Side 誠
「副社長、失礼します。今日はきちんとご自宅でお休みください」
俺は今日一日を、不思議な気持ちで終えようとしていた。
どちらかというと、自分から何かをするタイプでもないし、言葉を多く発する子でもないと思っていた。
それが、この二年間、俺が抱いていた秘書・水川さんの印象だ。
大人しく地味な服装を好み、いつも俺を真っすぐに見ることもない。
だからといって仕事ができないわけでもなく、言ったことは確実にスピーディにこなしてくれる。
それだけで俺は満足だった。
親父から「お前の女癖が心配だから」と言われ、この新人を秘書にしたと聞かされたときも、まったく問題ないと思った。
むしろ、俺に色目を使ってくる他の女子社員に比べたら、雲泥の差があると思ったほどだ。
しかし、今日は本当に驚いた。
いつもは勝手にスケジュールを調整することもないし、ましてや俺に食事を買ってくるなど、あり得ない。
徹夜をした俺に気を遣ってくれたのだと思うが、本当に意外だった。
少し怒っているのか、照れ隠しか、俺に何かをするのに慣れていない彼女らしく、言い方はぶっきらぼうだったが、
そのおかげで徹夜明けでもなんとか仕事をこなせたし、自宅でシャワーも着替えもできた。
そして、あろうことか、一日一食まともに食べればいいところを、昼食まできちんと取った。
新しい秘書の一面を見た気がした。
ぼんやりと、水川さんが出て行ったその扉を見ながら、そんなことを考えていると、目の前でスマホが音を立てた。
「もしもし」
『もう仕事終わるか?』
それは、昔からの友人である清水弘樹からの電話だった。
「もう終われるけど。どうした?」
『明日休みだし、久しぶりに飲みに行かないか?』
その問いかけに、俺はしばし言葉を止めた。なにせ徹夜明けだ。
『都合悪いのか?』
受話器の向こうで聞こえた声に、眠気もなかった俺は、少し考えた後、言葉を発した。
「早めに帰るかもしれないけど、いい?」
『ああ、もちろん』
その答えを聞くと、俺はパソコンをシャットダウンした。
日中は会社の車で移動することも多いが、通勤は自分の車でしている。
そのため、俺はビルの地下駐車場へ降り、止めてあった車に乗り込んだ。
今はまったく眠気もないし、むしろテンションが上がっているような気さえする。
会社から十分ほどの距離にある自宅のマンションへ帰ると、黒のパンツにシャツを着て、白の薄手のシャツを手にして家を出た。
飲みに行くときは、副社長という肩書きがわからないようにしている。
それを知って近づいてくる人間には、うんざりだ。
弘樹とのいつもの待ち合わせ場所である、歩いてすぐのBARの扉を開けた。
店内は、外装のイメージよりかなり広く、スポーツ観戦やダーツ、ビリヤードなども楽しめる空間だ。
週末の店内は人ごみに溢れていた。
そんな中、弘樹を探すのは困難で、俺は周りを見渡した。
「誠さん」
不意に顔なじみの店員に呼ばれ、俺はそちらを見た。
「弘樹、見てない?」
俺の言葉に、まだ二十歳を過ぎたばかりであろうその彼は、笑顔で指をさす。
「向こうのカウンターにいますよ」
「ありがとう。よく入ってるな」
俺は礼を言うと、奥へ向かった。
少し歩くと、弘樹の姿が見え、俺は歩調を速めた。
清水弘樹。俺の高校からの親友で、大手広告代理店に勤めている。
二十九歳にして役職付きの、できる人間だ。
漆黒の切れ長の瞳、黒の短髪、あまり笑うことのないこの男は、かなり冷たく見えるかもしれない。
そして、店と同化するようなモノトーンの服装が、さらにこいつの雰囲気をミステリアスにしている。
「悪い。待たせたな」
「いや」
ビールを持ったまま、ちらりと俺を見た弘樹の横に座ると、俺はバーテンダーにビールを注文した。
『二人になったよ』
周りから聞こえてきた女の子たちの声に、俺はくすりと笑みを漏らし、弘樹を見た。
「何人に声を掛けられたんだ?」
このクールで、あまり話もしなさそうな男に声を掛ける女の子も、なかなか勇気があると思うのだが、
それでも弘樹に声を掛ける子は後を絶たない。
「三人だけだよ」
にこりともせず、静かに答えた弘樹に、俺はさらに問いかけた。
「かわいい子、いなかったのか?」
俺はちらりと周りの女の子たちに視線を向ける。
「俺が、声を掛けてくる子に興味がないのは、お前だって知ってるだろ?」
そう、どんなにかわいい子でも、弘樹は俺と違い、絶対に誘いには乗らない。
俺は、いつのころからか「どうせ俺の中身など誰も見ていない」と思ってしまって以来、適当に軽い付き合いを繰り返している。
そんな自分もどうかと思うが、女なんてそんなものだと思う。
軽くグラスを合わせると、一気にビールを流し込んだ。
「どうしたんだよ、週末に早く帰るって」
弘樹は俺の目の前でタバコにゆっくりと火をつけると、紫煙をくゆらせた。
「徹夜明けなんだよ。気づいたら朝で」
苦笑しながら言った俺に、弘樹は納得するように頷く。
「お前、本当に集中すると周りが見えないよな。じゃあ、いつものように何も食べてないのか? 軽いもの頼もうか」
俺のことをよく知っている弘樹がメニューを手にするのを見て、小さく首を振った。
「それが今日は秘書が変でさ」
俺の意外な言葉に、弘樹もメニューを選ぶのをやめ、視線を合わせた。
「変? なんだよそれ。お前の秘書ってどんな子だっけ?」
長年一緒に飲むことも多いが、初めて話題に出たかもしれない秘書のことを、俺は弘樹に話す。
「ふーん。じゃあ、そのおかげでちゃんと飯を食ったんだな」
なぜか面白そうに言いながら、弘樹が店員にピザを注文する。
「まあな」
「でも勝手なイメージだけど、珍しいタイプだよな。大人しい秘書って。あっ、もしかして女避けか?」
確信を持った表情で言う弘樹に、俺は怪訝な表情を浮かべた。
「親父と言い、お前と言い、俺は秘書に手を出すほど節操なくないんだけどな」
その言葉に弘樹は苦笑した。
「お前、遊ぶ女の子はきちんと分けてるけど、向こうがその気になることもあるからな。でも、大人しい子ほどお前に惚れたりしてな」
「それはない」
弘樹の言葉に、俺は間髪入れず否定する。
この二年を思い出しても、水川さんが俺に好意を持っている可能性はゼロに近いだろう。
「へえ、言いきれるほどなんだ」
弘樹が言い終わるか終わらないかのタイミングで、ばさりという音が後ろから聞こえた。
「ごめんなさい」
それと同時に、少し焦ったような女の声が響いた。
またナンパか?
そんな思いで振り返ると、弘樹が椅子に掛けていたジャケットが下に落ちたことがわかる。
そして、それを落としたのであろう女の子がしゃがみこんでいた。
「ごめんなさい」
もう一度謝罪しながら弘樹にジャケットを渡すその子は、とても綺麗な子だった。
長身で細身。長いストレートの真っ黒な髪が印象的だ。
「いや」
愛想もなくそれを受け取った弘樹に、相変わらずだな、と思いながら俺はその子に視線を送った。
次の言葉は「一緒に飲みませんか?」そんなところだろう。そう思っていた俺だったが、そんな妄想はすぐに吹き飛んだ。
あっさりと俺たちに小さく会釈をすると、その子は歩き去ってしまった。
「ナンパだと思ったのにな」
「誠、今特定の彼女は?」
くすりと笑いながら言った俺に、弘樹は意外な言葉を口にした。
「なんだよ。どうした? 俺にそんな女いないこと知ってるだろ?」
弘樹の真面目な瞳に、俺はグラスをテーブルに置くと、まじまじと弘樹を見る。
「だよな。じゃあ、今の子に声を掛けに行かないか?」
「弘樹……。珍しいな」
今まで何度となく女の子から声を掛けられても、一度も誘いに乗ったことのない弘樹に、俺は驚いていた。
だからこそ、よっぽどのことだろう。
「付き合うよ」
眠気は多少あるものの、俺はグラスを手にして立ち上がった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!