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今日も特に何も変わることなく定時を過ぎ、私は挨拶をするために副社長のところへ向かった。
そこには、さっきとまったく変わらない姿勢でパソコンに向かう副社長がいて、さすがに大丈夫かと心配になる。
「失礼いたします。あと、何かありますか」 言葉を認識するのに少し時間がかかったのか、数秒後に副社長は顔を上げた。
「ああ、大丈夫。もう上がって」
そう言いながら、あの笑顔を私に向ける。しかし、その横には大量の資料が置かれていた。
終わるの? それ……。
そんなことが頭をよぎるが、私も遅くなるわけにはいかない。
「申し訳ありません。では、失礼します」
申し訳ない気持ちを隠すように、私は頭を下げ、副社長室を後にした。
まだ明るい空にホッとしつつ、私は家へと急いだ。
私の家は会社から電車で三十分ほどの場所にある。帰宅ラッシュの電車は満員で、なんとか体を滑り込ませ、窓側を死守する。
景色を見ながら、駅へ到着するのを待つ。毎日がそんな感じだ。 駅から歩いてすぐのマンションに戻ると、まずシャワーを浴び、ルームウェアに着替える。きつく結んでいた髪を解くと、緊張がほどけるようでホッとした。
私の髪はこの二年間ずっと伸ばしていて、緩くパーマがかかっている。それを解くと背中を隠すほどの長さだ。それを無理にネットに押し込んでいるため、かなりきつく縛っている。
メガネも、度は入っていない。こんな格好をして、都心から離れたマンションに住んでいるのは、もちろん理由がある。
私は小さく息を吐き、冷蔵庫からいくつか材料を出して簡単に夕食を作り、お気に入りのソファへ座り、ノートパソコンを開いた。
こうして一人でゆったりすると、ようやく自分に戻れたような気がした。
次の日、同じように出社すると、副社長室から漏れる光が見えた。
いつも通り早く出社したつもりだったが、もしかして副社長の方が早かったのだろうか。
そんなことを思いながら、ノックをするも返事はない。
ゆっくりとドアを開け、私は慌てて音が鳴らないように手でドアを押さえた。
そこには、デスクに突っ伏してぐっすりと眠る副社長の姿があった。
いつも完璧なスーツは無造作に応接用のソファに投げ置かれ、きちんと整えられているはずの前髪が顔を隠していた。
やっぱり終わらなかったんだ……。
昨日の帰りにそのことに気づきながら、見ないふりをして帰ってしまったことへの罪悪感が募る。
私が来てもまったく微動だにしない副社長は、よほど疲れているのだろう。
どれだけ軽薄に見えようが、仕事に妥協はない。
そんな副社長に気づかないふりをしていたことが申し訳なくなり、私は、いつもカバンに入れてある自分のストールをそっと副社長にかけると、部屋を出た。
そして今日のスケジュールを確認する。
これまでは副社長に言われるままにスケジュールを立てていた。
完全に技術畑の副社長より、私の方が得意とすることも、本当はあると思う。
そんなことを思いながら、私は受話器を取って電話をかけた。
時計を見ると、九時を少し回ったところだった。
朝礼に出られないことを伝えたあと、私はビルの下に入っているショップへ向かい、サンドイッチを前に動きを止めた。
二年近く仕事をしているが、副社長の好みも何も知らない。
興味がなかったとはいえ、自分でもそのことに驚いた。
そうは思うが、よく考えれば副社長がまともに食事をしているところを見たことがない気がする。
いつもコンビニのおにぎりを片手にパソコンの前にいるか、会議のお弁当か。
好きなものなど知らなくて当然な気がしてきた。
私は一番無難なミックスサンドを購入すると、急いで自分のデスクへ戻った。
さっきの電話で変更できる予定はずらしたが、十時からの社長との打ち合わせだけはどうしても無理だ。
そう思い、私はそっと副社長室へ足を踏み入れた。
先ほどとほとんど姿勢が変わっていない副社長に、小さく息を吐き、そっと肩を揺らす。
「副社長。起きてください」
「うーん」
まだ眠そうに目を開けた副社長に、私は淡々と声を掛けた。
「勝手に申し訳ありませんが、スケジュールを変更させていただきました。朝一の海外事業部とのミーティングは午後にしてあります」
「ああ、えっと? え? ありがとう?」
まだ寝ぼけているのか、それとも私がこんなにも話しているのが珍しいのか、副社長は驚いたようにストールと私を交互に見た。
「それと、これを召し上がってください。お好みは分かりませんでしたが」
そう言って、副社長の前にコーヒーとサンドイッチを置く。
今度は確かに、私の態度に驚いたのがわかった。
何も言わずに私を見る副社長に、なぜか居心地が悪くなり、私は踵を返す。
自分のデスクに戻るためにドアに手をかけたとき、ふと動きを止めた。
「朝の社長との打ち合わせは変更できなかったので、それが終わり次第ご自宅へ戻って着替えてください。その時間は取ってあります」
顔を見ずに副社長に告げると、背後から、いつもの作ったような声ではなく、やわらかい声で、
「水川さん、ありがとう」
そう聞こえた。
私だって、いくら苦手なタイプとはいえ、鬼じゃないんだから。
そんな言い訳をした自分に驚き、ため息をつくと、私は仕事を再開した。