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鏡の奥で、誰かが笑っている。
目の前にいる“それ”とは、違う誰かが。
奈々は目を逸らすことができなかった。鏡の中の“母”が動かないその瞬間、
“別の誰か”が、鏡の奥から覗き返しているのを見たのだ。
(あれは……もう、母じゃない。けれど……)
心の奥底では、まだほんの一滴だけ、“戻ってきてほしい”と願う自分がいた。
それが、“灰の女”に心の隙間を与えてしまったのかもしれない。
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その夜、楡野家の鏡は、ひとつ残らず布で覆われた。
祐介の指示だった。
「いいか、絶対に布を取るな。
鏡の前では、自分を見ようとするな。……見つめ返されるぞ」
祐介の手は震えていた。
彼もまた、何かを知っている。
いや——事故の時から、“何か”に気づいていたのかもしれない。
奈々は思い切って祐介に尋ねた。
「お父さん……“灰の女”って、知ってるんだよね」
沈黙。
祐介は答えなかった。ただ、鏡の前にあった古い写真立てを手に取り、
中から1枚の写真を抜いた。
そこには、奈々が生まれたばかりの頃の家族写真が写っていた。
父、母、奈々、そしてまだ幼い羽奈。
だが、もう一人、知らない女が写っていた。
長い黒髪。白いワンピース。顔の輪郭が曖昧で、笑っている。
口元が、ほんの少しだけ、裂けていた。
「この女……誰?」
「……“いたんだ”。お前が生まれたときから、ずっと。
でも……俺たちだけじゃない。どの家にも……“入り込む”んだ、あれは」
祐介の声が震えていた。
「“灰の女”はな、最初は“模す”だけなんだ。
家族の誰かに似た“ふり”をして、隣に座ってくる。
でもそのうち、言葉を覚えて、声を盗んで、記憶を噛み砕いて、
最後には……本物がいなくなる」
奈々は、ゾッとした。
「じゃあ……お母さんは……」
「真奈は、あの事故のときに……もう“中に取り込まれてた”。
俺は、気づいた。でも、あのとき……
“戻ってきた彼女”の笑顔を、俺は見てしまった。
それを……手放す勇気が、俺にはなかった」
彼の涙が、膝の上に落ちた。
「俺は、あの女に“気づかなかったふり”をした。
そのせいで……家族を守れなかった。
もう誰にも、同じことをさせたくない」
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翌日。
町では、不可解な病気がさらに拡大していた。
“顔の皮膚が硬化し、感情を失い、最後には口元が裂けてしまう”という奇病。
医療機関は「新種の自己免疫疾患」と診断していたが、
罹患者たちの共通点は、皆が“鏡”を見ていたことだった。
亮太が学校を早退し、奈々を図書館の裏に呼び出した。
「やっぱり“あの映り込み”が原因なんだよ。
俺の母さんも、最初は鏡台の前で“もう一人の自分”と話し始めた」
亮太は、ノートの中にまとめた“灰の女”の特徴を示した。
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《灰の女:伝承と症状まとめ》
・古くは江戸時代、“顔なしおんな”として記録
・姿を写す鏡や水面を通して接触する
・最初は“よく似た人”として認識される
・会話を重ねるごとに、“本物”の記憶を奪っていく
・最終的に、鏡に“本物”が映らなくなり、模倣体だけが現実に残る
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「つまり……私たちは、もう“それ”の世界に半分、足を踏み入れてる?」
「その可能性はある。でも、まだ抜け出せる」
亮太は、震える声で続けた。
「一つだけ……“灰の女”を追い出す方法が、あるかもしれない」
奈々の目が見開かれた。
「本当?」
「ただし、危険だ。
“灰の女”に取り憑かれた人間の“記憶の中心”——
つまり、その人間が最も強く愛した記憶を壊す必要があるんだ」
奈々は息をのんだ。
「記憶を……壊す?」
「模倣体は、模倣している“記憶”で形を保ってる。
だから、その記憶を喰い破ってしまえば、形が保てなくなる」
「でも、それって……お母さんの……“私との記憶”を消すってこと?」
亮太は答えられなかった。
奈々は下唇を噛んだ。
“自分との思い出”を壊さなければ、“母”を取り戻すことはできない。
それは、“母を失う”のではなく、“母が愛した自分”を消すこと。
けれど、それでも……もう、選ばなければならない。
(私が……終わらせなきゃ)
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その夜。
奈々は一人で、母が使っていた鏡の前に立った。
布を剥がすと、鏡の奥に、笑う“母”がいた。
「奈々……大好きよ。いつも見てたの。
笑って、泣いて、怒って……そのすべてが、愛おしかった」
「やめて」
奈々は、両手で鏡を押さえた。
「あなたは……私の記憶を使って、母になりすましてるだけ。
そんなもの、もういらない!」
そして——
鏡に、拳を叩き込んだ。
ひび割れる鏡。
崩れる笑顔。
“母”の顔が、灰のように崩れていく。
「返して……お母さんを……!」
その瞬間、鏡の中の“母”が叫んだ。
「お願い、奈々……あの時の笑顔だけは、消さないで——!」
砕けた鏡が床に散り、静寂が訪れた。
奈々は、崩れ落ちるようにその場に膝をついた。
——終わったのか。