大人になるにつれて分かったのは、自分が生まれ育った土地の所有権を主張しているのは日本である実状と、ゲイシャというのは遊女ではなく、優れたアクターだということ。島を出て、ユジノサハリンスクの大学で日本語を専攻し、サハリンの日系企業で働きながら、日本への渡航を繰り返す生活が続いた。
ボーイフレンドの和久井と知り合ったのは、吉祥寺のショットバーだった。
付き合い始めて3年の月日が流れ、和久井からプロポーズされるのを待ち望んでいた矢先に、
「東京ジェノサイド」
が発生した。
当時、東京にいなかったエレーサは難を逃れた訳だが、ロシアの家族や友達と連絡が取れたのはつい先日のことで、
「東京は危険だから帰っておいで」
と、懇願する母親にエレーサは言った。
「安心してパパ、わたしはここを離れない。大切な人たちがロシア以外にもいるの。それってすごく幸せだと思う。だから安心して、ちゃんとわたしはわたしを守るから。近いうちに、クゥリを連れて帰るからね。みんなを愛しているわ」
クゥリと言うのは、和久井のニックネームだった。
エレーサは、本国からの退避勧告も無視し続けた。
それでも構わなかった。
キッチンの時計に目を向けると、深夜1時になろうとしていた。
赤毛の長い髪を束ねてコンロに火を灯すと、玄関のチャイムが鳴った。
インターフォンの画面に和久井の顔が見えた。
エレーサは火を一旦消して、玄関ホールへと駆けて行った。
その際、エプロンのポケットに、ロシア国旗と日本の国旗のおもちゃを忍ばせた。
5月5日。
今日はかわいい特別な日。
こどもの日に合わせて、エレーサはお子様ディナーをこしらえていた。
和久井の驚く顔が見たかった。
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