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そんな会話が起きたのがずっと前で、今じゃもうそんな会話なんて無かったんじゃないかって思うくらいに、普通の日々だった。時々僕があの時のことを聞いた時もあったが、いつもはぐらかされたり、あの時と同じことを言われるだけだったので次第に僕も聞くのをやめた。
「氷室くん」
美幸さんがそう呼ぶだけで、どうしようもないくらいに嬉しくて、心が躍って、顔を赤くしてしまう。それを実感するたびにああ、僕はつくづくこの人に惚れてるんだなぁと思う。そして時々、話をうまいこと誤魔化す美幸さんを見て、付き合うもっと前に死んだ猫のことを思い出す。
猫の名前は特になかったし、決められなかったから、ネコとそのまま呼んでいた。ネコはとても目が綺麗で、サラサラとした毛並みだったけど、それ以上に誰かに触れられるのが嫌で、僕ですら時々許されるか程度だった。でも死ぬ前、死期が近づいたと察したネコは、その死ぬ日の前日まで僕に近づいては擦り寄ってきた。
無邪気な僕はそんなことにも気づかずに、ネコが自らすり寄ってきてくれたのが嬉しくて嬉しくて、夢中で撫で続けた。
そして翌日、ネコは消えた。僕は泣きながら外に飛び出して探し出した。まだいるんだろうと思い続けて、何も考えることなく無我夢中で走り、親が僕を見つけるまで僕もネコを探し続けた。結局ネコは見つからず、帰ってくることもなかった。
「氷室くん、氷室くん」
「え、あ、どうしたの?」
「どうしたのは私のセリフだよ、氷室くん、何回呼んでも反応しないからビックリしちゃった」
大丈夫?と手を差し出す彼女の手を見る。細くて白い、手入れが施されたいかにも女性と分かる手だった。
暑い汗ばむ夏、僕はもう離さないというように彼女の手に優しく己の手を重ねた。