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#ワンナイトラブ
おまる
幸せな余韻を全身に纏ったまま迎えた、月曜日の朝。
左胸、服の下で揺れる指輪の重みが、私の背中を優しく押してくれる。
オフィスに入ると、週末の「お家デート」で充電したおかげか、パソコンの画面すらどこか輝いて見えた。
「おはよう、結衣」
デスクに座るなり、隣の席の徹さんが声をかけてくる。
周囲にはバレない程度に、けれど確かな熱を孕んだ視線。
私は少しだけ頬を染めて、「おはようございます、徹さん」と、あえて仕事用の顔で返した。
二人の関係は、今や社内の誰もが知る「公認」になっている。
かつてのような陰口や刺すような視線は消え、穏やかな日常が戻ってきたはずだった。
けれど、そんな高揚感は、午前中の会議の後に一気に吹き飛ぶことになる。
「田中さん、ちょっといいかしら」
呼び止めたのは、美佐子さんだった。
いつもなら完璧にセットされた髪、隙のないメイク、そして周囲を威圧するような鋭いオーラ。
けれど、今日の彼女はどこか違っていた。
ルージュの色はいつもより淡く、その瞳には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
「あっ、美佐子さん。企画書の件ですか?」
「いいえ。……屋上へ来てちょうだい。誰にも見られないようにね」
それだけ言い残すと、彼女は翻るスカートの裾を揺らして、足早に去っていった。
ただならぬ気配に、私の心臓が騒ぎ出す。
徹さんと視線が交差した。
彼は小さく頷き、「何かあったらすぐに連絡して」とでも言いたげに目配せを送ってくれる。
屋上に出ると、冷たい風が吹き抜けた。
フェンス際に立ち、都会のビル群を眺めていた美佐子さんが、ゆっくりと私の方を振り返る。
「……田中さん。あなた、幸せそうね」
「え……?」
「いいのよ、嫌味じゃないわ。……偽装から始まったなんて嘘みたいに、今のあなたたちは『本物』に見える。正直、少しだけ羨ましいわ」
自嘲気味に笑う彼女の横顔は、私が知っている
「お局様」のそれではなく、一人の脆い女性のようだった。
彼女は深く息を吐くと、視線を遠くへ投げたまま、震える声で本題を切り出した。
「実は私……会社を辞めることにしたの」
頭を強く殴られたような衝撃が走った。
美佐子さんはこの会社の功労者であり、誰よりも仕事にプライドを持っていたはずだ。
「どうしてですか!? 徹さんのことなら、もう……」
「違うわ。そんな小さな理由じゃない。……これを見て」
差し出されたスマートフォンの画面。
そこには、彼女のSNSのアカウントに執拗に送られてきた
誹謗中傷と機密情報漏洩を疑わせる捏造画像の数々が映し出されていた。
「柏木の仕業よ。あいつ、自分が沈む前に、私を道連れにするつもりなの。……私が過去に担当した案件のデータを改ざんして、背任行為を働いたように見せかけている。会社も、私を調査対象にするって……」
美佐子さんの指先が、わずかに震えている。
「私はもう、戦う気力が残っていないの。……ごめんなさいね、最後にこんな暗い話をして」
彼女は無理に微笑んで、私の横を通り過ぎようとした。
その背中は、かつて私を厳しく指導していた時よりも、ずっと小さく見えた。
一人残された屋上で、私は立ち尽くした。
かつての敵。私を苦しめた人。
でも、彼女が仕事に対して持っていた情熱だけは、紛れもない「本物」だったことを私は知っている。
(このまま、終わらせちゃいけない……)
私は駆け出した。オフィスで待っている、誰よりも頼りになる彼のもとへ。
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