雄大なる大河ビトラは大河モーニアとはまた趣の違った川だ。水底が深く、それゆえに古の時代には多くの怪物が寝床とし、時に罪なき舟人を引きずり込んで、夜伽の相手にしたという。
怪物の多くがその姿を消した今の時代となり、人間の知恵が深くなると、利用される船の形式も変遷した。外洋船はビトラの中流まで遡ることができ、テネロード王国のマナタ領を含め、大河ビトラ沿岸の国々の中でも下流域にある土地はそれまで以上に大いに栄えた。
とはいえユカリの見る景色はここ数日さして変化することはなく、どこまでも続く大河の水平線を見るか、代わり映えのしない灰色の稜線をなぞるしかなかった。それでも港に着けば少なからず初めて見るものにありつくことができ、そうでなくても水鳥と波以外の動くものを河の上に見つけることが出来た。
己の役割を深く熟知している気高い船が真白の主帆に沢山の風を孕み、煌めく川面に白波立てて優雅な水鳥を近衛兵のように伴い、川上へと行進している。船をおだてて急かそうと甲板で忙しそうに立ち働く水夫たちは、センデラの民とはまた違った舟歌を陽気に口ずさんでいる。
ユカリとベルニージュは大河ビトラを遡上する川舟にしては巨大な運航船、気高き眼差し王子号に乗っていた。
まるでずんぐりむっくりした魚が横倒しになったような姿の船だ。三層の甲板に多くの客が犇めき合い、宿屋と広場と酒場が重なって川を遡っているようなものだ。とはいえ個室などはなく、客室は番号を振り分けられて区分けされているだけの大部屋しかなかった。
それでも船賃はとんでもなく高く、ユカリはそれで賄えたかもしれない食を計算して空しくなる。どちらにしても魔導書のお陰でほとんど腹に入ることはない事に気づき、もう一度空しくなる。それでも魔女の牢獄で得た路銀が尽きるのはまだはるか先のことだろう。
テネロード王国の領する風車の多い栄えた街に寄港し、乗り客と降り客で混雑する大部屋の角でユカリとベルニージュはアルダニ地方の地図を広げていた。蓋を開けたままにした窓から差し込む秋の憂鬱な灰色がかった陽光が、毛羽立った羊皮紙に記された古くから伝わる由緒ある地名を照らしていた。そして二人は、ベルニージュの使い込まれた葦筆で、今までに蛾の怪物の目撃情報があった場所に印を書きこんでいく。
一通り書き終えて葦筆を置くと、ベルニージュは確信を得たように言う。
「やっぱりサクリフは北西方向へと向かっているよね。真っすぐ、ではないけど」
「そうですね。もしくは大河ビトラに沿っているのかもしれません。少し寄り道をしているように見えますが、進路を修正しているのかな」ユカリは地図の上でサクリフの行く先を眺める。「林檎港。煉瓦街。硝子街。古き夜の聖域。そしてテネロード王国の王領ミデミアの港町偉大なる河港。この先も沢山の土地、沢山の人の営みがあるんですね」
あるいはサクリフは更に北西、地図の外にあるどこかを目指しているのかもしれない。戦に耽るアルダニの大河ビトラの源を越え、信仰に倦むシグニカの峰々を眼下に、あるいは沈黙に沈む険しき山々に寄り、はたまたグリシアン大陸北方に広がるという人跡未踏の神秘の領域を目指しているのかもしれない。樹々も川も野原も常に凍り付いているという北方では古き歴史も氷漬けになって、人の野原から姿を隠した神々や怪物たちが今なお古の習いに従って神秘と不思議を友に、人類史の始まらない混沌とした世界に揺蕩っているという。
怪物となったサクリフはいうなれば帰還しようとしているのかもしれない。人の世界で生きることが出来なくなったがために、その力や驚異が何者をも脅かすことのないように、力ある者たちの中に戻ろうとしているのかもしれない。であれば、いくら呼び掛けたところで彼女が戻ってくることはない。ベルニージュに呼びかけられたユカリのように。
ベルニージュの問いかけに「私もそう思います」とユカリはぼんやりしながらきっぱりと言う。
ベルニージュは何もかも見透かしたような瞳で、遠くへ放たれたユカリの想像を全て鑑賞したかのような微笑みを浮かべる。
「じゃあ、ユカリの今日の寝床は天井ということで。丁度試してみたい魔法があったんだ」
「嘘です。ごめんなさい」ユカリは真面目くさった顔でベルニージュの赤い瞳を見つめる。「聞いてませんでした。というかそんなお話してないですよね」
「うん。でも天井で寝る方法を考えているのは本当。蝙蝠の聞こえない鳴き声を使った呪文を使うんだけど、ようやく日の目を見るよ。蝙蝠なのに」
「まあ、でも、一度くらいは、天井に寝てみたい気もします」
天井を見上げたユカリがそう言うとベルニージュは呆れたような顔をする。
「それはまた今度ね。それはそうとサクリフの目的が分からないことには目的地も知りようがないね、って言ったんだよ」ベルニージュは埃を払っただけの床に広げた地図を指さす。「見ての通り、ビトラの川沿いには沢山の街があるし、名高い神殿、名高い史跡、それに古代の魔女シーベラが猛威を振るったとされる魔女の爪痕、と見なされている土地もいくつかある。魔女の爪痕自体はアルダニのあちこちにあるから何の参考にもならないけど」
ユカリは小さく唸りながら腕を組んで壁にもたれ、大河の景色に目をやる。窓の外に雄大に広がるビトラ河は秋の明かりで染め込まれ、寂寞たる水面を揺らめかせている様は神々に踏まれることを待つ神秘で織られた絨毯のようだ。
怪物サクリフは目立っていた。その狼藉と、いずれ現れる英雄の活躍は歌人に語り弾かれ、後の世の街角で子供たちを恐れ慄かせることとなるだろう。
ユカリとベルニージュが立ち寄った場所では、それが寂れた村であれ、賑わった町であれ、鎖された都市であれ、蛾のような姿の怪物の目撃情報が必ずあった。時に、その恐ろしい翅の目玉模様と目が合った時の不幸が語られ、時に、その美しい女の艶やかな眼差しと目が合った時の不幸が語られた。
蛾の怪物は多くの災厄を町々にもたらしていた。
ある城郭都市に飛来した怪物は、まず城壁の塔の一つを崩壊させたという。勇敢に立ち向かおうとしたものの怪物に捕まったと主張する兵士が語るところによると、兵士を抱えた怪物は塔にぶつかってもものともせず、そのまま塔を破壊して地上に降り立った。その時に兵士を取り逃してしまった怪物は、今度は崩壊する塔から逃げ惑う人々に襲い掛かったという。人々に飛び掛かると、その怪物の膂力により周囲の家々の壁が崩れ、柱が倒される。そしてそこから逃げ惑う人々にまた怪物は襲い掛かる。そうして街は半壊し、兵士たちの反撃をものともせずに飛び去ったのだそうだ。
多少の相違はあれど、蛾の怪物は常に争いのある場所へとやってきて、争いが鎮まると去っていった。そうして多くの人間を殺しながらも、怪物に捕まったと主張する人物が必ず生き残っていた。時に獅子をも恐れぬ勇気で脱出し、時に類まれな信仰心が幸運を齎した。そのように彼らは主張していた。
「サクリフさんの目的ですか」ユカリは秋のビトラから離れて、ベルニージュの問いに戻って来る。「あの状態のサクリフさんにどれくらい意識が残っているんでしょう」
「無いと考えた方がいい」ベルニージュはてきぱきと葦筆の後片付けをする。「サクリフのままだったならどこかへ行く理由なんてないはずだよ。魔女の牢獄に囚われている町を救い、英雄になるのが彼女の目的だったんだから。あるいは怪物になってしまったがために、ひたすら逃げているのかもしれないけど」
「逃げるって何からですか?」
魔導書を宿した魔女手製の怪物。あれほど強大な存在が何から逃げるというのだろう。
「怪物になってしまった自分から」
さりげなく言ったベルニージュの言葉にユカリは胸を抉られるような気持になってため息をつく。
「じゃあ、怪物が意識の主導権を持っているとしたら、それは想像しようがないですね」地図を折り畳むベルニージュの赤い旋毛にユカリは言った。
「まあね。そうなんだけどさ。古代の魔女シーベラがああいう怪物を作って何をしたかったのか、分から……まだ分からない。シーベラについて調べることを優先した方が良いかもしれないね」
「魔女シーベラの企みですか」ユカリは対岸の見えないビトラの川面に昼間の淡い月が映るのを見つける。川風に立つさざなみに揺らめき、今にも消え入りそうな仄かな輝きを見せている。「隕石を落として、怪物を作って、それに何かの目的があるのか。あったとしても一つの目的とは限らないですよね。それこそベルニージュさんみたいに様々な魔法の実験に過ぎないのかも」
「ワタシはそんなことしないよ」
言葉に含まれた苛立ちに気づいてユカリは慌ててベルニージュの方を見るが、その顔は背嚢の中に向けられていて分からなかった。
「そういう意味で言ったわけじゃないです。私はただ他の魔女の爪痕がサクリフさんを怪物に変えた魔法と関係するかどうか分からないなって思って」
「分かってるよ」
背嚢の中のどこに地図を置こうか迷いながら、ユカリに背を向けたままベルニージュは答えた。
その時、多くの足音と共に黒衣の僧が大部屋に乗り込んできた。焚書官かと思ってユカリは身構えるが、どうやら違うようだった。
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