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おまる
残業を終え、高瀬くんのマンションに帰宅した
私たちは、ようやく張り詰めた糸を緩めた。
シャワーを浴び、リビングで温かいハーブティーを飲みながら
テレビの微かな音に耳を傾ける。
「…今日もお疲れ様でした、凛さん。部長室でのやり取り、格好良かったですよ」
「別に普通よ」
少しずつ、彼に素直な言葉を返せるようになってきた。
高瀬くんは嬉しそうに目を細めると、ソファに座る私の隣へと距離を詰めてきた。
「……頑張りましたね」
慈しむような、優しい声。
彼は慈愛に満ちた表情で、私の髪を整えようと、ゆっくりと大きな手を伸ばした。
ただの、労いのジェスチャー。
彼が私を大切に想っている証拠。
けれど。
「っ……!!」
彼の指先が私の前髪に触れる直前、私の身体が勝手に跳ねた。
喉の奥からヒュッと空気が漏れ
私は無意識に両腕で頭を抱え、身体を丸めて身をすくめてしまった。
脳裏に、宏太の怒声と、振り上げられた拳の残像がフラッシュバックする。
『お前が悪いんだろ!』
ガタガタと歯の根が合わないほど震えが止まらない。
「…あ、…っ、ごめん……」
「……凛、さん」
差し出された高瀬くんの手が、空中で止まっている。
その指先が微かに震えているのを、私は視界の端で見ることしかできなかった。
彼は、傷ついたような、でもそれ以上に自分を責めるような、痛切な表情を浮かべていた。
「……すみません。俺、無神経でした」
「ち、違うの、高瀬くんが悪いんじゃなくて……その、元カレのこと、思い出しちゃっ、て…っ」
「……わかってます…そいつが凛さんに付けた傷、そんなに簡単に消えるもんじゃないですよね」
重苦しい沈黙がリビングを支配する。
私が必死に震えを抑えようとしていると
高瀬くんは無理に触れようとはせず、少しだけ座る位置を離して
私の目線に合わせるように床に膝をついた。
「凛さん。……今日から俺と一緒にリハビリ、しませんか?」
「……リハ、ビリ?」
「はい。凛さんの身体に染み付いた『男の手は怖いもの』っていう記憶を、俺の手で、全部塗り替えたいんです」
「……もちろん、凛さんのペースでいい。嫌ならすぐに止めるし、今日は触りません」
彼はそう言って、自分の両手を膝の上に置いて見せた。
その手は、昨日私を抱きかかえてくれた、温かくて逞しい手。
「…まずは、言葉だけで。俺は、凛さんを傷つけない。俺の手は、凛さんを守るためにあるってことを、時間をかけて証明させてください」
彼の静かで力強い宣誓を聞きながら、私は抱えていた腕をゆっくりと解いた。
涙が溢れて止まらない。
呪いのような過去に縛られた私を、彼は見捨てず、その傷ごと抱きしめようとしてくれている。
「……なんで、高瀬くんはこんなにしてくれるの…っ、」
「先輩が好きだからですよ。…俺、先輩にもっと好かれたいし、信頼してほしいですから。いくらでも粘ります」
「…っ、……」
弱々しく差し出した私の指先に、彼は触れるか触れないかの距離で、そっと自分の指を近づけた。
夜の静寂の中、二人の「心の再生」が、静かに始まった。
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