テラーノベル
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楡野奈々は、息を止めたまま“母”の笑顔を見つめていた。
その口元は、まるで薄い膜を裂いたように歪んでいた。
だが、血は流れていない。そこに“人間としての痛み”はなかった。
「……どうしたの?奈々?」
声は柔らかい。でも、音の重なりに“遅れ”があった。
口が動いてから声が出るのではない。
声に合わせて、口が“動かされている”のだ。
奈々は無言でPCを閉じた。
「ううん、何でもないよ。ちょっと……眠れなくて」
「そう。明日、学校でしょ? 早く寝なきゃダメよ」
“母”はそう言って微笑んだ。
けれど、その目は笑っていなかった。むしろ、どこか“確認するように”奈々を観察していた。
(もう、わかってるのかもしれない)
自分が“見た”こと、“聞いた”こと、気づいた“違和感”の正体を——
そして、自分がもう“喰われる寸前”であることを。
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翌日、学校では一人でいることに不安を覚えた奈々は、亮太を探した。
彼は校庭の裏手、雑木林の影で待っていた。手には封筒を抱えている。
「やっぱり来たな」
「亮太、昨日の夜……“あの人”が部屋に入ってきたの」
「もう動いてるんだな、“それ”。」
亮太は封筒の中身を見せた。
それは、都内の大学病院の精神科医が極秘に記した調査報告だった。
“灰の女”を目撃したとされる複数の患者の、共通症状と行動の記録。
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・自分の顔が他人に見えるという幻視
・鏡に映った姿が“遅れて動く”
・身近な家族が“誰かの皮をかぶっている”と主張
・灰の匂い、皮膚の乾燥、口角の裂傷
・最終段階で自我を失い、“喰われた側”の記憶を再現し続ける
・生存者の中に、皮膚移植を受けた者が多数含まれていた
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「記憶を……再現?」
奈々は引っかかった言葉を繰り返す。
「“灰の女”は、ただ姿を模すんじゃない。
“記憶”ごと、皮膚の内側からコピーする。
だから声も、癖も、表情も、遺された家族が騙されるほど完璧なんだ」
「じゃあ、どうして……口だけは、裂けるの?」
「それは、“模す”ために喰うからだよ。
口が裂けるのは、その“捕食の痕跡”だ。
誰かの記憶を奪い取るとき、まずその人の顔を“喰らう”んだ。皮膚ごと」
亮太は、報告書に挟まれていた一枚の写真を差し出した。
事故現場で撮影された、真奈の遺体。
火災で焼けた車内の写真には、首元から上が真っ白に欠け落ちた女性のシルエットが写っていた。
「5年前、君の家族が事故に遭った時……母さんの顔だけが、焼け残っていなかった。
それ、事故で焼けたんじゃない。“灰の女”が……喰ったんだよ、顔を」
奈々は膝が震えるのを感じた。
じゃあ、“あの人”は——
5年前の事故で死んだ母の“顔”を、今も再現しながら動いているだけなのか。
“あれ”は、皮をかぶった“記憶の人形”だ。
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その夜。
奈々は覚悟を決めて、“母”の部屋に再び向かった。
鏡の前には、昨日と同じ姿勢で、“母”が座っていた。
「ママ、話したいことがあるの」
“母”はゆっくりと奈々を振り返った。
顔の下半分が、笑顔に引きつっている。
だが、その表情はまるで“凍って”いるように動きがない。
「なあに?」
「思い出して。私の誕生日、5年前の……どこでお祝いした?」
沈黙。
“母”は数秒、無言で口元をピクリと動かした。
「もちろん……リビングで。ケーキも焼いたわよ。ほら、チョコの……」
「嘘だよ。あの日、リビングは工事中で使えなかった。
お祝いしたのは……病院の屋上。お父さんが、こっそり連れて行ってくれたの」
“母”の顔が、ピキ、とひび割れたように止まる。
鏡の中の姿も、同時に止まった。
「……あなたは誰?」
奈々は声を強めて言った。
「私の母を返して」
その瞬間、鏡の中の“母”が笑った。
裂けた口元から、黒い灰のような何かがぽろぽろとこぼれる。
「私はずっと、あなたを見てたのよ……奈々……
あなたの笑顔が、可愛かった……だから、“それ”を模しただけ……」
奈々は部屋を飛び出した。
だが、背後で聞こえたその声が、母の声ではなく、誰か別の女の声に変わっていた。
それは高く、そして深く、何か“本当に古いもの”の響きを孕んでいた。
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翌朝、楡野祐介が、異変に気づいた。
妻の真奈が、ベッドの上で固まっていた。
顔は笑っている。
だが、動かない。
呼吸も、心拍も、あった。
だが、目が、鏡の方を見たまま動かなかった。
羽奈が泣きながら言った。
「ママ、ずっと……誰かに真似されてるって、言ってたの……」
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