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「……いた」
その声を、遥は現実として受け取るのに時間がかかった。
耳は確かに聞いているのに、意味として理解できない。
でも、背中がそれに反応する。
反射的に、肩がすくみ、指先が硬直する。
(……なんで、来たんだよ)
誰にも来てほしくなかった。
でも、一番来てほしくなかったのは、たぶん──日下部だった。
視線を上げられない。
顔を見たら、崩れてしまう気がした。
「……ここで、何してるの?」
日下部の声は、ひどく静かで。
ただ静かすぎて、それが却って苦しかった。
遥は、答えなかった。
言葉を出すには、呼吸が足りなかった。
沈黙が、ひとつぶ落ちる。
日下部は一歩、教室に入る。
扉の閉まる音。金属音が、やけに大きく響いた。
「──さっき、見てた」
それは報告でも、非難でもなかった。
ただの事実確認。
けれど、それだけで遥の全身に、目に見えない棘が走る。
喉がひくつく。
でも、声は出なかった。
日下部は、ゆっくりと近づく。
だが、それでも距離を詰めきらず、机を一つ挟んだ位置で止まる。
「……無理してるの、わかるよ」
その一言で、遥の視界が急速に揺れた。
(わかるな……わかるな、そんなの)
言葉に出せない。
けど、脳内で何度も何度も、壊れたように繰り返していた。
(見ないで)
(わかるなんて、言わないで)
(……じゃないと、“今の俺”が崩れる)
遥は、少しだけ顔を背けた。
髪の影に目を隠し、唇だけがかすかに動いた。
「……別に、無理してねぇし」
かすれた、かろうじて意味を成す声。
けれどそれは、“演技”ですらなかった。
ただの“逃避”だった。
日下部はその言葉にすぐ返さず、数秒の沈黙を置いた。
その沈黙が、遥には拷問のようだった。
「……無理してないなら、なんでそんな顔してんの?」
その声は、やさしくも厳しかった。
遥は反射的に、笑みのようなものを口元に浮かべた。
しかしそれは、歪んだ仮面のようなものだった。
「こういう顔だろ、俺。昔から」
自嘲とも言えない。
投げ捨てた言葉のようだった。
日下部は、それでも視線を逸らさなかった。
遥の顔に宿る、かすかな“助けを求める痕跡”を、見逃さないように。
「──昔のこと、俺……わかってるつもりはない」
「でも、今のお前が……苦しんでるってことくらいは、見える」
遥の肩がびくりと揺れる。
その“見える”という言葉が、遥にとっては刃だった。
「……だったら、見んなよ」
低い声。怒鳴るでも、泣くでもない。
ただ、心の奥を削るような、かすれた一言。
「見られたくねぇよ、今さら」
日下部は、机の角にそっと手を置いた。
それ以上、距離は詰めなかった。
「……見ないふりする方が、もっと苦しいんだよ」
その言葉に、遥の呼吸が止まった。
一瞬、教室の空気がすべて凍りついたように感じた。
遥は、ゆっくりと目を閉じた。
涙は出なかった。
でも、心が泣いている感覚はあった。
(……それ、俺がずっと、やってきたことじゃん)
(自分で、自分を……見ないようにして)
(そうでもしなきゃ、壊れてたんだよ)
だが今、自分の外にいる誰かが──
自分を“見よう”としている。
それは、恐怖だった。
でも、ほんの少しだけ、痛みよりもあたたかかった。
遥はかすかに唇を震わせた。
「……おまえ、ほんと……バカだよな」
それは、非難ではなかった。
ただ、どうしようもなく、優しい罵倒だった。
次の瞬間、遥の目に──ようやく、ひとすじの涙が滲んだ。