視点、朔
底板がカチリと外れ、箱の蓋が少し持ち上がった瞬間、ノックもなしに部屋の扉が開いた。
「朔ちゃん、ひなちゃん。晩ごはんはもう食べたでしょ?ひなちゃん、もう休む時間よ」
美佐子さんが、いつもの穏やかな笑みを浮かべながら、部屋に入ってきた。
しかし、彼女の視線は、俺たちの手元にある木の箱に向けられていた。
静寂が部屋を支配した。俺たちの手元にあるのは、美佐子さんの夢と、実母の命の全てが詰まった秘密の箱だ。
ひなは、箱をしっかりと抱え、美佐子さんをまっすぐに見つめ返した。
「美佐子さん。知ってたんでしょ?」ひなの声は、震えていなかった。「私たちが鍵を見つけて、台座のメモを読んで…そして、私がおにいちゃんに行動してほしいって願ってたこと」
美佐子さんの笑顔が、わずかに揺らぐ。
「ええ。階段下の物置に、鍵穴に合うものがないことは知っていたわ。あのメモは、七年間、あなたを影に閉じ込めていた朔ちゃんに向けた、私からのヒントよ」
俺は、美佐子さんの言葉に、全身の力が抜けるような衝撃を受けた。俺たちの行動全てが、美佐子さんの掌の上で転がされていた。
「なぜ……なぜそんなことを?」俺は絞り出すように尋ねた。「なぜ、俺たちが開けるのを待っていたんですか?」
美佐子さんは、静かに部屋の隅にあるイーゼルを見て、そして俺たちを見た。
「葉月(実母)の願いは、あなたたちに希望を継いでもらうことだった。その希望の小箱は、私が勝手にあなたたちに渡していいものじゃない。あなたたちが、自分で選び取るものだったからよ」
美佐子さんは、過去の記憶を語るように、ゆっくりと話し始めた。
「私は、葉月を失ったこと、そして、美術の世界での挫折のせいで、『色を活かせない私』になった。だから、あなたたちに血縁を隠し、私が失った全てを、あなたたちの『未来の可能性』のために捧げようと誓った。あなたたちを育てることが、私にとっての贖罪だった」
「でも、葉月はそれを望まなかった」陽が口を開いた。「葉月は、美佐子さんの才能が『死んだ場所』に、形だけの箱を置いた。それは、美佐子さんがもう一度、色を取り戻すための、最後の共同作業だったんでしょ」
美佐子さんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。七年間、美佐子さんの無表情な顔に、初めてはっきりとした感情の色が現れた。
「…そうよ。あの台座は、私への呪いであり、同時に、私をこの家から解放するための鍵でもあった。朔ちゃん、あなたが怖かったのは、私を傷つけることじゃない。葉月と同じように、大切なものを失うことを、誰よりも恐れていたのよ。だから、自分の殻に閉じこもって、ひなちゃんの光まで隠そうとした」
美佐子さんは、涙を拭わずに、優しくひなの頭を撫でた。
「ありがとう、ひなちゃん。あなたこそ、葉月が言っていた『未来の色彩』そのものだわ。そして朔ちゃん。ひなちゃんという『光』と、その鍵を取り返す『行動』を選んだあなたは、もう、怖がる必要はないわ」
俺は、七年間、心の奥底に閉じ込めていた恐怖と、美佐子さんへの感謝、そしてひなへの申し訳なさの全てを込めて、頭を下げた。
「美佐子さん、本当に、ごめんなさい…そして、ありがとう」
「さあ」美佐子さんは、静かに促した。
「開けてごらんなさい。それが、私と、あなたの母の、最後の共同作業よ。その小箱のメッセージが、あなたたちを、次の光の場所へ導いてくれるわ」
美佐子さんは、部屋の隅に立ち、俺たちに箱を託すように見つめている。部屋の空気は、もう重い秘密ではなく、温かい決意に満ちていた。
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