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蓮司の背中が教室の喧騒に溶けていく。遥は、その音すら現実感を持てずに、ただ宙を漂っていた。
(……見透かされた)
演技を貫くこともできず、
拒絶もできず、
ただ、蓮司の指先が触れたときの感触だけが、肌に残っていた。
ほんの数秒前の出来事なのに、
もう何年も前に起きたような気がした。
(なんで──)
(なんで、あんなに“楽しそう”なんだよ……)
蓮司の目は笑っていた。
遥の動揺、怯え、躊躇、拒絶……そのすべてを、玩具のように転がしていた。
“優しくない”ほうが、安心できた。
“壊す”ほうが、わかりやすかった。
それでも──
蓮司が、あのときあえて「日下部に壊されるな」と言わなかったことが、
遥の中に得体の知れない冷たさを落とし込んでいた。
(俺のこと、……もう、“どうでもいい”ってこと?)
(でも、それはそれで、楽なのに)
(なのに、なんで──苦しい)
足元の床が、微かに傾いて見えた。
目の前の景色が、遠ざかる。
誰もいないはずの教室が、何十人分もの視線で満ちているような錯覚。
日下部の顔が浮かんだ。
──あのとき、何もしてこなかった。
──何も奪わなかった。
──ただ、そこに居ただけ。
(なんで、あれが……こんなに怖い)
(“壊されなかった”ことが……、なんで、こんなに)
それは、「俺にも価値があるのかもしれない」と一瞬でも錯覚させられたことへの、
深い罪悪感と嫌悪だった。
自分に価値があるわけがない。
誰かに守られる資格なんて、とうにない。
でも──
あの夜、日下部の部屋で、ただ沈黙のなかに座っていた時間。
何も起きないそのこと自体が、遥の中で
“何かを奪うより遥を壊した”のだった。
(信じたいなんて──思ったこともない)
(でも、ほんの少しだけ……少しだけ……)
椅子の背に凭れたまま、目を閉じる。
見えないはずのものが、網膜の裏に焼きついていた。
蓮司の笑い。
日下部の沈黙。
家の中で踏みにじられた、幼いころの“声”たち。
(……どれも、信じられない)
(でも……どれも、忘れられない)
喉の奥がひくつく。
感情が喉に詰まって、呼吸の仕方がわからなくなる。
それでも、涙は出ない。
出してはいけないと、どこかで決めている。
(泣いたら、バレる)
(バレたら、“壊されてない俺”が、……バレる)
自分は演技の中にしかいられない。
壊されることでしか、生きていけない。
(じゃなきゃ、今までの全部が……間違いだったって、ことになる)
「──だったら、間違ってていい。じゃないと、俺は壊れる」
そう言った遥自身の声が、耳の奥で反響する。
でも、もうわかっていた。
(壊れてるのは、もう……)
(とっくに、俺のほうだった)
ゆっくりと、指が震える。
膝の上に置いた手が、自分のものではないような感覚。
かすかに動かそうとするたび、骨のきしむ音が頭の奥で鳴った。
誰もいない。
誰も気づかない。
教室の隅、日陰の椅子の上で、遥は“自分のままでいること”に耐えていた。
(……どこにも、戻れない)
(でも、前にも、進めない)
そのときだった。
足音が、廊下の奥から近づいてくる。
遥は、咄嗟に顔を上げることができなかった。
誰かがドアを開ける。
一瞬の沈黙。
そして──
「……いた」
その声が、遥の背中に落ちた。
日下部だった。