教師不在の教室に、いくつもの笑い声が響く。
楽しいから?
おもしろいから?
どちらも不正解だ。その少年を皆で嘲笑っている。
そういう意味では、楽しい上におもしろいのかもしれない。教室内の全員でたった一人を標的にして、なじり、貶めて、所持品を奪う。
彼らにとっては最高の暇つぶしであり、彼にとっては最低の地獄だった。
投げかけられる言葉はパターン化している。
チビ。
デブ。
不細工。
バカ。
ほとんどがこれらであり、少年は涙を浮かべながらも必死に耐え続けた。
子供は残酷だ。大人がそうなのだから、子供も大差ない。
言葉の暴力に耐え、盗まれた教科書や筆記道具は買い直す。
自身への攻撃が加速しないよう、授業中も休み時間も息を潜めていた。
それでもいじめは止まず、当然と言えば当然だが、ついに限界は訪れる。
トドメの罵倒は、貴族だからこその決定打となった。
「エヴィ家の恥、死ね」
ウイル・エヴィ、十二歳。世間を知らぬ子供でありながら、両親に迷惑をかけたくないという想いと、何よりいじめから解放されたい一心で、自ら命を絶つことを決意する。
◆
(あ……、はぁはぁ……、夢、か……)
静寂と暗闇の中、ウイルは悪夢から逃げるように目を覚ます。
毛布もかけず、落ち葉の上に寝ていたからか、体はわずかに冷えており、少年は起き上がる素振りすら見せずに体を震わせる。
森林地帯と言えども、夜中は虫も寝ているらしい。静まり返った世界の中で、少年は孤独感に襲われながらひっそりと耐え続ける。
(こんな……、見るなんて……、気持ち悪いな)
家を飛び出し、環境はガラリと変わった。それでも振り返れば、たった四日前でしかない。
同級生からいじめられることは二度とないが、脳裏にはしっかりと焼き付いている。
忘れることはまだ出来ない。
忘れたくても日が浅すぎる。
ゆえに、悪夢を見たとしても仕方ないのだろう。そう自分に言い聞かせ、ウイルは今一度瞳を閉じる。
起きるにはまだ早い時間だ。正確な時刻はわからずとも、先が見通せぬほどの暗さが森を支配している。
(寝ないと。明日もいっぱい歩くんだから……)
旅は体力勝負だ。目的地は随分と近くなったが、一、二時間程度の徒歩で着けるような距離でもない。
睡眠が必要だ。体力を温存するためにも、疲労を取り除くためにも、そうすることが最善だと十二歳ながら理解している。
土と草、そして樹木の匂いを肺いっぱいに吸いながら、集中すること五分。頭は冴え、もはや眠気などどこにも見当たらない。
(うぅ、無理。眠れない……。どうしよ……)
何度寝返りを打とうと、状況は好転しない。体は重たいままだが、頭が完全に覚醒してしまった。
あえて目を開け、念じるように閉じようと時間の流れは非常にゆっくりだ。朝の気配は全く感じられず、妙な気だるさが今はただただ腹正しい。
(起きるしか……ないのか)
今は一旦諦め、もそりと上半身を起こす。視線を動かすと、そこではエルディアが幸せそうに眠っている。
邪魔をしてはならない。そう思いながら短剣を掴み、静かに立ち上がる。
寝ぐせを気にもせず、小麦色の衣服が汚れたままだろうとお構いなしに、のそりのそりと小河を目指す。
(荒療治だけど……)
眠るためだ。
ついでに腕を磨くためだ。
ウイルはわずかに腰を落とし、いつもの構えへ。
一石二鳥の素振りに取り掛かる。
いつもより柄を強く握り、苛立ちをぶつけるように振り下ろす。虚構の敵に深手を負わすも、少年の気分は晴れてくれない。
二度、三度と続けようと、頭の中は煮え切ったままだ。
それでも続ける。
がむしゃらに刃を振り回す。
鍛錬であり、疲れるためであり、そして、悪夢を払うためだ。
(もう、思い出したくない……。嫌なんだ!)
教室で皆から責められていた時のことを思い返すと、それだけで吐き気がこみあげてくる。その上、汗が吹き出し、気分は落ち込み、思考が定まらない。
疑いようのない、心的外傷だ。
忘れることが出来ないのなら、記憶の奥底に封印したい。傭兵という非日常がそうしてくれると期待していたが、夢として再び現れた以上、そうではないらしい。
もしくは、時間がかかるだけなのか?
今はそう思い込みながら、現実逃避のようにブロンズダガーを振り回す。
「はぁ、はぁ、はぁ……。疲れ……た」
ペース配分を無視した鍛錬が、少年の体力をあっという間に搾り取る。それを望んではいたが、腕の振りや刃の軌道を一切考慮しなかったこの行為に、疲労以上の効果はない。
(強くなりたいなぁ……)
肉体的にも、精神的にも、成長したいと願わずにはいられない。
傭兵という生き方を選んだ以上、魔物討伐は必須だ。それが出来なければ金など稼げず、最終的には飢え死んでしまう。
月明りすら見えぬ川沿いで、ウイルは靴と脱ぐ。素足を夜風にさらしながら、目の前の水流へチュポンと右足を浸す。
頭が痺れるほどの水の冷たさ。
やわらかな、それでいてくすぐったい感触。
そして、現実感のない静けさ。
それらを受け止め、体の中で混ぜ合わせた結果、祖国から随分と遠くまで来たのだと実感する。
ここは森の奥深くだ。動物だけでなく、魔物すらも当たり前のように彷徨っている。光源がないのだから、周囲を見渡しても何も見えない。完全なる闇に支配されている。
危険だ。次の瞬間にも、襲われるかもしれない。
にも関わらず、平然としながら左足も川に入れられる余裕が、今のウイルにはある。
感覚が麻痺しているのではない。夢の中で最大級の恐怖を味わったからだ。
生きた心地がしなかった。
一方で、今は自然そのものを味わえている。
実家では決して味わえなかったご馳走だ。野宿は面倒な上に不便だが、彼女のおかげで楽しめている。
「どしたのー?」
川の中で立ち尽くす少年に、そっと声がかけられる。
「あ、なんか目が覚めちゃって……」
ウイルは委縮しながら、そう返答する。
「そっかー。お、気持ちよさそう」
黒色の薄着と、茶色のロングスカート。寝間着を兼ねた彼女の普段着だ。
「これくらい浅いと、それはそれで風情がありますね」
この大陸には多数の川が存在する。ルルーブ森林のそれは非常に浅く、横幅も狭い。
「……君って、大人びてるというか、おじいちゃんみたいなこと言うよね」
彼女は笑う。そのまま歩み寄り、小川を前にスカートをすっと持ち上げる。
「そうですか? れっきとした十二歳ですけど……」
少年は口を尖らせる。若く見られることは日常茶飯事だが、年寄りと言われたことは初めてだ。
「あ、十二歳なんだ。そういえば、お互いのこと、まだあんまり知らないねー」
彼女もまた、川へ足を踏み入れる。
「そうですね。まだ出会って数日ですし……。ところで、スカート濡れちゃってますよ」
ウイルは隣の女性を見上げてから、すっと視線を落とす。ロングスカートの丈がわずかながらも水に浸っている。
「あう。まぁ、すぐ乾くっしょー」
指摘を受け、彼女はスカートをさらに高く持ち上げる。その結果、はち切れそうな両脚が露出するも、今は気にも留めない。
「いざとなったら、僕の魔法で乾かします。勢い余って燃やしちゃいそうですけど……」
コールオブフレイムは魔源さえあれば使い放題だ。燃料の類を心配する必要はなく、そのような使い方にも負い目を感じる必要はない。
「それは怖いなー。まぁ、焦げちゃったら、その部分をチョキチョキ切っちゃえばいいけど」
おしゃれなど二の次だ。そもそも傭兵などという仕事をしているのだから、衣服は汚れるばかりか、日常的に破れ、切り裂かれてしまう。
「その時は、町に帰ったら新しいの弁償します。どんなのがいいですか?」
お金はある。軍資金ゆえ、無駄遣いはしたくないが、彼女のためなら必要経費だ。
「えー、どんなのが似合うと思う?」
からかうように、その顔は笑う。
「うーん……。ショートパンツとか?」
嘘偽りない本気だ。太ももから下が披露されるが、それが良いと考えている。
「もう、エッチぃ。あ、ごめん!」
バシン。静かな森に快音が響く。傭兵の平手打ちが少年の背中を叩いた衝撃音だ。
(背中がすごく痛い……。こんな浅瀬で僕は溺れ死ぬのか……)
その威力は凄まじく、ウイルは当然のように正面から倒れこみ、今は水中で川底と接吻中だ。
「風邪ひいちゃうかもしれないから、とりあえず脱がせてあげるね」
「いえ、けっこうです! あ、止めて! くぅ、すごい! なんて力だ! ほ、ほんとに止めてー!」
エルディアとウイルの楽しそうな声が、森の中を駆け巡る。頭上の空はうっすらと色を帯び始め、空気も少しだけ柔らかくなっている。
朝と呼ぶにはまだ早い。早朝ですらない。それでも、もはや二度寝など出来そうにないのだから、二人はこのまま騒ぎ続ける。
悪夢のことなど、微塵も思い出せない。同じような夢を見せられ、再びうなされることはあるだろうが、少なくとも今はそれどころではない。
「ひえぇー!」
「ほれ、ほれ」
川の中でじゃれる二人。傭兵であっても、大人と子供であっても、楽しい時間は楽しいに決まっている。
イダンリネア王国を出発して三日目。新たな一日が始まろうとしている。
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