テラーノベル
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広間から戻った後だった。
ノスフェラトゥは苛立っていた。
胸の奥がざわつく。
アズール達に笑われたこと。
スペクターに皆の前で触れられたこと。
そして何より――。
自分が、それを拒み切れなかったこと。
暗い廊下を歩く。
ブーツの踵が硬く響く。
その後ろから、ゆっくり足音が近づいた。
「まだ怒ってる?」
スペクター。
聞いた瞬間、ノスフェラトゥの耳がぴくりと反応する。
それが余計に腹立たしい。
「……近づくな」
「無理かな」
赤いシルクハットの影。
スペクターはまるで当然みたいに距離を詰める。
ノスフェラトゥは振り返った。
赤い眼が鋭く細まる。
「お前、わざとだろ」
「何が?」
「……ッ」
笑っている。
全部わかっていて。
嫉妬も、
動揺も、
独占欲も。
全部見透かした顔。
その瞬間。
ノスフェラトゥは衝動的にスペクターの胸ぐらを掴み、そのまま牙を剥いた。
「……!」
噛みつこうとする。
喉へ。
首へ。
吸血鬼としての本能のままに。
だが。
スペクターは避けなかった。
むしろ、自分から指を滑り込ませた。
「――ッ」
熱い。
長い指が、牙の内側へ入り込む。
指先が、上顎を軽く押し上げるように動く。
逃げようとしても、舌が反射的にそれを避けきれない位置へ導かれる。
そのまま、内側から頬を、ゆっくりなぞられる。
ぞわっ、と背筋が震える。
ノスフェラトゥの喉から、押し殺した息が漏れた。
「ん……ッ」
力が抜ける。
噛めない。
牙を立てたいのに、顎に力が入らない。
スペクターは楽しそうに目を細めた。
「ほら」
「噛みたいんじゃなかった?」
指先がさらに奥をなぞる。
舌の付け根。
敏感な場所。
吸血鬼の本能に近い部分を、わざと刺激するように。
ノスフェラトゥの肩がびくりと跳ねた。
「ぁ……っ」
声が震える。
悔しい。
こんな反応、したくない。
なのに身体が正直すぎた。
耳は完全に伏せきり、
指を飲み込む喉がひくりと動く。
スペクターはその様子をじっと見ていた。
観察するみたいに。
愛でるみたいに。
「かわいいね」
「……ッ、ぅ」
ノスフェラトゥは睨もうとする。
だが視線が定まらない。
指が舌をゆっくり撫でるたび、背骨が甘く痺れる。
吸血衝動に似ていた。
獲物へ牙を立てる直前の、
あの熱。
スペクターは低く笑う。
「噛みつくつもりだったのに」
「もうそんな顔してる」
指先で牙を軽く叩かれる。
カチ、と硬い音。
ノスフェラトゥの呼吸が乱れる。
「……っ、ふ……」
「だめだね」
スペクターは囁いた。
「君、私には逆らえない」
その言葉が、呪いみたいに身体へ沈む。
ノスフェラトゥは唇を噛もうとした。
だがその前に、指先で口角を撫でられる。
「そんな顔しないで」
「ちゃんと可愛がってあげるから」
ぞく、とまた震えた。
完全に力が抜ける。
噛みつこうとしていたはずなのに。
気づけば、スペクターの指へ縋るみたいに浅く息をしていた。
そして。
その赤い眼だけが、
悔しそうに潤んでいた。
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