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ーー 雪下天音 視点 ーー
夜は、思っていたよりも静かだった。
布団に入っても、
眠気は中々来ない。
天井を見つめる。
知らないはずの模様なのに、
何故か落ち着く。
― ここは、どこだ。
何度も頭の中で繰り返す問い。
でも、不思議と不安は強くない。
昼間、
鍵盤に触れた。
あの感触。
あの音。
身体が先に、
「知っている」と言った。
指が動いて、
音が並んで、
世界が一瞬、正しい場所に戻った気がした。
(…戻る、って何だ)
言葉にしようとすると、
胸の奥がざわつく。
戻る場所。
戻る名前。
戻る人生。
どれも、
まだ形にならない。
でも、
1つだけ、はっきりしている事がある。
― ここは、怖くない。
隣の部屋に、
人がいる。
それだけで、
呼吸が楽になる。
(花田さん)
名前を思い浮かべると、
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
不思議だ。
記憶は、
まだほとんど戻っていない。
なのに、
この人の前では、
取り繕う必要がない。
失敗しても、
弱くても、
何も出来なくても。
そのままで、
良い気がする。
昼間、
立ちくらみをした彼女の背中に、
手を添えた時。
自分でも驚くほど、
自然だった。
(…守る、って)
考える前に、
身体が動いた。
それが、
怖くもあり、
安心でもあった。
― 俺は、
こんな風に誰かと暮らしていたんだろうか。
そんな記憶は、ない。
でも、
「こうした方が良い」という感覚だけが、
残っている。
それが、
自分の“元の世界”に繋がっているのか、
それとも、
ここで新しく生まれた物なのか。
まだ、分からない。
枕元に置いたスマホに、
視線を落とす。
画面は暗い。
(…調べれば)
(俺が誰か、全部分かる)
その考えが、
頭をよぎる。
怖い。
でも、
知りたい。
この衝動は、
止められない。
指を伸ばして、
画面を付ける。
検索欄が、
白く光る。
― 雪下。
そこまで打って、
指が止まった。
(…今、じゃない)
理由は、
はっきりしない。
ただ、
今ここで全部思い出したら、
何かを失う気がした。
それが何なのか、
分からないのに。
スマホを伏せる。
深く、息を吐く。
(…戻るなら)
(ちゃんと、ここを通って戻りたい)
誰にも強制されずに。
誰にも引き戻されずに。
自分で、
選びたい。
布団の中で、
目を閉じる。
隣の部屋から、
小さな物音。
彼女が、
寝返りを打った音。
それだけで、
胸の奥が静かになる。
(…ここが、今の帰る場所だ)
名前がなくても、
理由がなくても。
この部屋に帰ってくると、
ちゃんと、
息が出来る。
それで良い。
戻る世界がどんな場所でも、
今夜だけは、
ここにいて良い。
― そう思えた事が、
少しだけ、
嬉しかった。
音のない夜が、
静かに更けていく。