと落ち着かない日和美に、一度だけ瞳を閉じると、次に目を開けた瞬間。
「日和美さん。一緒に暮らしている内に、僕は貴女のことがたまらなく好きになりました。――お願いします。どうか僕の彼女になってください」
柔和な表情と口調。
春の麗かな陽だまりみたいにふんわりとした目の光は、日和美の大好きな不破譜和のものだった。
「……不破、さん?」
恐る恐る問い掛けて。
思わず彼の方へ伸ばした日和美の手を、口の端によく見慣れた柔らかな笑みをたたえた不破にそっと握られて。
フェザータッチのように優しく触れられた手が、ほんわか温かくなるのを感じた日和美だ。
自信満々な不敵な笑みと、無骨でガサツな触れ方しかしてこない信武とは明らかに違う〝不破らしい〟アレコレに、日和美は目の前にいるのは不破さんだ!と確信してほろりと涙を落とす。
信武が記憶を取り戻してしまった今。
大好きな不破には、もう二度と会えないと思っていたから。
再会できたことが嬉しくてたまらないと言ったら、少々大袈裟が過ぎるだろうか?
日和美は自分の手を包み込む不破の手にもう一方の手を重ねると、彼の柔らかな眼差しをうっとりと見つめ返して、「はい、喜んでお受けいたします」とうなずいていた。
日和美が首肯した途端、不破が嬉しそうににっこり微笑んで。
まるで感極まったみたいに日和美をその腕にギュウッと抱き締める。
そうしてそのまま――。
「今、俺の申し出に『はい』って言ったよな? その言葉、忘れんなよ?」
とか。
今のは絶対信武さんの方ですよね!?
「えっ!?」
不破に扮していた(?)らしい信武の罠にまんまと掛かってしまったのだと日和美が気付いた時には後の祭り。
信武はスーツのポケットからボイスレコーダーを取り出すと、日和美の前で再生してみせる。
――彼女になってください。
――はい。
そこのところばかりを何度も何度もリピートされて、日和美はガッツリ信武に捕まえられたまま、わなわなと肩を震わせた。
「ひ、卑怯ですっ! 私、不破さんだと思ったからつい……」
そう。確かに日和美は再度豹変した彼に向って「不破さん?」と問いかけたのだ。
それなのに、酷い――!
そう言い募った日和美に、信武は自信満々な様子で「けど俺、それに対して『はい』だなんて一言も言わなかったと思うんだけど?」と言い返してくる。
そうして差し出されたボイスレコーダーで該当箇所を再生された日和美は、がっくりと肩を落とした。
確かにレコーダーに録音された音声データ上では、日和美の問いかけに対して〝不破さんもどき〟は何も応答してはいなかったから。
思い返せば、彼はうなずいたりもせず、ただ口の端に不破そのものの優しい笑みを浮かべただけ。
種明かしをされたあとで顧みれば、絶対計算づくでやったとしか思えないアレコレだったけれど、日和美はまんまとそれに乗せられてしまったのだ。
(私のバカっ!)
そう心の中で自分の浅はかさを罵ったけれど、後の祭り。
日和美は期せずして信武の彼女という立ち位置を手に入れてしまった。
***
今日の夕飯は、信武のせいで支度が遅くなってしまったので、急遽キーマカレーに予定変更した日和美だ。
キーマカレーなら、野菜をみじん切りにして入れるので、火を通す時間を短くすることが出来る。
幸い、近々煮込みハンバーグを作ろうと冷蔵庫に入れておいたミンチがあったからそれが使えて一石二鳥。
以前不破が好きだと話してくれた和風煮込みハンバーグだけど、作るのはまた別の機会にしよう、と何気なく思ってから、不破さんはもういないんだった、と切なくなった。
小さく吐息を落としながら信武を恨めしげに見つめたら「ん?」と小首を傾げられて。日和美は慌てて「何でもありません!」と視線をそらしたのだけれど。
果たして不破と信武は味の好みは一緒なのかしら?と素朴な疑問が沸々と湧き上がってくる。
よくは分からないが、女性の好みに変化はなかった(?)みたいだ。
だとしたら、食の好みも案外そうなのかも知れない。
(あ、でも……)
そこまで考えて、その信武にしたって、あとどのぐらいの期間、ここにいるんだか分からないんだった、とふと思い至った日和美だ。
不破となら貞操の危機をそれほど感じることもなかったから、のんびり一緒に少しずつ距離を削りながら暮らしていけたらいいと思っていた。
でも、信武とだと今この時でさえも身の危険を感じてしまうから、早めにいなくなってくれる方がいいのかも知れない。
でも、そうなるとまた一人暮らしか……と思ったら何となく胸の奥がキュッと疼くのは、このところ〝誰かのために〟家事をすることに張り合いを感じていたからだろうか。
***
「ホント手際がいいな」
ほう、っと感心したように言われて、物思いに耽っていた日和美は思わず小さく肩を跳ねさせた。
それに気取られたくない一心でリズムを乱さないよう野菜を一定のリズムで粉みじんに切り刻みながら、実際のところはカウンター越しにこちらの作業を凝視している信武が気になって仕方がない。
先程まではカウンターのこちら側で腰に腕を回された二人羽織状態だったのだけれど、さすがに包丁を使うし(邪魔だし)危険だからとカウンターのあちら側へ追いやったのだ。
もちろん、邪魔云々の部分は心の中で思うに留めて口には出していない。
それよりむしろ、歯が浮くような気分でしどろもどろに告げた、「信武さんに怪我をさせたくないので」という言葉が一番効果的だったように思う。
信武は「俺、お前のそういう家庭的で優しい所が好きなんだ」とさらりと言うと、大人しく引き下がってくれたのだけれど。
(私の何を知ってるって言うのよ)
日和美のことなんてきっと、不破が残した写真裏のメモ書きくらいでしか知らないはずなのに。
恐らくは「料理が上手」と書いてくれている辺りを誇大解釈してくれているに過ぎないと思う。
ただ、不破を演じた時の猫かぶりっぷりは本当に見事だったので、もしかしたら少しぐらいは記憶がない間のあれこれが残っているのかな?と期待しなくもない日和美だ。
もし信武の中に不破の時のあれこれが残っていたとしたら……日和美はそれを最大限に引き出して……あわよくば信武を不破に塗り替えたいとすら思っている。
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