テラーノベル
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サーフィー・ヘレッセンは胸を掻き毟り、悲鳴にも似た叫びを押し殺して眼覚めた。薄浅葱の透き通る巻き髪を垂らして、眼を大きく見開き尻尾を揺らす。夢から覚めたのかさえ曖昧なまま、荒い息をして肩を震わせた。水面から出てやっと息をしたかの様に喉を震わせ、眼尻にある鮫鰭に酷似した白模様を撫でる。そしてはぁと深く溜息を吐いた。口吻に片手を置いて起き上がりながら、恨めしそうに深緑の眸を潤ませる。此は悪夢だ、物凄く醜い悪夢だと独り言を呟いた。 口の中に滲む肉の塊、鼻へ上がる鉄の香り。眼の前にある母の脚。全ての記憶が鮮明に蘇り、浅い息をして倒れそうになった。幼い兄が母の屍体を噛み千切り、毛皮を剥いで口移しで喰わせる。全身の力が酷く抜け、ただ飲み込む事しか出来ない。弾力のある塊を無我夢中になり呑み込んだ。背後から常に聞こえる爆撃機のカァン、バァンという破裂音に怯えながら、終戦を祈り、岩陰に身を隠していた。
過去の事だと切り捨てようとしたが、サーフィーには到底無理な話だ。月日が経とうと残酷で堪らない。
「母様、私は何故か海軍に居ます。あれから二度戦争に出て、指揮を執りました。母様に頂いた此の肉体で國を守れるなら本望です」
自分に言い聞かせるように囁いて、静かに起き上がった。其の途端、彼は軍隊の竜として豹変する。掛け布団を畳み、整理して制服に着替える。猛禽の様な鋭い爪も入る白手袋を嵌めた。足音を立てない様、慎重に歩くと真夜中の古びた階段を汗だくになって上る。暗闇でも鉄の臭いが周囲に充満し、汗が湧き出る程暑い。そして、無慈悲にも背後にある硝子窓からは鋭く月光が射し、周囲は嘘だろうと言いたくなる程に静まり返っている。サーフィーは焦燥感に駆られた。夢では無い。現実の悪夢に向き合わねばならない。階段を登る度に、体感温度がどんどんと上がる。脳天から燃やされている様だ。そして思う。「何故、兄には鱗が生えているのに俺には毛が生えているのか」と。浅葱の毛は毎日剃って、なるべく伸ばさないようにしているが、矢張暑いのである。せめて灼熱地獄から逃れようと襟元を掴みばたつかせるが、熱風が巻き起こるだけで更に悪化する。軈て頭の後ろをガァーンと殴られた様な痛みに襲われた。震えながら前の頭を押さえ、立ち止まると髪からたらりと汗が落ちる。流石に不味いなと苦笑いし、眼的の部屋まで足を急がせる。
「F24……あった」
部屋前の数字を見つけ、把手に手を掛ける。いつも通り開けようと力を入れるが、ビクともしない。次は腕の筋肉を全て使い脚から踏ん張ると、破裂音を立てて扉が開いた。風に揺れて震えている扉を片手で押さえ、足を踏み入れた途端、埃が舞う。絹の布で鼻を覆い、部屋に入り込むと誰も入れないという強い意志を表したかのようにピシャリと扉を閉めた。床には段ボールが積まれ、永遠と続く本棚には組織……軍の機密情報が詰まっている。彼の居るヒラール・ポッセナ特殊軍では陸空海がある。そして彼は海軍の最高指揮官だ。國軍とは違い、ヒラールの中だけで話し合い暗殺を行うことが許可されている。國の裏側、とも言えよう。陸軍の資料を通り過ぎて、幹部たちの報告や今後の方針などを読み漁る。分厚い本のような報告書を指でなぞり、軍病院の医師についてという資料で指を止めた。すぐに取り出し広げると、パラパラと紙を捲り翡翠のような眸をチラチラと動かした。
「『マールム大学医学部附属病院よりエヴァン・ヘレッセン教授、クルル・シャムス助教』」
暑さとは全く別の冷や汗が滲む。読み進めていくと考案は首領のものであると明記されていた。而も此の基地に転属するのは数週間後。幹部なのに何も知らされていないということに疑問を抱く。サーフィーは睫毛を伏せて、静かに資料を元の位置に置いた。部下の居る演習場へ戻る為に、青と灰が混ざりきったような迷彩服の裾をピンと張って整える。そして、考え事をしながら階段を下りてゆく。ガチャガチャと色々な感情が混ざり、破裂しているうちに表情を普段よりも曇らせた。其時、肩幅の広い陸軍の水牛が顔を覗かせた。手入れの行き届いた蹄の様な指先を壁に置いて、周囲を睥睨している。見事な角と黄金の星のような眼は相変わらず、黝い毛に似合っていた。数歩下りると床に足をつけて、挨拶をする様にサーフィーが立ち止まり、敬礼をすると相手は吃驚した顔をして即座に敬礼した。
「おい、誰かと思ったらそんなに青褪めてどうした。ただでさえ青毛なんだからしっかりしろよ」
地面を貫くような低い声である。サーフィーは苦笑を浮かべて髪を掻き上げた。
「──青褪めている? ……最近の任務は海が多かったから染まっちゃったのかも」
「ふぅん? でも鯱《オルカ》に噛みつかれた様な顔を見るに、只事とは思えねえ。あっ、もしかして兄貴の……」
水牛が言いかけると、刃物のような眼線を向けられ口を噤んだ。
「ライラ一等陸曹、特務頑張って」
肩をぽんと叩く。ライラはジッと不安そうな眼を向けて「アンタもな」と敬礼する。サーフィーは頬を赤らめて笑い、静かに敬礼を返した。鯱の皮肉は比喩として上出来だと褒めながら。
♪♪♪
早朝から狙撃音の轟く演習場を歩き廻っていると、横たわり小銃を抱いていた隊員達が素早く立ち上がり、敬礼した。サーフィーも同じく敬礼を返して「頑張っていますね。続けてください」と微笑む。隊員は勢い良く返事をすると、腕捲くりして小銃を構えた。全員が私を見てくださいとばかりに命中させてゆく。一気に張り詰めたような空気になった。
それを遠眼で眺めていると、彫刻で見るような美しい体躯の獅子が近寄ってきた。敬礼を交わすと、ふと袖が捲れて手首の内側にある三日月の刺青が覗く。その三日月を囲う点の数で階級が決まるが、六しか無い。サーフィーは首の後ろで、点の数は二十八だった。然し、その刺青が気に食わず、巻いた髪を少し伸ばして隠していた。後は後ろに伸びる角の影に頼っている。だからか、獅子の手首を見るなり眼を細めて眉をギュッと顰めた。
「青玉大将が来たので先刻より気合が入っていますよ。青玉さん麾下の部隊は矢張、他より優れているように見えます」
柔らかな声が耳を撫でる様だ。大将には穏やかな猫そのものだが、隊員達からは悪魔と恐れられている。この部隊訓練評価隊が好きな隊員なんてほぼ居ない。サーフィーは態度の違いに不愉快さを覚えながら胸の名前を一瞥した。沈丁花《ジンチョウゲ》と書かれている。部隊内での名が花の名称ということは、上から四番目かとサーフィーが顎に手を当てた。別に果物を名乗らせても良いのだろうがと俯いていると、狙撃が終わったのか、部隊に混ざっている子供が褒めて欲しそうにサーフィーを見つめている。その姿が、胸を突き破る様だった。
「そう言うには早いでしょう。武器を抱えてあの山全て越え、海を泳ぎ限界を越えなければ認められません。体力もそうですが、精神を一番鍛えないと壊れてしまう」
「……」
沈丁花が空を眺めた。陽の光を浴びた風が鬣を揺らす。そして眩しさに眼を閉じた。
「大将の言う通りですね」
「総帥から体で教えて頂いた事です」
苦笑を浮かべると、瞬きする間に真顔に戻り、サッと襟元を整える。冷や汗を滲ませている沈丁花を前に、ピシッと胸を張った。
「さて、恐縮ながら急遽八時三十分より陸海共同会議を執り行う事となりました。ですので、誠に急ではありますがご出席していただきたく存じます」
「了解しました」
緊張を混じえた敬礼を交わす。唇が、僅かに震えている様に見えた。
♪♪♪
屋上まで行くと、青に染まる空の下でサーフィーは屋上から街を眺めた。ただ巻き毛を朝風に靡かせて身を乗り出している。柵を掴んでいるのは、毛玉の様だが鋭い鉤爪を持つ手だ。可愛らしさの欠片も無いなと苦笑を浮かべて優しく撫でる。満足げに数歩下がると軍靴の音を鳴らして壁際まで歩いた。凭れると無言で力を抜き、眠る様に長い睫毛を伏せる。すると、煙草の噎せるような匂いが鼻を突いた。
「ボニファーツ。兄ちゃん、大丈夫だった?」
振り返り、眉を顰める。背後で涼しい顔をしている青豹は、黒い煙草を咥えたまま点火器でシュボッと火を点けた。煙を鼻と口から大きく吐くと、黄色の牙が覗く。瑠璃毛が冷めた風に揺れた。
「いやぁ、未だに冷めた態度だ。病院内部や薬剤の他に、実験や内部構成を気にしていたよ。深夜に誰を暗殺したのかを歴代から最近まで淡々と尋問されて、反応すらされず電話を切られた」
眉間を押えてハァ、と溜息をつく。眼には悦びの色が濃く映っていた。気色の悪さと肝の冷える感覚に不快な素振りをして、肩の力を抜いた。
「一般病院と違うから仕方無い。暗殺の事まで知られたんなら嫌われても文句言えないよ。だから来るのに反対した」
恨めしそうに顔を近づけた。長い口吻が当たり、牙が薄ら覗いた。だが牙を剥く事はせず、ただ顔を横眼で見つめる。嫋やかな猫科らしい顔立ちが眸に映り込んだ。眼まで淡青な故、其の表情の全貌が瑠璃に包まれていた。態々覗き込もうとも考えたが、躊躇して止まる。
「はあ、化け物でも見てるような顔」
煙草を手に持って、ゆっくりと吸い込む。喉の奥まで煙で満たされ、鼻まで匂いが込み上げた。恍惚とした眼が何処を見ているかさえ分からず、姿ごと白い煙に包まれた。サーフィーは嫌そうに手で払い除けると、口角をギュッと吊り下げた。
「思って無い。でも毛色のせいで表情が分からないから、気になっただけ」
「へえ」
見せてやろうとばかりに、背伸びして見上げると、丸い瞳孔の豹が明瞭に見える。口には微笑みが浮かび、豹紋はずらりと毛を覆い尽くしている。開いた口は薄紅であった。芸術作品でもなく、生物だと見て分かる。
「神獣って言われても信じるよ」
ボニファーツは口許に靨を薄ら残し、開かれた唇から言葉を漏らそうとした。然し、サーフィーが其の言葉を遮る。
「魔獣って言われても信じるよ」
「……そっか」
諦めた様に、輪郭を崩さず美しく口角を上げた。眼がぴくりと痙攣した様にも見えたが、その落胆に気づく事は無かった。冷えた風を身体に巻いて、ぐぅっと伸びをする。サーフィーが呆れたとばかりに大きく欠伸した。
「そんな哀愁漂う顔されても困る」
「哀しむよ。部下に酷い事言われたんだもの」
態とらしく綿で眼の下を拭く。隣でそれを冷たく眺めながら「じゃあ、其方も暇じゃ無いだろうから次の会議で」と敬礼して切り出すと、青豹は爽やかに微笑んで返した。
♪♪♪
窓の奥で太陽が燦々と輝いている。サーフィーは青空に浮かぶ雲を眺めて待った。チク、タクと時計の音が鳴り響く。鼓膜の奥で耳鳴りがする静けさを纏う会議室では机を囲む様に動物が座り、合図があるまで沈黙していた。電波で繋がっている海中の隊員や、艦艇内部で会議を見ている鯱達が映し出されている。長い鰭には番号札が付けられ、白模様のアイパッチだけは気持ちが悪い程に揃っていた。椅子に腰掛けている海猫も自慢げに胸を張り、陸軍の動物を凝視する。沈丁花が如何にも憂鬱だと言いたげな眼を隣の縞馬に向けた。だが耳をヒラっと動かすだけで、言葉は掛けない。
暫くの間、静寂の魔物に抱かれていると、チクリと時計の針が三十を向く。正面のボニファーツが顔を上げた。
「起立」
「気をつけ」
「敬礼」
歯切れの良い声が響き渡る。敬礼をする時のビシッという空気を切る音が三十程に重なり、銃声の様だった。着席してボニファーツの方を向くと、配られた資料を合図で開く。サーフィーが立ち上がった。
「現状報告。ヨルガン共和國とカポン人民共和國での紛争により、侵略地域はシュネピリア方面へ拡大。昨夜発表された報告によると合計死者数は二万五千二百八十四人。二ヶ月でここまで死者が出るとは異例であり、我々陸海軍も拡大防止作戦として、D作戦に移る事に決定した。そして、図一の通り、ヨルガン北部地方ヨルガンでは水爆の開発が進められている。第五別基地によると、八月二十七日にカポンのヨルスカ地方東部ル・ダーラ地区へ発射するという計画が正式に決定された模様。幹部会議にて八月十七日に此方から援軍を派遣する事を決定した。後に個獣へ通達されるD作戦の実行と、第五別基地との連携を取って貰う」
「あのう、水爆開発の規模や爆発の範囲について具体的に説明して欲しいのですがー……」
狼の女が眼を細める。サーフィーは冷然として見下ろすと「詳しくは言えないが、五十メガトンを上回ると予想されている」と言った。場は騒然とするどころか女を見たまま静まり返っていた。
「此より派遣される兵隊の名前を呼ぶ。國の役に立てることを誇りに思い、堂々と立ちなさい」
「沈丁花二等陸曹」
「はい」
沈丁花が敢えて堂々と立ち上がる。正面を向いた。
「真桑《マグワ》陸曹長」
「はい」
次に、犀が大きな体躯をグッと曲げて立ち上がった。片眼で沈丁花を睨みつける。場の空気は張り詰め、心臓が破裂しそうな程に悪化した。
「甜瓜《メロン》准陸尉」
「はい」
虎が優雅に立つ。縞模様に、千切れて痛々しく傷を残した耳や鼻。数本失った指。鍛え上げた身体は軍服を引き千切る様な勢いだ。傷の隙間に覗く爛々とした眼は、猫科の猛獣としての恐ろしさを体現していた。
「……パロマ陸少将」
「……はい」
柿毛に黒と焦茶を所々に残した狼の女が立ち上がる。口吻の筋を除き眼の下から頬にかけて白毛。そして白い麻呂眉を顰めて、立ち上がった動物を不安げに見つめていた。
「着席。他、瑪瑙空軍中尉と黒瑪瑙陸軍中尉も戦場医として同行します」
「其の瑪瑙陸空軍中尉は何処へ」
甜瓜が辺りを見回した。ボニファーツが誤魔化す様に笑って答える。
「来たばかりだから会議に参加させることは出来ない。それに、彼らはD作戦に直接関与はしないだろう」
「そう、ですか」
不服そうな顔をして、思わず漏れそうになった舌打ちを噛み潰す。見事な鱗をした竜だと噂に聞いていたから拝みたかったらしい。晩に食堂で待ち伏せても姿が見られなかったのだ。鋭い爪を毛に向けていると、サーフィーがチラリと覗き込んで瞼をパチクリさせた。
「……続ける。本任務では紛争集結を眼差して交渉を試みる他、軍事協力を主とした内容となっている。ページを進めて、図二から三の確認を」
一斉に捲る音が響いた。途端に、場は騒然とする。静寂にゴワゴワと呼吸音の乱れの様な、又は砂嵐の様な雑音が鳴った。
「図二の下に『暗殺科部隊の派遣を正式に決定した』とありますがー、此は幹部抜きの会議にて決定したことですか?」
パロマが倦怠感溢れる顔で訊く。ボニファーツは片眉をひょいと上げて、尻尾を大きく揺らした。
「軍事機密だ」
「……前回の会議で暗殺科の派遣や軍事作戦はまだ検討段階だってほざいてた癖に、身勝手な軍だな」
諦めて小言を呟いている様にしか見えないが、声に出さず共感している者も少なく無かった。風の音が聞こえる位静かな時間が数秒流れる。トンと机を指で弾く音が静寂を切り開いた。
「陸海の大中将で話し合った結果が派遣決定だった。もう此処で言ったんだから、良いじゃないか。青玉も同意していた。そうだろう?」
促す様に、爬虫を感じる顔で同意を求める。サーフィーは紺の濡れた鼻をヒクヒクとさせて、渋々頷いた。
「左様、陸軍大中将も無論同意であった」
「ほらね」
優越感に似た幸福を味わいながら、顔面に皺を寄せて踏ん反り返る。パロマは耳を反らして悔しそうに外方を向いた。そして、また静寂の魔物に襲われた場の空気は、徐々に重さが増している。
「兎に角、任務を遂行するのが我々の役目である。四の五の言わずに、内容を理解出来た者は各自解散しなさい」
隊員は黙り込んだまま資料を持ち、解散した。気がつけばボニファーツの姿は消え失せ、代わりにパロマが片付けていた。長い口吻を下に向けて、狼らしい毛が垂れている。サーフィーは隣で、小声だが低く、明瞭な声を出した。
「嗚呼、本当に不甲斐ない。ごめんね」
「気にするな。アンタは謝る程悪くないんだから、自信持って良いよ」
微笑むが、倦怠感と疲れの混ざった腰からは重度の疲労を感じた。胸衣嚢に垂れ下がる黄金の紐を辿ると、黒眼鏡がある。縁の隣にある金属の円に紐を通しており、此を頭の後ろで結んだり留める。此の手の眼鏡は珍しく無かったが、此は年季の入ったかなり昔の物だった。戦時中か、其の前だろう。
「これは?」
「……あー、此は兄貴の使ってた黒眼鏡。いいだろ」
掛けて見せた。サーフィーは感嘆の言葉を漏らして感心する。
「へえ、格好良い。俺も前に買った黒眼鏡あるよ」
「掛けたらウチとアンタ、どっちが格好良いと思う?」
悪戯っぽくニタリとした。先刻まで真面目そうに硬直させていた表情を崩して、サーフィーもクスクスと笑う。
「圧倒的に俺だね」
二頭で笑いながら廊下を歩いていると、背後から翼の音がした。海猫だ。ビッシリと敬礼をして、寄り添うように真横へ滑り込んでくる。
「青玉大将、藍玉《アクアマリン》中将からのお呼び出しです」
「分かった。ありがとう。それじゃあパロマも、晩餐までには送られた計画確認してね!」
「イエッサー」
二頭に敬礼をすると、サーフィーは重々しく足音を鳴らしながら裏階段を下った。汗が滲む。手摺に縋って溜息をつきながら、一階まで辿り着いた。兵隊の汗や泥の匂いに包まれた廊下を歩き、迷彩服の犬達に敬礼される。ゆっくりと敬礼を返して、個室のA20室へ入る。白く薄汚れた壁には機械があり、赤い光を点滅させていた。衣紋掛に掛けられている水着を着る。潜水服の様に重々しく重ねることも無く、身軽になると素早く鏡を一瞥して部屋を出た。石造の階段へ方向を変えて、一歩、まあ一歩と踏み出す。冷えて凍った段差にペシ、と自分の足音だけが響き渡る。薄暗くなると、鯨の唄が響いた。そして、青白い光が波で畝りながら、地面を照らしている。サーフィーは唾を飲んで、ゆっくりと光の方へと進んだ。すると、混凝土の壁が続く中、海面が浮かび上がり周囲を青一色に染め上げている。
「藍玉、来たよ」声を張り上げて叫ぶと、海へと飛び込む。紺青の世界へ吸い込まれると、泡が音を立てて海面へと逃げ、魚が大きく避けた。視界の先には鯨に似た斑点模様の竜が、光を反射させて優雅に泳いでいる。尾鰭を大きく動かすと、胸鰭にも似た指を伸ばし敬礼した。
「何で態々こんな所に呼び出したの? 少し生意気じゃないか」
頬を膨らませる。藍玉は海中を震わせる楽器の様な声で答えた。
「例の爆弾、開発が急に進んだって聞いてるけど完成してるんだ。お前の眼で確認して欲しい」
「……また新しくなった海洋兵器でしょ。確認する程の事か?」
呆れて、絡みつく水を掻いていると腹下に廻り込んで来た。其の勢いで体が揺れそうになるが、真っ直ぐに保つ。
「私がお前を呼び出す事なんて殆ど無いだろう」
「分かったよ、其の前に一度呼吸させて欲しい。息を吸わずに潜ってしまった」
「鰓でも作ればどうだ」
サーフィーを腹から持ち上げて海面に上げる。するとヒュッーと息を肺に溜め込み、深く沈んだ。背に乗せたまま藍玉が進むと、封鎖されていた混凝土の空間とは違う、紺碧の空が広がる外の景色へと飛び出した。大きく体を反らし跳ね上がると、海面に体当たりして尾鰭を打った。海軍基地の建物を通り越して深く潜ると、黒く塗り潰された金属が海底一面に広がっていた。基地の一部なのでは無いかと疑う程に、視界を覆い尽くしている。規模は聞いていたが此処迄とは、と軽い絶望に眼眩さえ覚えた。
「世界金融を握るドメニコーニという鯱が居る。青豹とも親友という仲だが、海洋兵器の開発には猛烈に反対していた」
サーフィーが睫毛を伏せる。藍玉は口の間から無数の牙を覗かせて口角を上げた。
「大喧嘩だろうな。お前の兄さんとも」
「兄ちゃんは関係ないじゃん。軍とも関係ないし、兵器なんて知ったこっちゃないんだから」
軽く小突くと、藍玉はカラカラと笑ってまた兵器を眺める。其処には、小さな文字でヒラール・ポッセナと刻まれていた。
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