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第4話『夏休み』
夏休みに入り、気温30度を超える真夏日が増え始めた7月の終わり頃、アブラ蝉が杉の木を埋め尽くし、桜の木にはクマゼミやニイニイゼミが寄り付き——嫌になるくらい、どこに行っても灼熱の路上ライブを行っていた。
そんな外界から隔絶された、室温26度の涼しい部屋に初めて上がった私は、アルトラと二人で憎き夏休みの宿題と向き合っていた。
「あっつぅ……」
——何故か夏休みの『一日一行日記』をすでに完成させたアルトラは、首を振らない扇風機の前に陣取り、羽に向かって「あ~~」と声を出して遊んでいる。
アルトラに助けられたあの日以降、私たちはメッセージアプリのIDを交換し、会えない日も毎日のように連絡を取り合っていた。
意外なことに、アルトラはかなり文字を書くタイプで、私と話をしていない間も、新しく始めたらしい呟きサイトで、日々のあれこれを日記帳代わりに投稿していた。
——むしろ彼は、あのサイトの投稿内容を『一日一行日記』として学校に提出すべきだと思う。
赤色のTシャツの胸元をパタパタとさせながら、風船のように膨らむアルトラは、それでもまだ暑さを感じているらしい。
この部屋の気温を、既に少し肌寒く感じ始めていた薄着の私に、確認するように振り向き——懇願するように、上目遣いで私を眺めた。
「ねえ、リン、もう1度だけ温度下げてもいい……?」
「別にいいけど——電気代が高いって怒られても知らないよ?」
「うー、扇風機で我慢するかぁ……」
彼は残念そうな顔をしながら、また大きな赤い風船になった。
——友人になってから一ヶ月以上経って思うのだが、アルトラはネコ科の『虎』というより、どちらかというとイヌ科の何かのように見える。
柴犬のように警戒心が強く、チワワのように自由奔放で、レトリバーのように大人しい時もある。
——テレビとその横にある家庭用ゲーム機の電源を『ピッ』と付け、遊び始めようとしている辺り、どこか抜けているハスキーに近いのかもしれない。
「ちょっと、アルトラ、宿題終わんないよ!」
「えー、まだ日にちあるし平気だって……」
「知らないの? 毎年夏休みの終わりには宿題が終わらなくて地獄を見る人がたくさんいるんだよ」
「うあー……分かった、もう2ページだけ進めます……」
意外と聞き分けがいいというか、アルトラは理由を説明されれば、ちゃんと言うことを聞くワンちゃんのようだ。
ゆっくりとリビングの机に戻ってくる彼の頭を、わしゃわしゃと撫でてやろうかとも思ったが——流石に嫌がられそうなのでやめておいた。
ワンちゃんと言えば、アルトラには意外な芸があるらしく——なんと彼は、その巨体でピアノを弾くらしい。
幼稚園の頃からピアノを習っていて、他にも水泳教室にも通っていたり、柔道もやっているとのことだ。
しかし勿体無いことに、どの部活動にも入らず、私と同じで帰宅部なのだ。
これといった趣味もなく——ただ毎日、逃げるように生きてきた私とは違って、アルトラは元々『明るい側の人間』なのだと思わされることがある。
……噂さえなければ、きっと彼は明るい場所で、みんなと楽しく生きていたんだろう。
そんなことを考えながら、やたら撫でたくなる頭のてっぺんを見ていると、数学の問題で行き詰まって顔を上げた彼と目が合い——私は何故か、目をそらしてしまった。
そして、目線の先にあった、半ば物置と化しているピアノを見て、私は彼に「どうしたの」と聞かれる前に話しかけた。
「——本当に家にピアノあるんだね」
「ん、電子ピアノだけどね。何か弾こうか?」
「……今日は宿題進めるよ、ほら」
ワンちゃんはしょんぼりした顔で、再びドリルワークに手を付け、数学の問題を解き始めたのだった。
それから十数分が経った頃だろうか、アルトラは目標にしていた2ページ目を終え、自発的に3ページ目を解き始めながら、質問をした。
「そういえば、リンってゲーセンとかって行くの?」
「あまり頻繁には行かないかな、お小遣いがもったいないし」
「そっか……」
ただ質問に答えただけなのに、アルトラはまたしょんぼりした顔で問題を解き始める。
——それが少し可哀そうに見えたので、私は一つ彼に提案をした。
「じゃあ、もし今日中にあと4ページ、ワークを進められたら、今月中に一緒にゲームセンターに行こっか!」
「えっ、リン、いいの!?」
「いいよ、私も友達と行ってみたかったし」
餌を釣り下げられたアルトラは、気合を入れて問題の続きを解き始めた。
——やっぱりワンちゃんだ、この子。
ここ一ヶ月で彼について知ったことなのだが、彼の両親は彼が小学生一年生の頃に離婚しており、この家にはお父さんと二人で住んでいるらしい。
とはいっても、隣には母屋があり、そこには祖父母が住んでいる。
普段、ご飯はおばあちゃんが作ってくれているんだとか。
彼のことを知っていくほどに、みんなが噂する彼と、私の前にいる彼が同一人物であるという印象は少しずつ薄れていく。
——やはり噂はしょせん噂で、間違っているのはみんなの方なのだと実感している自分がいた。
「——だから、ここが間違ってるから、直さないと」
英語の問題を解いているアルトラが『私はペンを持っています』という日本語を『I take a pen』と翻訳しており、私は『Take』と『Have』の違いを説明しながら、彼に勉強を教えていた。
「持っていく、と持っている……何が違うのか全然分かんない!」
「この場合『Take』の方は『手に取った瞬間』のイメージで、『Have』の方は『所有している』ってイメージだよ」
「——じゃあ『私はペンを所有しています』って書いてよ!」
——ワンちゃんが吠えてる。
作問に文句を付けながらも、私に教えられつつ着々と問題を解いていった彼は、ついに目標の4ページを進めることが出来たのだった。
———————
夏休みの間に『週末』という概念は薄れていくものだが、それでもなんとなく、私たちは週末を選んでゲームセンターに来ていた。
そんなに大きなゲームセンターではないが、古のアーケードゲームから、最新の音ゲーまでもが、ちゃんと揃えられた場所だった。
タバコ臭いこの場所は、薄暗い電飾と肌寒いほどの冷房とは対照的に、それなりに多くの人で賑わっていた。
あてもなくゲームセンターの中をうろうろしていると、裏口側——いや、大通りに面しているこちらが表口なのだろうか——出入り口周辺の、自販機が並ぶ壁から少し離れた柱に設置されたサンドバッグを指差すアルトラは、目をキラキラさせながら私の方を見た。
「昔、お父さんがこのキッキングマシンで999kg出した事があってさ」
「……うん、やってもいいけど、ちょっと見るの怖い……かも」
——私は暴力を見ること自体が、あの日の記憶を蘇らせるようで恐ろしく、ゲームとはいえ、彼が物に向かって思いっきり蹴りを入れるのを、隣で見ていられるとは思えなかった。
私がそう伝えると、アルトラは慌てたように手のひらを突き出し、私を気遣って別の遊びを提案する。
「ご、ごめん。そうだ、じゃあ音ゲーとか見に行こうか」
彼はそのまま回れ右をし、入り口から右側に向かったところにある、リズムゲームコーナーへと向かう。
——少し、アルトラを驚かせてみようかな。
「音ゲーなら、私も少しできるよ」
「そうなんだ、僕はピアノくらいしか音楽なんてやらないからさ」
「むしろピアノの方が難しいと思うけど……」
「そりゃあ、簡単な曲しか弾かないから。楽譜読めないし」
そんなことを話しながら、彼とバーチャルシンガーの曲をピックアップした音ゲーの前を通りかかったところで、私は「これならちょっと出来るよ」と言いながら、ゲーム用のICカードを手に取った。
アルトラが私の後ろに立って「じゃあ、見てようかな」と言うので、筐体に100円玉を入れて、カードをかざすと、画面には『Magic☆Rin』というプレイヤーネームが表示された。
「……きれいにしてくれそうな名前」
「え? あ、あははは!」
彼の言葉の意味が分かって、私はゲーム開始前に爆笑する。確かに、水回りを掃除出来そうな名前だった。
選択時間が切れる前に、私は笑いながら慣れた手つきで難易度を最高設定にし、楽曲を選択した。
——プレイが終わると、アルトラは唖然とした顔で小さく拍手した。
「めっちゃ上手いじゃん……本当に偶にしか来てないのかって感じの手さばきだったけど」
「本当だよ? 2週間に1回しか来ないから」
「めっちゃ来てんじゃん!」
「えへへ、そうかな?」
少し照れて鼻の下を人差し指でこすりながら、私は得意げにアルトラの方を見る。
やはり、得意なことを褒められるのは、少し慣れないけれど嬉しかった。
「じゃあ、レーシングゲームのコーナー行こうよ、あれなら僕も多少できるから!」
対抗心を燃やしたアルトラは、既に歩き出しており、私は彼の背中を追って、より薄暗い、格闘ゲームやレーシングゲームの置いてあるコーナーへと立ち入った。
アルトラも意外と、男の子っぽい趣味を持っているんだ、などと考えながら。
——しかし、レーシングゲームに辿り着く前に、アルトラは足を止め、私が進むのを制止した。
何故かと思い彼の目線の先を見ると、そこには奴ら——私たちをいじめる不良たちがいた。
「おいおい、トラじゃねーか」
同学年の不良のトップで、私と同じ小学校出身の男。
登下校口でアルトラに胸倉を掴まれた彼と、いつもの取り巻き四人……それと今日は——私の写真を売り捌いていた高校生の二人が、アルトラの前に立っていた。
「何? お前らやっぱ付き合ってんだ」
「うわー、変態女となんか付き合うなんて」
アルトラはそんなことを言う奴らを相手にもせず、ただ背を向けて、私に「帰ろう」と言って出入り口の方に向かおうとした。
——そんなアルトラの背中を、高校生の一人が突き飛ばし、男は怯んだ私の両肩に手を置いた。
「俺が横取りしちゃおっかなー?」
気持ち悪い顔でそう言いながら、男が私にキスをしようとして、唇をゆっくりと近付けてきたところで―—アルトラは体勢を低くしながら、勢いよく私と、茶髪の高校生に近付く。
そして、そのままの勢いで、ドンッと——周りのゲーム機の音をかき消すような、鈍く低い音が響くのが聞こえた。
——アルトラは、高校生の横顔に、右手の拳を打ち込んだのだった。