寝室へ戻ると、出た時と変わらぬ姿で懸命に針を刺すキャスリンがいる。ハンクに気づき顔を上げ微笑む顔は幼さが残る。そろそろ十九になる、端から見れば親子だ。寝台に座るキャスリンの膝に頭を乗せ腰を抱き締める。腹に頬擦りをしてそのまま目蓋を閉じる。
あの毒をこれが受けていたら、俺の前から消えていたかもしれん。潔い娘だ、修道院に駆け込むくらいはしたろうな。俺は放さんがな。
アーロン、残念だ。悪い奴ではないが俺はお前を許さんぞ。商人は指輪を売ってはいない。ハインスにあったものだろう。そんなものを何故小娘が持つか…お前の甘さが全て悪い。
俺の頭を小さな手が優しく撫でる。突き出た腹から子が叩く。名前を決めねばならんな、お前は無事に生まれるんだ。早く俺に返せよ、ちゃんと乳母を与えてやる。
「名を考えたか」
「閣下が付けませんの?」
手は止まらず俺を撫でる。名などなんでもいいがな。
「俺が付けたほうがいいか」
「呼びにくくなければなんでもいいです」
思いつかんな、ソーマにでも付けさせるか。
「待ってろ」
「はい」
「こいつは元気だ。よく叩く」
空色が俺を見下ろして笑っている。
俺の母親は出産後に死んだ。俺には耐えられんことはもうわかった。これが先に逝くなら直ぐに追えばいい。
手を伸ばし滑らかな頬に触れる。
皺などない若い娘だ。だが俺のために生まれたんだろ。そう思うと合点がいくんだ、そうでなければ俺がこんなにおかしくなるわけがない。
「キャスリン」
「なあに」
「幸せだろ?」
「ええ」
だよな、俺もだ。奴ではこれを幸せになどできんだろうよ。
明日は外に出る。歩いて体力をつけねばと気にしているからな、長く歩こう。
寝台に寝かせ、火を吹き消し、後ろに寝転び掛け布を二人にかける。小さな頭を腕に乗せ抱き込んで温める。目の前の薄い茶に口を落とし目を瞑る。
朝の光を感じ目蓋を上げると腕の中の空色の瞳が俺を見つめていた。寝坊をしたか、外は随分明るい。抱き締めたいが腹が邪魔だな。
「よく寝てたわ」
気づかなかったが疲れていたのか。俺は若くはない、当たり前だな。
「起こせばいいだろ」
赤い唇が弧を描く。
「寝ている顔も素敵なのよ」
そんなこと言うのはお前だけだぞ。腹が空いたな。
ベルを鳴らし食事の用意をさせる。台車が運ばれるまでこうしていればいい。指で俺の眉間を触り撫でる。
「ライアンを呼ぶ。診てもらえ」
頷く薄い茶を指に巻き付け手触りを楽しむ。
「変わりないか」
ええ、と微笑む。口を開けると喜んで合わせにくる。腹が邪魔だが腕の中に囲い閉じ込める。
人払いをさせ、日傘を持ち花園の歩道を歩く。俺の踏み潰した跡は花が片付けられ見映えが落ちてしまった。
小さな手を繋ぎ、小石さえ取り払った歩道を歩く。
「お前の弟は何が欲しい」
これの弟は役に立った。望みがあれば叶えてやる。
「あの子は星が好きなの。珍しい星の書物は喜びます」
そんなものか、これが知らんだけではないのか。
「暗器のことをソーマに聞いたのね。私から贈るわ。閣下から贈られたら驚いてしまう」
「買ってやれ」
弟の望みはソーマに調べさせるか。何かあるだろ。これは何も聞いてこない。本当に毒が塗ってあったのか、何の毒だったのか、あの姉妹はどうなるのか。俺が許さないとわかっているだろうに、あの姉妹がどうなろうと気にしないか。
「休みは終いだ」
仕事が溜まっている。そろそろソーマが怒り出すだろう。
「側にいてもいい?静かにしているわ」
「ああ」
そのつもりだ、ライアンの診察も俺の部屋で診てもらえばいい。
四阿で休憩を挟み、半時をかけて花園を歩いた。
「疲れてないか」
「ええ、このくらいは歩かなくては。出産には体力を使うとアンナリアが教えてくれたの」
そうか、ならば歩かねばな。抱き上げては駄目だな。
大きな手が私の手を包む。過剰なほど私を気にかけているわ。私に何をしてもいいと言ったのに、後悔しているのかしら。ハンクの激情を受けるのは嬉しかった。もう嫉妬させるようなことはしないけど、抑えてほしくなどないのに。ハンクは私を連れて逝くと言ってくれたわ、私がついていっても許してくれるのよ。解放なんて望んでないの、側にいるわ。
邸に戻る道にソーマが佇む。
「ライアン様がいらっしゃいました」
「そうか、俺の執務室に通せ。ソーマ、子の名前を考えろ」
思わずハンクを見上げてしまった。それではソーマがかわいそうよ、困っているわ。すぐソーマに頼るのだから。あら…ソーマは笑顔ね、喜んでいるのかしら。
「候補を挙げましょう」
困ってはいないわね。
「呼びにくいのは駄目よ」
かしこまりました、と微笑んでくれる。この子は大事にされるわね。
ハンクの執務室に戻り三人掛けのソファに座りライアン様を待つ。隣にはハンクが座り腹を撫でている。
「ソーマに押し付けましたのね」
「ああ、悩むだろうな」
いつまでソーマを困らせるのかしらね。
扉が叩かれライアン様がソーマに連れられ部屋へ入り対面のソファへ座った。
「キャスリン様、こんにちは。変わりはないですか?」
「ええ、お腹が空いて沢山食べてしまいますが、何も変わりませんわ」
「では、子の音を聞かせてくださいね」
ライアン様は鞄から聴診器を出し服の上から腹の音を聞いている。
「異常はないですよ」
ライアン様は聴診器を鞄に仕舞う。
「これから腹は膨れますから、足元には気をつけてくださいね。痛みや張りがなければ散歩は続けてください」
転んだら一大事ね。気をつけるわ。
「俺はライアンに用がある。メイドを呼ぶから寝室へ行っていろ。疲れたろ、少し眠れ」
今日は朝もだいぶ過ぎた時に起きたのに、心配し過ぎよ。でも横になるといつの間にか眠っているのよね。
ソーマが廊下で侍っていたジュノを呼び二人でハンクの寝室へ移る。寝台に座り果実水をもらう。刺繍枠を手に針を刺すが目蓋が重くなる。
「お嬢様、少し眠られては?」
「寝てばかりよ」
目を瞑るだけのつもりで横になったがそれからは意識が落ちていた。
キャスリン様を離さないんだなぁ。執着が加速してるじゃないか。茶会のせいだな。カイラン様の役割まで奪ってしまったか。
「話せ」
「随時報告してましたから大体は把握してると思いますが、ハインスの内通者とは連絡取れないままです。ハインスの騎士は未だに商人を探していますよ、僕が囲ってますけどね。商人が自国に戻るのに手間取ってくれたおかげで僕の網に掛かったんで間一髪。商人から買い付けた危ないものは薬だけでしたよ。エドガー様は倶楽部から急いで邸に戻って大人しくしているようですね」
ライアンは紅茶を飲み、喉を潤す。
疲れたんだよ、配下の者を全員使ったから金もかかったし、報告待ちをしてて仮眠しか取ってなかったんだ。ご褒美が欲しいよ。
「商人は僕が借りてる家に囲ってます。見張りは厳重ですから安心を。これが死産薬です。持ってるだけで禁固刑の劇薬、エドガー様は指輪に仕込んで瓶の方は商人に返してここに。持っていたくなかったんでしょうね」
机の上に鞄から出した小瓶を置く。
「少量で効く優秀な劇薬です。一つ重要なのは解毒薬がないところです。だから禁固刑なんですよね」
僕はそんな恐ろしいもの持ち帰らないぞ。チェスターと繋がって利益は得たが面倒が増えたな。
「他国には他にどんな毒がある?」
物騒なことを聞くなぁ。
「なんでもありますよ、強力な媚薬から興奮薬、幻覚薬、勃起薬に不能薬」
「それは手に入るか?」
どれだろう?まさか全て…
「不能薬」
「金さえあれば手に入ります、ただ不能薬は飲み続けなくては効果がないのが難点、なのでこの薬はそれほど劇薬ではないんですよ」
服用を止めれば滾り出してしまう。微妙な薬なんだよな。
「手に入れろ」
何に使うんだろ。死産薬よりは危険度が低いから簡単に手に入るけどさ。
「よくやった」
ハンクはソーマから受け取った包みをライアンへ渡す。かかった費用に成功報酬が多めに入っている。
「商人は報せが来るまで囲っておけ」
ハンクは手を振りライアンを帰らせる。
見送りについてきたソーマはライアンに菓子の包みを渡した。
「閣下はもうキャスリン様を離さないんですね」
ソーマは頷く。全てが終わり、主が満足するまでは離さないだろう。初めて恐怖を覚えたかもしれないのだから仕方がない。
「お疲れさまでした、まだ少し働いてください」
明日のアーロン・ハインスとの会談に商人の存在は大きい。
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