テラーノベル
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東京、渋谷。地下シアター428。
ライブ終演後の空気は、まだ少し熱を帯びていた。
客席では撤収作業が始まり、ステージではイナリズシの二人──寿司子とリコが、黙々と掃除道具を動かしている。
「いやぁ……疲れましたね」
片づけられたステージを見ながら、寿司子は溜め息をつくように言う。
「ほんまやな。汗でメイク半分はがれかけとるわ」
リコは笑ってモップを担ぐ。
会場のあちこちで、同じような疲れた声が飛び交う。
若手は、片づけまでが仕事だ。
ようやく片づけが終わりかけた頃、
「イナリズシさん、調整室によろしいですか?」
スタッフに声をかけられる。
寿司子とリコは顔を見合わせた。
「そういえば居残りって言われてましたね」
「なんやろ?ギャラの上乗せとかやったらええな」
「楽観的です!」
そのとき──
「おはようございまーす!」
鈴のような声とともにスーツ姿の女性が現れる。
「へ?猫田さん、どないしたん?」
宇津久芸能の若手担当マネージャー、猫田美咲。もちろんイナリズシの専属ではなく、まだ仕事の少ない若手芸人をまとめて一人で面倒見ている。
「お疲れさま! 今日のネタ、配信で見てたよ。良かった!」
二人にそう言いながら、明るい声の奥に、わずかな緊張がある。
聞けば猫田も主催に呼ばれているらしい。
スタッフに案内され、三人は会場奥の調整室へ向かった。
そこには、スーツ姿の大柄な中年男性が待っていた。大きくて分厚い眼鏡の奥の笑顔は、どこか『テレビ業界の空気』をまとっている。
「どうも、当イベント主催の藤原です」
差し出された名刺には有名制作会社のプロデューサーの肩書。思わぬ大物からの挨拶に寿司子の心臓がひときわ強く打った。
リコは座る前に「よろしくお願いしますっ」と頭を下げる。
寿司子も慌てて続いたが、口が乾いて声がうまく出ない。
しばらく藤原は猫田と挨拶のように業界トークを弾ませていた。
その間、寿司子は俯き加減で二人の顔を交互にチラチラ見るだけ。リコは必死に会話を追いかけながら作り笑顔で「へぇ〜、すごーい」と間に合わせの相槌を打つ。
ひとしきり会話が続いた後、藤原が二人を見る。
「いやぁ、あなた達の漫才、面白かったですよ」
「えっ、見てくださりましたん…ですか!?」
リコが強引に共通語に直す。
「テンポもいいし、二人のバランスもいい。特に──」
藤原の視線が寿司子に止まる。
「君、『春の✩湯煎式』のリソちゃんに似てるって言われない?」
『春の✩湯煎式』──今、大人気のアイドルグループ。リソとはそのグループで人気No.1のセンターだ。
寿司子の表情が、わずかに固まる。
「……は、はい?」
リコが横から慌ててフォローする。
「そ、そう言われたこと……あるような、ないような、ははっ」
猫田も苦笑しつつ、心配そうに二人を見る。
藤原は身を乗り出して続けた。
「今うちのTV番組で、『春の✩湯煎式のモノマネ&ショートコント』って企画を考えてて、その中でセンター役を探してたんです。君、ぴったりだ」
「モノマネ……ですか?」
「うん、歌は口パクでいい。軽いダンスと掛け合い。台本はこちらで用意するから、君の『顔』と『サイズ感』があれば十分です。芸は、いりません」
リコが信じられないと言った表情の後、ぱっと笑顔になる。
「それってテレビってことですよね!?すごいやん、寿司子!」
その横で、寿司子の喉がひくりと鳴った。
そして──
「……無理です」
静寂。
空気が止まった。
リコの手が慌てて寿司子の口を塞ぐ。
「す、すんまへん! 相方、ちょっとびっくりしてもうて!」
「申し訳ございません!本人も想定外の件で動転してて……!」
猫田も即座に身を乗り出して頭を下げる。
藤原は眼鏡の奥で目を丸くし、やがて小さく笑った。
「ははっ、正直でいいねぇ。でも、悪い話じゃない。考えてみてください」
寿司子は、塞がれた口の奥で言葉を飲み込んだ。
リコの手のひらが、少し震えているのが唇に伝わる。
時計の秒針の音が、やけに大きい。
藤原は立ち上がりながら、穏やかに言った。
「詳しい話は後で連絡します。ぜひ、前向きに検討してみてください」
「あ、藤原さん!その件、詳しく聞かせていただけますか?」
猫田が慌てて後を追う。そして部屋から出る直前、猫田はリコに目で訴えた。──『後は頼んだ』と。
───
知り合った芸人さん達から誘われた打ち上げも断り、二人は無言で狭い階段を昇る。
すっかり日が暮れた渋谷。それでも眩しすぎるくらい街は明るいのに、二人の胸の奥は暗い。
「……なんで『無理です』なんて言うんよ」
リコが小さく言う。
「……ごめんなさい。でも……」
言葉が続かない。
駅に向かって、しばらく歩いてから、リコが前を向いたまま言った。
「ウチは、ええ話やと思うで」
「……」
「地上波やで? ウチらの事見てくれる人、絶対増える」
寿司子は足を止めた。
「私は、笑われるのはいい。でも……」
顔を上げる。
「似てるってだけで、笑われるのはイヤなの」
リコが振り向く。
「ウケればええやん、ウチら芸人やで!これはチャンスや!」
「リコさんは、そうやって何でもチャンスって言うけど……」
寿司子は口を噤んだ。
代わりに、夜風が二人の間を抜けた。
「私は『アイドルに似てる人』、で終わるのが怖いの」
声は震えていない。
「……口パクやコスプレで『誰かの偽物』になるんじゃなくて、ネタで笑ってほしい」
その言葉に、リコの眉が動く。
「ほな、ウチはなんなん?」
声が少し低くなる。
「ウチは売れようとしてるだけのニセモンか?」
「ちが…」
「ウチな、怖いねん」
リコの口から初めて出た本音だった。
「いつまで地下でやればええんやろって。今日みたいなチャンス、次いつ来るんやろって。ウチ、アンタの才能、埋もれさせたくないねん」
寿司子は何も言い返せない。
「なぁ……アンタの夢、それでええんか?」
歩道で立ち止まる二人の脇を、大勢の人が通り過ぎる。
「……私は、今日のライブで、最初にウケなかった事が気になるの。あの静寂が辛くて……」
「最初は空気も温まってないから、しゃあないやろ?それに即興で持ち直したやんか」
「偶然じゃなくて、計算でウケないと、次のステージに行く資格ないと思う」
「めんどくさ……じゃあ、勝手にせぇ!」
リコの声が少しだけ荒れる。
寿司子はビクッと身をすくめる。そして言葉を探したが見つからない。
「もぉ、ええわ……明日、猫田さんと話す」
「リコさん……」
「ウチはやるで。このチャンス、逃したら一生後悔する気がする」
寿司子は何も言えなかった。
リコは笑顔を作ったが、その目はどこか寂しげで遠かった。
「ほな、今日はここまでやな」
リコは手を軽く振り、スクランブル交差点の向こう側へ歩いていく。
来る時は迷いに迷った街だが、帰り道はあっさりと駅前にたどり着いた。
人波に紛れ、背中が小さくなる。
青信号が点滅し、赤に変わる。
寿司子は立ち尽くしたまま、その背中を見失った。
胸の奥で、何かが静かに沈む。
気づかぬうちに、頬に熱い雫が伝う。
夜の渋谷は騒がしい。
その音のすべてが、寿司子を通り過ぎていく。
──初舞台、成功の夜なのに。
──続く
コメント
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♡50達成ありがとうございます✨