柔らかな音色を、岩崎の指先が紡ぎだす。
甘い囁きのような、その調べに月子は、うっとりした。
今までとはまた異なる曲調は、西洋音楽の奥深さと、岩崎の演奏者としての力量というものを、月子に見せつけた。
同時に、その様な人と見合いをした。つまり、夫婦になり、音楽家の妻として、自分はやっていかねばならないのかと、月子は、少し恐ろしくなる。
確か、芳子は、そうねそうねと、返事をしていれば良いだけだと言ったが、なんとなく、その本当の所、音楽家たるものへ、言葉は必要なく、その発する、音というもの全てを受け入れなければならないのだと、月子に課せられている役目が見えてきたような気がした。
ただ、そんな堅苦しい事があったとしても、月子は、岩崎の演奏を側で聞きたいと思った。
この音に包まれて、暮らして行きたいと心から思ったのだ。
曲のせいなのか、岩崎の演奏者としての技量なのか、それは、月子にも分からない。
見合いという名目で、目の前に広がる自分の知らない世界へ、月子は足を踏み入れざるを得なくなり、こうしているが、どこか、その先を見てみたいという気持ちにもなっていた。
「ぴぃーぴーぴぃー」
月子の隣から、お咲の唄声が流れて来た。
ゆっくりと、お咲は、岩崎の演奏に合わせ、体を揺らしながら唄っている。
「はい!そこまで!勝負あった!」
男爵が叫ぶ。
「……勝負だったのかよ、っていうより、お咲、何で唄うかなぁ……」
ははは……と、中村は、泣き笑いながら、畳に突っ伏した。
「なるほどなぁ。やっぱり、お咲は、分かっているんだ。聞き分ける事が出来るのか……」
岩崎は、手を止め、感慨深げに言うが、すかさず芳子が抗議する。
「あら!京介さん!演奏は、終わりなの?曲は途中じゃない!」
「まあ、まあ、芳子。これは、お咲の能力を確かめる為だったのだから」
「いやこりゃまた、男爵の旦那?お咲は、なんで、唄ったんですかい?」
寅吉が、とりあえず、岩崎へ茶を入れながら、訳がわからんと男爵へ問った。
「ああ、寅さん。お咲は、中村のにいさんの、バイオリンに満足しなかったんだよ。確かに、俺が聞いても、京さんの方が上手いと思ったねぇ」
二代目が、俺も茶をくれと、寅吉へ催促しつつ、男爵の代わりに答える。
へぇー、と、寅吉は答えつつ、二代目から湯飲みを受け取った。
「……なんだか、とても、優しくて、深い音だと思いました……」
ポツリと聞こえたこの一言に、一同、えっ?!と、驚きの声をあげた。
月子だった。
「あっ!わ、私!!」
うっかり、余計な事を言ってしまったと、月子は、皆の視線から逃げようと、さっと俯く。
その姿を岩崎は、大きく目を見開き、見つめているが、あー、そういえば、と、男爵が、ニヤニヤしながら皆の気を引いた。
「この曲は、確か、作曲者のエルガーが、婚約記念にと婚約者へ送った曲のはずだがねぇ。私の記憶違いでなければなぁ……」
男爵の言葉に、芳子が、きゃーー!と黄色い声をあげる。
「やだっ!京介さんったら、いつの間に月子さんへ曲を作っていたのぉ!それじゃあ、中村さんは、勝てっこないわよぉ!!」
なんだ、早く言ってくれないとぉ、などと、芳子は、おかしな事を言っている。のは、その場にいる皆も分かっていたが、
「へぇ、それも、ありだねぇ」
と、二代目。
「まあ、そうゆうことなら、よしとするか」
と、中村。
「話は、全然違うけれど、芳子の勘違いもたまには、良いねぇ」
と、男爵。
「なんですね?皆で、ニヤニヤして」
寅吉だけは、ポカンとしている。
「京介、それも、いいんじゃないのか?そして、その新曲を、お咲の前で、演奏してみなさい」
「いやいや、岩崎の旦那!月子ちゃんの前で、でしょう!」
二代目が、男爵へ意味深に目配せする。
「なっ、ちょっ、なんですか?!その、月子のためというのわっ?!こ、これは、お咲の才能を確かめるためだったでしょ!!というか!そもそもは、中村!お、お前の演奏が酷すぎるからだろうっ!」
妙な話の流れに、岩崎は慌てきった。
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