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言われたい放題に、中村は、肩を落とした。
「そりゃね、まだ、おれは、学生ですからね。岩崎先生様には、負けますよ。けどねぇ、おれは、バイオリンが専門で、岩崎は、チェロが専門で。それで、子供にまで相手にされないと来たら、もう、どうすれば」
中村が、魂が抜け切ったような顔で言った。
「中村君、そのどうすればついでだが、私は、どうすればいいかね?」
弱りきった中村へ、男爵が声をかける。
あっと、中村は息を飲んだ。
就職活動に使う、紹介状を男爵に頼んでいた事を思い出したのだ。
しかし、見事惨敗。これでは、どうにもなるまいと、中村も悟ったようで、眉尻を下げ、黙りこんだ。
「まあ、そう、しょげかえるんじゃないよ。私は、若者が、海外へ出向くのは賛成なんだ。もっと、外の世界を見て、新しい文化を日本へ持ち帰って欲しいと思っている。だから、紹介状は、書くつもりでいるよ。ただ、嘘は書けない。音楽に関しては、まだ発展途上と記させて頂く」
それでも良いなら、中村の希望した紹介状を書こうと、男爵は言う。
「……あら、京一さん?楽団員になろうとしているのに、演奏がだめだって、それ、紹介していることになるの?」
芳子が、怪訝な顔をした。
「うわっ、男爵夫人、さすが、と、いいますか、キツイ一言。中村のにいさん、倒れちまいますよ?!」
二代目の入れた茶々通り、中村は、力無く俯いている。
「中村、別に兄上の紹介状がなくとも、採用試験は受けられるだろう?」
見かねた岩崎が、中村へ声をかけるが、それは焼け石に水状態で、中村は更に寂しげな顔をした。
「……岩崎、お前に言われると、なんか、余計落ち込むわ。お前は、才能も地位もある。だけど、おれみたいな、何の後ろ楯もなく、才能も普通、いや、それ以下だな……となると、試験も、断然不利なんだ……」
競争相手は、音楽学校で主席の面子、そして、学校から当然、推薦状をもらっている。
その中で勝ち抜くのは、至難の技。男爵の名前を借りようと思ったのだと、中村は小さく言った。
「へぇ、なんだか、よくわからないけど、まあ、確かに、男爵様のお墨付きって事になりゃー、相手も、へいへい、どうぞ、どうぞって、なるわなぁ」
うーんと、寅吉が唸る。
「いや、寅さん、聞いて驚け!実はね、岩崎の旦那ってーのは凄いんだよ。芸術業界では、有名な支援者《パトロン》なんだ」
「二代目、なんだい?その、芸術ってーのは?パトロンってのは?」
寅吉が、さっぱりわからんと、また唸る。
「あー、つまり、洒落者、数寄者って感じかねぇ。これぞと思ったら、入れ込む訳よ」
ほおー、と、二代目の説明に納得したのか、寅吉は、男爵へ羨望の目を向けていた。
男達の会話に、月子は、着いていけなかった。寅吉以上に、皆の話が分からずにいる。
しかし、これから、こうゆう話を、いつも聞かなければ、いや、参加しなければならないのだと思うと、自然、表情が固くなる。
月子の戸惑う様子に岩崎は気が付いたのか、
「で、どうして、人の家で、ああでもないこうでもないと、居座ってるです?!挙げ句、お咲まで巻き込んで、演奏までしなくてはならんのですか?!」
何時ものごとく、声を大きくはりあげ、皆を、追い帰えそうとした。
「やれやれ、咜られてしまった。芳子、そろそろ帰るぞ」
「そうね、いつまでも、お邪魔してても……だわね」
男爵夫婦は、腰を上げ、帰り支度にかかったが、寅吉が、
「ちょいと、お待ちを、お二人さん!」
と、何故か、男爵夫婦を引き留める。
「暫く、暫く!」
「なんなのよ、寅さん、芝居みたいに」
ケタケタ笑う二代目へ、寅吉は、まさに、役者の様に見栄を切った。
「待たれい、待たれい!うちの、かかあが、そろそろ来る頃なんだよっ!」
ん?!と、皆、寅吉へ注目したが、岩崎だけは、迷惑そうに、また増えるのかと、ぼやいている。
すると、寅吉の言うように、お勝手から声がした。
「引越しだからよ、新生活ってやつの始まりだろ?膳を用意したのさ!うちのが、待って来たようだ!」
寅吉は、はいよっ、と、態勢良く返事をすると、声がする奥向きへ向かった。
「なるほど、祝いの膳か……だが、我々は、帰ろう。芳子。月子さんも、疲れているだろうし……」
「そうよ、田口屋さんも、中村さんも、いつまで、居座っているの?!そろそろ、二人っきりにしてあげなさいよっ!」
芳子は、叱りつける様に言い、腰を上げた男爵に続いた。
「月子さん、シベリア残ってるから、ちゃんと、食べてね。それと、夕飯は、お膳があるみたいだから、気を使わなくて良いのよ。この人達のせいで、あまり、食べてないでしょ?ちゃんと、食べて?」
芳子の労りに、岩崎が、はいはいと、軽々しい返事をしながら、男爵夫婦を追い払おうとし、続いて、二代目に目をやった。
「あー、京さんも、月子ちゃんも、おかまいなく。中村のにいさんったら、泣きべそかいてるからねぇ、ちょいと、励ましますよ?!」
と、軽口を叩き、五号徳利を抱えて、酒盛りの態勢に入ろうとしていた。
「さあさあ、中村のにいさん。元気を出しな。今夜は、飲みあかそうぜ!」
まるっきり帰る気配のない、二代目と中村へ、岩崎は、眉をひそめる。