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稽古小屋の片隅にある作業机をどうにか小綺麗にし、雑多に置かれていた梯子や大道具を動かしたスペースに招かれ、アベルと令嬢が座る。今にも壊れそうな古い椅子だ。
向かいに座る座長の椅子も似たようなものだった。
反面、劇に使うハリボテの板や小道具の類いには金がかかっている。
「時に、ご令嬢はどのようにお呼びすればよろしいですかな」
にこやかな座長の言葉に令嬢が返す。
「ではそのままで、名前はまだ秘密なの」
令嬢は既に名前を取り戻しているが、まだ大衆に名を伝えるわけにはいかなかった。内面の問題は解決したが、残るのは政治的な問題だ。
現在トロンが享受している平穏は幸運によって保たれているに過ぎない。
もし令嬢が自分の名を告げればトロンを守っている物語は綻び、取り返しが付かなくなるだろう。
あってはならないその矛盾はそっと、眠らせておかなければならない。
そう難しいことではない。ただ、名前を隠していればいいだけのことだ。
「なるほど、伏線ですな」
座長が得心いったという風に、にやりと笑う。
別に心当たりがあるわけではない、彼にとって物事は楽しければそれで十分なのだ。
「単刀直入に伝えると、この台本を上演してもらいたい」
アベルが従者に手渡された台本を机に置く。
タイトルは「地下牢の姫君」。
台本(ほん)を見た途端、座長の雰囲気が変わった。
それは茂みで息を潜める狼のような静けさだった。まるで周囲から音が消え去ったかのように感じる。
「拝見します」
一礼して台本(ほん)を読む。
早い、物凄い速読だ。本当に読んでいるのかわからないくらい早い。
内容はこうだ。
継母にいじめられ地下牢に閉じ込められた令嬢は、少ない食事を猫に分け与えながら慎ましく暮らしていた。しかし、ある日猫は継母に殺されてしまう。令嬢は悲しみから自殺してしまいましたとさ。おしまい。
(え、これで終わり!? ひどくない!?)
座長は考える。
目の前にいるのは王子とその妻である。
ランバルドとの停戦条件がフリージアの王子とランバルドの令嬢の結婚である時点で、それは揺るがない。
でなければ今、戦争が停まっている理由に説明がつかないからだ。
もし黒かろうが王族が白だと言えばそれは白。もちろん黒だと言えば黒。逆らっても何もいいことはない。むしろ、頭を下げて何でもやりますと言った方がいい。お金もたくさんもらえるし。やらない手はないのだ。
甘い言葉をささやいて、王族貴族とお近づき!
やりたいことはできないが、お金はがっぽりもらえるぞ!
食うに困ることはない。人生勝ち組、トロンいち。
とってもえらい座長の名前はいついつまでも轟くだろう。
やっぱり人生お金だね!
「すみません、無理です」
座長の内心とは裏腹にそんな言葉が突いて出た。
何でどうしてそうなった!? 殺されるかもしれないぞ! 早くなんとか誤魔化して、さっきのなしって言うべきだ!!
「この台本(ほん)は面白くないです」
絞り出すようにそう言うと、令嬢が真っ赤になってぷるぷると震え始めた。
知ってる知ってる知ってるぞ!
これはあれ、初めて書いた脚本が酷評された時のやつ!
マジかよ。
これ奥様がお書きになれられたの!?
人生で初めて書いた超大作は魂の分身に近い、それを否定されるということは存在を全否定されるに等しい。本当はそんなことではないんだけど、そのように感じてしまうことがとても多い。ご令嬢の心痛、いかばかりか。
うーんこれはやばい。マジで殺されるんじゃない?
よし、土下座だ。謝るぞ!
「すみませんが、この台本(ほん)では上演はできません」
そう言うと、令嬢はぽろぽろと泣き出してしまった。
そうだよね、一生懸命書いたんだもんね! あーー! 何で俺はこうなのかなー!! でも、これが俺なんだよ。自分でもどうしようもないのさ!!
アベル王子はというと、怒るでもなく令嬢を見守っている。
アベルにハンカチを手渡され、令嬢が受け取った。
お通夜か? いや、それどころではない。
この世の終わりみたいな雰囲気だった。
「なぜですか?」
令嬢が涙を拭きながら、続ける。
「なぜダメなんですか?」
涙が光を反射して輝いている。
妖精みたいにかわいいけど、だからってダメなものはダメなんだよなァ。
いや、そんなことはどうでもいい。
理由、理由だ。納得してもらえるような理由を、いい感じに伝えなければ。
黒猫一座の命運は今、この座長の舌にかかっている。時間はない、すぐに答えなければただでさえ買っている不興を買い増ししてしまう。
かつてない速度で座長の脳が回転していく。
正論に意味はない。
つまらないから上演できませんって言っていいわけないし。
じゃあ、ダメだけどお情けで上演しますって言う?
もっとダメじゃん? ムカつくじゃん? 俺死ぬじゃん?
終わった!
黒猫一座、完!!
「だって……」
座長が絞り出すように言った。
大の男がぶるぶる震え、涙すら流して、続ける。
「令嬢ちゃんが可哀想だし……」
泣き落としである。
でも、その言葉は本心だった。
この台本では可哀想すぎて絶対客受けしないのだ。
伝われ、伝われ、伝われー! いや、無理があるな!? 無理だな!?
ここで令嬢は意外な反応をした。
「え、可哀想……ですか?」
心底意外そうなその言葉に、黒猫一座はざわついた。
「ちゃんと令嬢は死ぬから、ハッピーエンド、だし……」
極大の疑問符が一座の頭上に浮かぶ。
それは一体。
なぜ、主人公が死ぬとハッピーエンドなのですか?
「死んだらもう苦しまなくて済むじゃないですか」
令嬢が晴れやかな顔でろくろを回している。
死は救済だった。
「いや、いやいやいやいや。違うでしょ!?」「生きて幸せになりましょうよ!」「人生には楽しいことがいっぱいあるんですよ!?」「創作の中でくらい王子様と結ばれたいとか!」「美味しいもの食べたいとか!」「猫に生き返って欲しいとか!」
一座の役者たちが次々にツッコミを入れていく。どう考えても普通に失礼なのだが、やっぱり不思議と失礼には感じない。
「猫が、生き返る……?」
そんなことはありえない。あるわけがない。
死んだものは二度と生き返らない。
たとえ時が巻き戻っても、それは生き返りではない。
あの日、あの時、死んだ事実は変わらないからだ。
座長がアベル王子の方をちらと見ると、少し楽しげだった。
なるほど、あくまで見守る立場ということか。
ならばいける、やれる、活路はあーる!
「よし、猫は生き返らせよう!」
そう言って座長は台本の余白に「ここで猫が生き返る」と書いてしまった。その上、矢印まで引いた!
「あーー! なんてことをするの!」
「いーの! これは劇なんだから、いいの!!」
座長はみるみるうちに令嬢の台本にファンタジーを付け足していく。夢も希望もない地獄の底の物語に、光を書き入れていく。
伏線を撒き、回収し、謎を増やし、解決していく。
「うーん、それはちょっと」
「じゃあ、これなら?」
「アリね」
初老の男と年若い令嬢が、まるで子供のようにああだこうだ言い合いながら、物語を重ねていく。
「え、なんでそんなことになるの!?」
「だって、そうなった方が面白いでしょ!!」
「ま、まぁ。そうだけど。面白いけど、脈絡がないわ! こんなのおかしい!」
「いーの! この台本の世界ではそういうこともあるの!!」
黒猫一座は誰一人、語り合うことなく認識する。
この子の苦しみは光を知らないこと、一時の夢を知らないこと。
愛を友情を希望を救済を、その麗しき虚像の影を見たことがないこと。
娯楽の喜びを知らないこと。
ならばこいこい、寄ってこい。
そういうことなら俺らの仕事、面白いもの見せてやる。