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教室のざわめきは紗奈には遠くの世界のように聞こえた。橘紗奈(たちばな さな)は、窓際の席でゆっくりと外の光を眺めていた。
「また一人でいるよ。」
「病気なんでしょ?関わんない方がいいよ。」
笑い声の隙間に混じる言葉はいつも棘のように胸に残る。
机の上に落ちた細い髪の毛。手でそっと集めてもまた落ちてくる。
薬の副作用
かつて紗奈は、誰よりもオシャレが大好きだった。
毎朝するヘアアイロンやお気に入りのリップ、鏡の前の自分と出会う時間が大好きだった。
でも今は鏡を見るのが怖い。
髪は抜け体は痩せこけ弱々しい。忘れっぽくなり、親の名前を忘れそうになる そんな自分が少しずつ壊れていくみたいで怖かった。
小さくため息を吐いたとき、後ろから声が落ちてきた。
「おい、落としたぞ」
紗奈が顔を上げると、乱暴そうな姿の少年黒川凛(くろかわ りん )が立っていた。
金髪で正しい制服の着方を知らない、教師にも平気でタメ口をきく、校内で有名な不良。
だけど紗奈は知っていた。
その男の子は、 幼い頃、誰より優しくて、
世界でいちばん自分を守ってくれた存在だったことを。 しかし紗奈は、それが昔話であるように感じていた。
記憶が少しずつ曖昧になり始めていたから。
凛は机の上に落ちた髪をそっと手で隠すと、
投げるように言った。
「泣いてるの、バレバレ」
「泣いて…ないです」
「俺、嘘つくやつ嫌ーい」
そう言った凛は、 昔と同じ、真っすぐな目をしていた。
昼休み。
紗奈は誰も来ないと思っている屋上で、 静かに風に当たっていた。
ドアが開く音。
振り向くと、凛が缶コーヒーを差し出してくる。
「ほら。甘いの。苦いの飲めねえだろ」
「なんで知って…」
「知ってるよ。ガキの頃から」
その言葉に、紗奈の指先が震えた。
忘れていた記憶の奥で、 夏の川の水しぶき、花火の音、 手をつないで走った小さな手の感触が 淡く揺れた。
「なあ紗奈。無理すんな」
その声は、 幼い頃、暗い川辺で泣いた紗奈に 凛が言った言葉と同じだった。
風が吹いた瞬間、髪がふわりと舞った。 抜けた髪が風に乗って消えていくのを見て、 紗奈は唇をかんだ。
凛はそっと言った。
「髪なんて飾りだろ。
お前にはもっと似合うもんある」
紗奈は泣きそうになった。 誰にも言えなかった苦しさが、あふれそうだった。
「そうだね …ありがとう」
その一言が、風に溶けた。
翌日から、二人はよく屋上で会うようになった。
紗奈は、家のこと、病院のこと、 誰にも言えなかった苦しさを話した。紗奈は家で虐待をされていた。殴られたりはしなかったものの紗奈の心には深い傷ができた。母に 「生まれて来なければよかったのに」 と言われたことが1番ショックだった。
薬の副作用で、 少しずつ記憶が薄れていくこと。
「怖いの。 思い出がなくなっていくのって、 自分が消えるみたいで」
凛は小さく息を吐き、 空を見上げながら言った。
「だったら俺が覚えてる。 全部、俺が持ってる」
その言葉に紗奈は震えた。
「凛くんって、
どうしてそんなこと言ってくれるの…?」
凛は少し間を置いて答えた。
「だって俺たち、幼なじみだろ
ずっと、お前を守るって決めたんだよ」
季節が秋に変わる頃、 紗奈の体はみるみる弱っていった。
学校へ行けない日が増え、 薬の量も増えた。
そしてある日、 凛の顔を見た紗奈は ほんの数秒だけ、言葉を失った。
「…り…ん、くん、だよね?」
凛は笑った。
いつものように、大きく、優しく。
「そう。あってるよ。」
でも手に握られていたペンは震えていた。
「忘れるとか、そんなの関係ねえ」
12月の病院。
紗奈は院内のベッドから外を見た。
雪が降っていた。 白い羽のように舞う光景は、 どこか懐かしい夏の花火の形に重なった。
凛は毎日ノートを書いていた。
• 今日、一緒にチョコドーナツ食べた
• 屋上で風が気持ちよかった
• 紗奈、笑った
• 俺はずっと味方
そのノートを開いて、紗奈は小さく笑った。
「ねえ凛くん」
「もし私が全部忘れて、私じゃなくなっても… 覚えていてくれる?」
凛は涙を堪えて答えた。
「当たり前だろ。 お前がいなくなっても、 俺が覚えてる限り、紗奈は生きてる」
雪が深く降る夜。 病院の小さな部屋で、 凛はずっと紗奈の手を握っていた。
「ねえ…凛」
「ここにいる」
「最後にね、思い出したの。 花火、一緒に見た夜。 私、手を離さなかったよね」
凛は泣きそうな声で笑った。
「離すわけねえだろ」
紗奈は静かに言った。
「ありがとう。 あなたがいたから、 私は…生きてこられたよ」
手の力が少しずつ、 柔らかくほどけていく。
窓の外の雪が、 ふわりと羽みたいに舞った。
世界でいちばん静かな さよならだった。
凛は大人になったが、結婚はしていない。
「どうして?」と聞かれる度に凛は空を見上げる。
「俺の1番はもう決まってるから。」
冬の夜、屋上に立ち、雪が降る空にそっと呟く。
「紗奈、俺はまだここにいる。」