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おまる
給湯室でのあの一件以来、社内の空気は一変した。
「佐藤課長には、ガードがついている」
そんな噂が、今度は好意的な、あるいは冷やかし混じりのニュアンスで広まっていった。
「佐藤課長、お疲れ様です。……あ、高瀬くんも。今日も『護衛』ご苦労様」
廊下ですれ違う他部署の部長にまでそう声をかけられ、私は顔が熱くなるのを抑えて会釈する。
隣を歩く高瀬くんはと言えば
「はい! 職務全うしてます!」なんて、いつものワンコのような笑顔で答えている。
(……この状況、本当に大丈夫なのかしら)
自席に戻ると、デスクには付箋の貼られた資料が置かれていた。
『課長、無理しすぎですよ。15分休憩してください。 高瀬』
「……指示出しまでされるようになったら、上司失格ね」
そう呟きながらも、私の口元は緩んでしまう。
かつての孤独な戦場だった職場が、今は彼という存在のおかげで、どこか柔らかな温度を帯びている。
けれど、実務に戻れば現実は甘くない。
私はパソコンを開き、警察から届いたメールに目を通す。
元カレ・宏太への「警告」は正式に出されたが、あちらの弁護士が「示談」を求めてきているという。
(……示談。お金で解決して、またあいつが自由になる……?)
背筋を冷たい汗が流れる。
マウスを握る指先に力が入り、カチカチと無機質な音がデスクに響いた。
「───先輩」
不意に横から伸びてきた手が、私のマウスを操作する手を優しく制した。
驚いて見上げると、高瀬くんが真剣な眼差しで私を見下ろしている。
「…また、怖いこと考えてましたね」
「……あ、高瀬くん…ちょっとね。ちゃんと仕事に戻らなきゃ…」
「ね、先輩……ちょっと、屋上行きましょう。外の空気吸わないと、また倒れますよ」
「え、でも、まだ資料が」
「俺がやります。後で確認だけしてください」
彼は強引に私の椅子を回すと、立たせるようにして腕を引いた。
周囲の社員たちが「おっ、まーた課長連れ出されてる」とニヤニヤしながら見ているが
今の高瀬くんにはそんな視線は一切届いていないようだった。
屋上へ向かうエレベーターの中、二人きり。
高瀬くんは何も言わず、ただ私の少し前を歩く。
その背中が、昨夜ベッドの隣で感じた熱を思い出させて
私は自分の胸の鼓動がまた騒がしくなるのを感じていた。
「……高瀬くん。さっきは、ありがとう」
「礼なんていいですよ。……俺は、凛さんが一人で震える時間を、一秒でも減らしたいだけですから」
振り返った彼の瞳は、昼間の光を反射して、驚くほど真っ直ぐに私を射抜いていた。
会社では上司と部下。
けれど、その境界線は
彼の一歩踏み込んだ献身によって、音を立てずに消え去ろうとしていた。
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