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黒衣ではあるが、簡潔で飾り気のない焚書官に比べるとどうにも艶やかな様相だ。その外衣はゆったりとして余裕があり、裾には豊かな襞飾り、背には金銀紅の彩り豊かな刺繍で炎の図柄が描かれている。そして白塗り鞘の剣を佩いてはいるが、仮面などはつけず素顔を晒している。それがゆえにユカリはその顔の特徴にも気づいた。男女ともに中性的な顔立ちの人々だ。服装が統一されていることもあって一見では性別を判別しがたい。
それが二十人から三十人乗り込んできたのだった。大部屋の一つの区画は成人二人を想定しており、未成年であれば四人までを対象としている。そのため彼らは十五区画ほどを占有し、さらには彼らが持ち込んだらしき折り畳み式の衝立でそれらの区画を完全に囲ってしまった。衝立には聖人らしき男が天より降臨した美しい乙女に出会う宗教画が描かれている。
「これも新興宗教でしょうか」とユカリは衝立の向こうに聞こえないように囁く。
アルダニでは新興宗教が流行っている。世間では政情不安のためとされているが、魔導書の憑依した力ある人間の存在も理由の一つかもしれない、とユカリは考えていた。
「いや、あれも救済機構の僧侶だよ」ベルニージュは背嚢を壁に寄せる。「焚書機関とは別の下部組織だね。聖女会だったかな。魔導書専門の焚書機関に比べると中枢に近い組織だったはず。確か護女とかいう聖女候補みたいなのがいて諸国漫遊しているとか」
「誤解です」衝立の上から少女の顔がにゅっと出てきた。
幼い顔立ちながらとんでもない背丈だ。栗色の瞳には思慮と喜びの色が見え、ひっ詰めた髪を炎に似た赤い布飾りの被り物で覆っている。
衝立から首だけ出した少女はユカリたちの方に朗らかな微笑みを向けている。怒っているわけではなさそうだ。
ユカリとベルニージュは少女の幼気な笑顔を見上げ、しかし驚きのために二人は言うべき言葉が見つからなかった。
幸せをお裾分けするような微笑みを浮かべた少女はユカリとベルニージュを衝立の上から見下ろしたままさらに続ける。「決して遊び歩いている訳ではないのです。信じてください」
「大きすぎる」とユカリは呟いた。それ以外言えなかった。
「それも誤解です」
あの派手な衣服の僧侶たちによって少女の前の衝立がどけられる。
肩車だった。僧侶の一人が肩にその少女を乗せているだけで、少女の背丈は常人のものだった。少女だけ他の僧侶とは違う衣装だ。外衣の布地は黒だが炎の刺繍は背中だけではなく全身を覆っている。また内衣は各箇所で寸分の違いもなく体にぴったりとしていて、少女のために仕立てられた服だということが一目でわかる。
「見ての通り、拙僧は肩車をしているだけであって、本当はそれほど大きすぎないのです」
肩車をしている僧侶が手を膝に支え、腰を曲げる。少女は地面に足を伸ばすが届かない。
「見ての通り、床に降りるのも苦労します」少女は自慢げに言う。
するとさらに三人の僧侶がやって来て少女の前で膝を曲げ腰を曲げ、階段状に背中を並べた。少女は何の躊躇いもなく軽業師のように背の階段を降りてくる。小柄な少女とはいえ、背の階段は少しも揺れることがなく、芯でも入っていて固定されているかのようだ。そして最後は四つん這いの僧侶が待ち構えていて、少女のための踏み台になった。少女は祈りを捧げるようにきちんと手を合わせてちょこんと立つ、踏み台の上で。
拍手をしてもいいのか、ユカリは迷ったがやめておくことにした。おそらく大道芸として披露したわけではないだろう。
「貴方がたが名を名乗る前に拙僧が名乗ることといたしましょう。拙僧は聖女会が第二千八百十六護女、名を第五圏の霊的果実と申します。どうかお見知りおきを」
「ええ、えっと」言いたいことは沢山あったが、とりあえずユカリは居住まいを正す。「私はミーチオンはオンギ村のユ、エイカ、だよ。よろしくね」
一方ベルニージュは、当然その心の内に渦巻いているだろう不可解を表す想念を表に出すことなく自己紹介する。
「ワタシはベルニージュ。よろしくね、ノンネットちゃん」
「ユエイカさんにベルニージュさん。どうぞ宜しくお願いします」と踏み台の上で優雅に頭を下げるノンネット。
「ユエイカじゃなくて、エイカだよ。それと、その」ユカリは踏み台の僧侶を見る。重くはないのだろう。少しの苦痛も感じていないようではある。しかしユカリには無視することができない。「そろそろ降りてあげた方がいいんじゃない?」
「まあ、お優しいのですね。そして失礼いたしました。エイカさん、ですね。もちろんです。拙僧は貴女の、第五聖女石畳の裏の信仰様の如きご慈悲を無下には致しません」
ようやく踏み台を降りたノンネットは断りもなくユカリたちの区画へと入って来ると、僧侶の用意した素朴な折り畳み椅子に座る。先程までの傍若無人ぶりとはうってかわって、まるで拘束されているかのように小さくまとまって座っている。背をぴんと伸ばして、膝の上に小さな手のひらをそれぞれ置いて、つま先までぴたりとくっつけて、まるでこの座り方は今までに何度でも練習してきたのだ、と言わんばかりだ。
そうしてノンネットは熟練にして不自然なところのない微笑みを浮かべて問いかける。「よければ、拙僧と少しお話しませんか?」
ユカリとベルニージュは目を合わせ、面倒なことになった、というお互いの気持ちを確認しつつ、了承する。何にせよ、救済機構と関わり合いなど持たない方が良いのだろうが、すでに区画にまで入ってきて折り畳み椅子に座っている少女を追い出す気にはなれなかった。
少し構えるような、相手の出方を伺うような気持ちで、ユカリもまた背筋を伸ばし、真っすぐにノンネットの瞳を見つめる。
「ありがとうございます」そう言ってノンネットは知り合ったばかりの二人の少女に、旧来の友人に向けるような微笑みを見せる。「誤解が生まれたからには誤解を解きとう存じます。まず、一つ目の誤解ですが、拙僧ども護女は諸国を旅する中で教えを広めると共に、各々のやり方で世に貢献することで、己の修行としているのです。決して漫遊ではないのです。信じてください」
口ぶりにおいてははっきりと明確に毅然と言いながらも、にこやかで和やかなノンネットは、ベルニージュの方に何かを期待する視線を向ける。
「ああ、うん。信じるよ」ベルニージュはちらと後ろに控える僧侶たちの訝しみを見て、答えた。「それにしても護女がこれほど幼いとは思わなかったよ」
それに対してノンネットはやはり優雅な微笑みで返す。
「そうですか。護女に年齢制限はありませんが、身長体重その他に推奨規定があるので、多少幼い者が多くなります。ですので、二つ目の誤解ですが、拙僧は決して大きすぎないのです」
なるほど、ちょっとだけ大きいのかな、とユカリは思ったが口には出さないことにした。
「そして三つ目の誤解ですが」とノンネットは宣言する。
「三つ目なんてあった?」と間を置かずユカリは呟く。
「ええ、ありました。肩車や踏み台になることは確かに辛く苦しいことかもしれません。全てを投げ出して故郷に逃げ出したいと思うこともあるかもしれません。涙を流し、救済の乙女に許しを乞いたくなるかもしれません」
「そこまでではないと思うけど」とユカリは言ったが、「だからといって人を踏むのはちょっと」と続ける。
「しかし全ては修業なのです」ノンネットは身を乗り出して強く主張する。「立派な僧侶になるための鍛錬なのです。拙僧は決してエイカさんのご慈悲を否定するつもりはありません。しかし、しかしなのです、エイカさん。護女たる拙僧や彼ら加護官も含め、救済機構の僧侶は、近い未来に救済の乙女にご降臨いただくため、全ての大地の汚穢を焼き払わなくてはなりません。それは辛く険しい難業となりましょう。そしてそれらを乗り越えるため、拙僧どもは強い精神を鍛え上げなくてはならない。そういうことなのです。お分かりですか? お分かりにならないですか? 信じてくださいませんか?」
「お分かりです。お分かりになりました。信じます」ユカリはお手上げしてそう言った。
ノンネットは前にのめった上半身を既定の位置まで戻し、正確で精妙な古拙的微笑を浮かべる。
「それは良かったです。救済機構の誤解を解くこともまた拙僧の勤めに他なりません。ところでお二人はどちらへ行かれるのですか?」
「私たちは」と言ってユカリはちらとベルニージュの方を見る。ベルニージュは頷く。「次の港で降りるつもり」
ベルニージュが答える。「次は、たしかデノクの港、だね」
その港の方向へサクリフが飛び去ったという噂をある河港の街の水先案内人に聞いたのだった。
「まあ、一体それはどうしてですか?」と言ってノンネットは小首をかしげる。
「何かおかしい?」とベルニージュ。
少し棘のある言葉に護女ノンネット以外の僧侶、加護官たちがざわついた。刺し殺しそうな視線がいくつもベルニージュを貫いている。いくつかはユカリをも貫いている。
「ええ、少しばかり。デノクでは戦があったばかりですから」とノンネットは説明する。「テネロードの沿岸領が一つ川風の戦士領とビトラ北岸の弓手の丘都市がぶつかったのです。ラマトン側の兵士は引いたそうですが、メジッカ側の多くの兵士が怪我のために要塞にて身動きが取れず、また追い打ちをかけるように重い病が流行っているそうなのです」
「そうなんだ」と何でもないことのようにベルニージュは答えた。「じゃあ、船が停留している間に様子見して決めようかな」
確認するような目線をベルニージュが送ってきたので、ユカリも意味ありげに頷いておいた。
ノンネットが意気込むように言う。
「ちなみに拙僧どももデノクに参ります。まさにその流行病の噂を聞き、何とかしたくてここまで参ったのです」
どうしたものか、という意味の視線をユカリはベルニージュに送る。
なるようになるよ、という視線が返ってくる。
「ノンネットたちは医術に通じてるの?」とユカリは問いかけた。
ノンネットの微笑みは決して綻ぶことはないようだ。
「ええ、拙僧を含め、何人かの僧侶は火刑者たちの霊院で魔術を修めましたので。拙僧どもにどこまでできるか分かりませんが、病める者たちの力になりたいと心から思っているのです」
ベルニージュが何かに気づいたように軽く目を開く。その瞳には好奇心の光が宿っている。
「もしかしてアグマニカの神童?」
それが何かユカリには分からなかったが、何だかすごいのだろうことは伝わった。
ノンネットは初めて子供らしいはにかみを見せた。
「昔はそう呼ばれたこともありますが、今も昔も拙僧は一介の護女に過ぎません」
「すごそう、ですね?」とユカリは訳の分からない相槌を打つ。
呆れた、という顔をしないように我慢している顔でベルニージュがユカリの顔を見る。
「すごいよ、それはもう。抽霊法の開発に傀儡精霊理論の構築、それに例の虚ろ名。あれの援用方式の発見とかね。アグマニカ学派の将来を背負い立つ魔法使いだよ」
ユカリは感心してため息をつく。「そんなに凄い人なんですね」
ベルニージュのお陰で、何だかすごいのだろうことは伝わった。
「とんでもないです。上には上がいるというか」ノンネットは謙虚に否定する。「古名の魔術師と謳われる我が師風琴鳥の他にも司霊の野薊様、はたまた天啓医術者鯨の尾様。拙僧の功績は多くの魔法使いの積み重ねてきた発見と発明、類稀な教えと寛大な協力あってのものなのです」
その時、陽気で屈強な水夫たちが符牒と隠語を叫ぶように交わしながら広い甲板を行き来する。船の揺れが大きくなり、景色が傾く。離岸するようだとユカリたちは気づいた。揺れる船の窓の外に広がる対岸の見えない茫漠とした景色を眺めながら、ノンネットは温かな微笑みを浮かべたまま呟く。
「出発するのですね。それではしばしの、デノクの港までの船旅を楽しみましょう。ところで、話は戻りますが、お二人はなぜデノクへ?」
戻ってしまったか。
「ええっとね。実は、まあ、大したことではないんだけど」
ユカリは何か嘘を考えながら話そうとするが、ベルニージュが言葉を挟む。
「まあいいじゃない、ノンネット。色々教えてくれてなんだけど、ワタシたちの方に事情を話す必要性はないんだから」
耳をそばだてている加護官たちの心のひりつきがユカリにも伝わった。
しかしノンネットはまるで気にかからない様子で、その微笑みは凪いだ湖面のように揺るがなかった。
「そうですか。それもそうですね。いずれは分かたれるか細い旅の縁。深く絡めるべきではないかもしれません」
「何だかつんつんしてません?」ユカリは、どこかの街で買ったらしい『妖術誌』を覗き込むベルニージュのしかつめらしい横顔を覗いて囁く。
本に目を落としたままベルニージュは空虚に呟く。「つんつん?」
「もしくはぴりぴり」
「ぴりぴり」
「ノンネットですか? それとも救済機構?」
ベルニージュも声を落として答える。「救済機構なんだから警戒しすぎるくらいでいいと思うけど、ワタシは」
ユカリは風に当たりながら揺れる髪を抑える。ノンネットが帰って行った衝立の向こうを透かして見るように宗教画を眺めた。そこに描かれている天より降臨したる乙女の浮かべる微笑みはノンネットのそれと同じだった。
「良い子じゃないですか。ノンネット。素直で、生真面目で、おっとりしてて」
「救済機構に生家を焼かれたにしては優しいね」
その言葉の響きに悪意は聞き取れなかったが、それでもユカリは少し苛立つ。小さな波と戯れる水鳥を見て落ち着く。
「別にノンネットが悪いわけじゃないです。前にあった首席焚書官のグラタードさんだってそうです。私の家を焼いた焚書官チェスタが問題なだけで」
「本当にそう思ってるの?」ベルニージュの視線を感じたが、ユカリは外に目を向けたままでいた。ベルニージュは冷たく呟く。「魔導書を前にすればグラタードも、ノンネットも態度を変える。そもそも魔法使いなら誰だってそう。ワタシはそう思うけど」
「そうかもしれませんが、そうとは限りません」ユカリはベルニージュの冷たい視線を受け止める。「ベルニージュさんがその証です」
ベルニージュは逃げるように本に目を戻した。
「どっちがお人好しなんだか」とベルニージュがそう呟いて、運航船パージェンス王子号での二人の会話は終わった。