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麒麟の体温により灼熱となってゆく寝床の上で、エヴァンは苦悶の表情を浮かべながら藻掻いた。炙られているのではないかと錯覚する程、鱗の表面に余韻が残っている。疲れの癒えた体をゆっくりと動かし、寝床から降りると、電脳の置かれている棚の前に腰を下ろした。端には寝ている内に差し込まれた紙の資料が置かれている。棚の角に貼られている付箋紙には、冷蔵庫を描いたのか長方形の絵図がある。其の隣には矢印と細長い字が残されていた。【果物がある。明日の朝食はクラッカーとトルテリーニ。残さない様に】
寝惚け眼を擦り付箋紙を剥がす。此を書いた者の名前は書かれていないが、癖のある装飾文字を見るに彼であることに疑いの余地は無かった。
「サーフィーか。御丁寧に」
付箋紙をクルルの眉間に貼り付けると、冷蔵庫の扉を開けた。冷え切った風が巻くように鱗上を撫でる。少し寒いと両手を擦りつつ、中身を覗き込んだ。其処には木苺や檸檬が置かれている。多種多様な果実や肉がある隙間には、黄金の光を放つ甜瓜が分けられて皿に置かれていた。其れに手を伸ばそうとしたが、さっと引っ込めて木苺を一粒摘んで、扉を閉めた。口に放り込むと、甘酸っぱさが舌に広がり、噛む度にプツプツと潰れた音が鳴る。飲み込んでも尚残る味の余韻を感じつつ、電脳を開いた。蜘蛛の写真を眺めようと検索をしていると、大量のファイルが視界に映る。溜息と舌打ちを堪えて開くと、別基地への送迎についての詳細や現状。別基地にある医療薬や機器などが纏められていた。俄然興味が湧いたのか、医療に関する部分だけ眼の色を変えて読み進める。特に最新の内視鏡や医療用拡大鏡が気に入ったらしい。医学雑誌も何千とある。何気なく出版社を検索すると、度肝を抜かれた。円を描くような英字でコルラス・ポッサム社と書かれている。
「世界的有数の学術出版社だ。幾つも雑誌は持っているつもりだが、ヒラール版がここまで多いとは」
意外だと表情を曇らせながら、無我夢中になって読み進める。背後には足を踏み外して蹌踉めくクルルの姿があった。付箋紙に気が付かず欠伸をしている。
「んん? あれ、今日の朝食南欧料理じゃないですか。私は枯葉で十分なのに」
小言を漏らし、いつの間にか机にある林檎の芯を噛む。モグモグと頬を動かしてエヴァンの隣に座り込み、電脳の画面を覗き込むと「オオッ」と感嘆の声を上げる。雑誌の試し読みを勝手に押して文を眼で追う。飲み込む様に論文を端から端まで探り、尻尾を別生物の様に動かして騒いでいた。エヴァンは其れを横眼に紙の資料を捲り、基地の内部構造や地下の通路を重ね、電脳の光で透かして見ていた。
「資料によると、朝食後にある事前説明の後、輸送機に乗り七時間移動。数ヶ月は滞在する事になる」
何も無かったかのように、資料を重ねて戻す。クルルは残念そうに肩を落とす。べしゃと電脳の上に頬を乗せた。
「鬼の所業ですよ。先生からしても戦場に行くのは気が進まないでしょう? 明らかに青豹の嫌がらせです。タチが悪い」
「青豹と呼ぶな」
顔を顰めて、寝床へと戻る。薄墨闇の部屋で毛布を掛けたまま壁を見る。点滅する装置は配線用遮断器に似て、電線が数本伸びていた。装置の間にあるSの文字に嫌悪感を抱いて眼を瞑る。クルルは其の背を怪訝に眺めながら溜息をついた。窓越しの空は雲の洋服を纏い、紅を差している。微睡んだ直後、耳を劈くような喇叭《ラッパ》の音が基地内に鳴り響く。エヴァンは耳を塞いで飛び起きた。信じられないという顔で青褪めている。毛布を畳んでサッサと食堂に行こうと準備を始めた。
「先生、地下蟻の巣避難所って知ってますか?」
服を着替えながらクルルが訊く。毛が垂れているのを見て肥えているなと口走りそうになったが、咳払いで押し殺して頷く。
「災害時に逃げる地下通路だろう。其れがどうした」
尻尾を出して金釦を留める。切り込みから翼を出して胴締を締める。硝子窓から射す金具の反射光の様な朝日で構造色が紫を帯びた。
「先生は昨晩、ずっと其れを見ていたのでしょう。第五基地周辺に火山なんて無いのに、避難所が繋がってますよね。海中を通って」
神経みたいですね、と付け加える。襟許を整えて胸衣嚢に備忘録を仕舞う。扉を開けながらエヴァンが右腕を撫でた。影で艶が一瞬消え失せ、臙脂に染まる。
「私は、何かを作っている様に感じた」
眩しく、太陽の中に潜んだ様な気持ちで廊下を駆ける。
静寂の食堂には将校が並び、大きな鯱を見たとか昨日は暑かったとか寝惚け話を交わしている。其の影の中には羽毛に似た毛を持つ高山竜が混ざっていた。白い手を伸ばして、鋭い鉤爪が覗いている。眼尻には鮫鰭の白い模様があった。背には厳粛な雰囲気を纏い、周囲が身を小さくしているのが見て分かる。
「矢張り彼は眉目秀麗、でも朝だから機嫌が悪そうですね」
小声で囁くと、真後ろの狼に突かれた。エヴァンは顔を引き攣らせて、眉間に深い皺を作る。
「レティシア」
「パロマって呼びな。瑪瑙《アガット》中尉と黒瑪瑙《オニクス》」
訛った口調で呼ぶと、トルテリーニの乗った皿を持ち上げて運んだ。中身は薄く伸ばした生地に具材を詰め、三角に折り、その両端を重ねて指輪の様になったパスタをスープに浸している。そして席へと身を翻した。
「後、青玉は耳が良いから全部聞こえてるよ。機嫌悪いって」
背後の席から青玉が静かに睨む。果実を噛み潰す様に微かにエヴァンは嗤った。くつくつと喉奥で音を立てながら皿を持つ。
「……食べよう」
「はい」
席に運び、クラッカーをスープに浸して食べた。中々美味しいと絶賛しつつ口へと運ぶ。昆虫肉特有の弾力のある食感と濃い風味が充満した。ふと、クルルが隣を見ると鷲獅子《グリフォン》が座り込んでいる。上下が赤白の不可思議な容姿をして、猛禽には無い長い耳を動かしていた。そして、微笑む事も無く無表情で見つめ返した。
「生まれて初めて、麒麟という生物を見た」
ポツリと一言。唖然として、黄金の眼を煌めかせていた。エヴァンがクルルの影から顔を出す。
「後ろのは噂の玉蟲か。渾名にしては色が紅いぞ?」
絶滅危惧種でも見る様な眼を向けて、首を傾げた。いつの間にか前に座っている青玉が睫毛を伏せて『きっと、一眼見た軍獣が緑だと勘違いしたのだろう。兄は構造色の鱗だ』と言い放ち、席から離れた。
「青玉って何時も不機嫌なんですか?」
「いいや。訓練とか会議以外はいつも優しい」
鷲獅子が否定する。其の真後ろで食事を終えたエヴァンが荷物を片手に「胡蝶蘭でも枯らしたのだろう」と見解を述べた。
休憩を挟んだ会議二十分前、資料を纏めて会議室へと足を急がせる。永遠と続く階段を下りつつ時計に視線を移した。隣では弱く蹄を鳴らしてクルルが歩く。耳を垂らして、鼻を触ったり胸を撫でたりしてエヴァンの様子を窺っていた。
「何が言いたい」
眼も合わせずに俯く。足すら止めなかった。然し、尻尾はグネリと動き、只管返事を待っていた。
「何だか、思い返せば思い返す程にボニファーツさんが気持ち悪いのです。それを豹だと思えない。悪魔か、又は抜殻だと思ってしまう」
手で形を作って見せるが、独創的で伝わらない。「青くて、青くて」と言葉に詰まる。此の麒麟が言うには血が通っておらず、臓物も無ければ心の欠片も無い無生物らしい。豹の皮を被った化物だということを燻んだ眼が証明していると両手を広げた。エヴァンは仰向けになっている虫でも眺める様に哀れんだ視線を送る。
「それでも彼は豹だ」
一瞬怯んだクルルを放置して会議室前へ歩く。一頭残され、溜息を大きく吐くと憂鬱そうに額に手を当てた。其の儘、力の無い脚を滑らせて倒れ込む様に会議室へと足を踏み入れた。楕円机を囲み、軍獣や軍医であろう動物が座っている。其の中央にパロマが立ち、じぃっと周囲を睥睨していた。
「何でアンタら前見てんの? 資料が手にあるなら見なよ」
狼狽えている中でも容赦なくページを捲られる。エヴァンは用語だけでもと周囲に小声で訊いていた。其の合間に鱗を褒められると頬を染めて喜んだ。全員の顔を覚えた所で、隣にいる獅子に眼をつける。
「初めて来た翌日に任務へ駆り出される事って普通なんですか」
ペンで資料に字を書き込んでいる沈丁花に寄る。立髪が微かに曲がり垂れていた。落ち着いた眸をチラリと動かして微かに口を開く。手入れの行き届いた牙が並んでいた。
「左様。其れに耐えられる輩しか入隊出来ん」
「成程」
腕組みして納得して見せる。戦場での司令を担当する事になったであろうパロマ中将は雑談をしていると指摘して叱りつけた。
「本任務では、紛争の終結、被害の拡大防止、事両國の安全を確保する事を眼標とする。飽く迄、中立的な立場であり仲裁を助ける役目がある」
白板に貼り付けられた地図を指す。被害は淡々と拡大して、もう既にヒラールの艦艇が出発の準備を進めているらしい。艦艇の名称と番号が端に書かれ、軍獣の名も綴られている。陸軍との共同作戦についての詳細と援護について、補給班の準備、潜水艦部隊を設置するなどとあった。
「ヒラールだけでなくPLAも出動するという情報がある為、各自見つけても銃撃しないように。我々の担当は首都を含めた八地域。ウチは現地の陸軍司令として務める。本部より通信司令は三日月《クロワッサン》。そして海軍への司令は指令部艦艇より青玉大将」
場は一部戦慄とした。「PLAってあの部隊か?」と砂嵐の様に考察や不安が巻き起こる。クルルが小声で虎に訊いた。
「何ですか、其のPLAって部隊」
「ポメグラネイト・ラ・アティーシフス。ヴェンリーという北國にあるヒラールとは違う特殊部隊だ。表じゃ仲が良いけど互いに敵対しておる」
アティーシフスは北國の言葉で正義を意味するとも教えられた。怯えて縮まるクルルを横眼に、パロマは笑みを浮かべる。
「攻撃はしないと事前に連絡が来ているし、心配しなくても大丈夫。此の任務は数ヶ月前から決定してて、向こう部隊とも話し合いをつけたから」
頼もしく胸を張った。毛が揺れて犬科らしい耳をピンと立てる。周囲は安堵して胸を撫で下ろした。
「そして派遣される隊員。まず沈丁花は首都南部。甜瓜はヘリコフ。真桑はワンブルク。既に戦場にいる部隊と合流して指揮を執って。で、其処から派遣される医師は銀、銅、紫水晶、瑪瑙、黒瑪瑙、其の他保護班、看護師。詳しくは資料に明記してるから確認してね。まずは現地合流して被害の確認と戦車や武器の数を数えた後、待機。司令があるまで動くな。海軍艦艇が既に包囲する為に出動してる。こっちも急ぐぞ」
返事をして、医療班などの確認をしようと名前を追っていると、比較的若い手術室看護師《オペナース》が一頭居た。其の文字に紛れ込む様に、紅玉《カルブンクルス》と綴られている。拉丁《ラテン》語でしょうとクルルが予想した。
「派遣軍獣は残って最終確認とA部隊との打ち合わせ。医療班はそれぞれ集まって簡潔に患者数の確認を行って。各自集合後、輸送機に乗る事」
ハイと空気を切り裂く様な返事をして、別室に移動する事となった。ドロドロに液化した憂鬱を背負って重い脚を上げながら素早く向かう。日に照らされ、白銀を広げた様に殺風景な床に影を落とした。死んでしまうという恐怖では無く、やり場の無い虚無感だ。心という形が崩れ、粉となり、風に飛ばされた様である。其の背を追いながら、クルルは思う。
「何と哀れで、滑稽で、痛ましいものか」
ハッと息を呑んで隣を見る。其処には化物の様な体躯をした鯱が立っていた。黄金の縁をした黒眼鏡を掛けて、首後ろには赤波の刺青がある。白背広姿で尾鰭を出し、獣革の手袋を着けていた。驚き声の出した方を忘れ、唸りに似た醜い鳴き声を上げると、鯱はどっと大笑いした。
「先生、クルル先生。いやぁ、図星を突かれたって顔ですよ。私の事覚えてませんか? ディアーノ・ドメニコーニですよ。投資銀行の」
更に背後から黒獅子が現れる。エヴァンは素早く振り向いたが、眼が合う前に視線を戻して階段を上がった。クルルも小走りで後を追う。其の後ろからまた尾行する様に追いかけて来た。
「何故こんな所に?」
「此の軍に採用された兵器を製造している軍事企業を買収しまして、ご報告に参りました。我が友ボニファーツが喜ぶだろうと考えましてね。なぁエヴァン、ご機嫌よろしゅう?」
階段の連続だが、息切れもせずに絡む。痺れを切らして翼をばたつかせながら「忙しい。そんなに口寂しいのならおしゃぶりでも咥えていろ」と突き放した。遂に待っていた別室に到着すると、疲れ果てたクルルの腕を掴み扉の向こうへ引き摺る。頬を膨らませて文句を垂れている鯱を放置して、パタンと扉を閉めた。
「わ、わぁ! エヴァ……瑪瑙教授!」
悲鳴にも似た歓声が上がる。静かに白眼を剥いて、蓄積していた憂鬱と疲労の煙を吐く。鉄椅子に腰を下ろして、眉間に指先を当てていると、真っ先に斜め右に座っていた斑模様の兎が飛びついて来た。垂れ耳が揺れる。
「憧れていたんです」
激しく握手をして上下に振り回した。其れを見て焦り青褪め、前に座っている嵌合獣《キマイラ》が兎の肩を掴んだ。
「辞めて! 彼が可哀想だわ」
獅子頭が悲しげに眉を顰める。背の山羊は横長の瞳孔をグルグル動かしながら笑っていた。尻尾である赤蛇にも意識があるらしく、エヴァンは何処見て話せば良いのか迷う。
「誰ですか?」
クルルが先刻まで掴まれていた腕を優しく撫でて訊く。兎はひょいと跳ねて戻り、恭しく頭を下げた。
「自分は銀《シルバー》と申します。元々は別名でしたが、兄が戦死してしまい此の名に」
一瞬通り抜けた淋しげな空気にエヴァンが片眉を上げる。嵌合獣は脚を投げ出して天を仰いだ。
「私は紫水晶《アメジスト》。其処の資料見てる眼鏡が銅《クプルム》」
眼鏡と呼ばれた海猫は一瞬怒りの色を見せたが、文句も言わずに口を閉ざした。全員が一言ずつ名を述べていると、其の真ん中で喋るのが億劫だと眼だけで伝えている薄紅の毒竜が視界に入り込んだ。そんな彼女は両眼尻、口端に瑠璃の化粧に似た模様のある特徴的な容姿をしている。角は縞瑪瑙の様な青白であった。尻尾や手にも青い縞があり、時々、眼玉の如く丸い模様が挟まれていた。
「紅玉か」
「ええ、はい」
怪訝な表情を浮かべて視線を逸らす。左手で右手を掴んでいた。
「大体分かったかしら。なら患者数の確認と状態についての資料を配るわ。全体的だと軽傷が多いけれど、爆撃された場所では重症患者も多数。特に地雷による被害が広がってる。重症患者数は合計四千五百六十三頭」
トリアージの赤を指した。病院への襲撃や爆撃が後を絶たず、医療関係者や患者が全滅した報告も聞いた。主な脅威は酷い爆傷や熱傷だ。四肢を失う兵や一般獣も多数であり、食料を得られず栄養失調の末餓死する事も珍しく無い。此の様に戦場ならではの死亡方法が数々綴られていた。
「病院では担当する場所を分けてあるから、全体に患者が行き届く様にするわよ。時間の勝負だからね。図に乗せてるから現地で分かれて」
部屋が大きく分けられ、全員が別々になるかと思いきや、紅玉、エヴァン、クルルは一緒になっている。患者が雪崩の様に来るであろう一番大きく手前の部屋だ。看護師もしっかりと配分されていた。偶然にしても、嫌がらせにしか見えないなと顔を顰める。
「確認したかしら。戦場では判断力が命だから、一秒たりとも迷わない様に」
紫水晶がしつこく念を押す。返事をして、雑談を交わす暇もなく外へと向かった。
平にされた大地に細長い鉄の塊が眠っていた。其の輸送機は昔から使われていた物で、竜をモデルにした翼の形をしていた。ロザンデールと英語で綴られた頭を眺めながら塊の中に乗り込むと、天井には黒黒とした鉄の管や赤青の銅線が張り巡らされ、何とも言えぬ不安感が其の場に聳えていた。壁に張り付いた青白の椅子に座り込むと、矢張尻尾が少し沈む。
「ねえ先生。三日月さんとかディアーノさんとどういう関係なんですか? 何があって三日月さんが嫌いになったんですか? 誤魔化さずに言ってください。貴方の周囲は面倒なので話されないと分からないし、沈黙されても困ります」
ボニファーツと言いかけて咳払いする。エヴァンは先刻よりかは柔らかい眼線を投げて、曲がっていた背を正した。
「彼らとは大昔からの親友だった。今でも、ディアーノは文句のつけようが無く素晴らしい友人だ」
仮説の崩壊に驚きを隠せない。離れた席にいる紫水晶が口を押さえて唖然としていた。其の顔で相手を褒める事が出来るのか、とでも言いたげな顔に思わず舌を出したくなる。クルルは鼻を鳴らして、疑惑の眼差しを浴びせた。
「逃げていたのに?」
「素直な麒麟は騙される。あの眼は詐欺師の眼だった」
微かに震えた両手を組み合わせる。夜明けを思わせる桔梗色の滲んだ爪先に惹きつけられた。其の濃淡は皮膜と似ている。クルルが徐々に震えの強まる両手を包み込もうと翳したが、サッと避けられる。また、眼の奥が凍りつくのが見えた。結晶が広がる様に淡くなる表情に誰が気づくだろうか。
「後、三日月を嫌っていると決めつけられても困る。確かに、現在総帥として活躍しているであろう豹は常に皮肉屋で不貞腐れている。然し、子供達に対しては天使だ。必ず天国に連れて行ってあげている。つまり私は彼が大嫌いだ」
凍てついた空気が刺す様に皮膚を舐める。息が白くならないのが不思議で仕方ない。睫毛から全身の毛が音を立てて氷となるのを感じた。粛清されるぞ、俯きながら周囲は耳を立てる。クルルは熱で溶かそうと態とらしく笑った。冷や汗まで静止する、其の恐ろしい風。
「下手なこと言わない方がいいですよ。貴方も天国に連れて行かれます」
口角を無理に上げたまま肩を狭くする。尻尾はだらぁっと垂れて、耳も下がって居た。気を遣われたであろう竜は冷酷にも突き放した。
「どうでもいい。手脚を落とされても言う。私は彼が大嫌いだ。彼の両親が出会う前に遡り、去勢したい程に」
「言い過ぎ」
堂々と座っている斑《まだら》狼が口を挟んだ。周囲の胸を言葉にした様な、救世主としての姿を輝かせている。一方で指摘されたエヴァンは、ただ違和感の無い軍服姿を眺めて淋しさの色を残した。
「君は彼のことを好いているか、嫌いか」
「総帥として好き」
中将として毅然として答える。冷えた空気に熱が混ざり、頭の上から溶けてゆく。安堵で銀が大きく息を吐いた。
「ほう」
低音の、唸り声にも似た相槌を打つ。顎下に片手を添えた。
「具体的に何処が?」
ピシッとパロマの顔にヒビが入る。眸を動かさないまま何度か瞬きをして、手汗を拭って口を開く。長い口吻にしては短く単純な答えが放たれる。
「毛が、青い」
「彼が例え醜い猫に生まれ変わっても好きになれるか?」
疑問に殴られ、到頭パロマは眼を瞑る。冷然とした態度で居て、対抗するべきだと何度も言い聞かせた。然し、どんなに足掻いても心を覗いてみると、嫌悪感が拭えないのだ。
「……命令だ。黙れ」苦々しく吐き捨てた。
「私は部下じゃ無いので命令を聞き入れる筋合いは無い。医者として、強制的に送られている」
「黒瑪瑙先生がもうすぐ泣きます」
銅が口を尖らせた。其の通り、クルルが震えたまま顔を手で覆い隠している。指と指の隙間から静かに様子を窺っていた。そんな麒麟を見た刹那、ピタリと黙り込み無言になる。そして、数時間後に一言の爆弾が投下された。
「容姿は煌びやかなのに中身腐ってるのは二頭共一緒ですね」
熱風と化した冷えの余韻が輸送機内を包んで、他愛無い雑談までもが飛ばされた。「馬鹿!」と捻り潰した叫び声をぶつけて、銅の嘴を押さえようと必死になる。エヴァンは意外にも穏やかに笑っていた。
「だから親友を辞められなくて困っている」
「ええっ、其れは眼から鱗です! いやあ、素敵な悩みですね。もし、私も三日月さんみたいな性格だったら先生と友達になれましたか?」
突拍子も無くクルルが尻尾をばたつかせる。紅玉が草臥れて「何に納得したんだよ」と呟いた。
「遂に右腕じゃ満足出来なくなったか」
細い瞳孔をチラつかせて言う。其処には軽蔑も呆れも無い、疑問に似た呟き声だけが残る。爬虫は感情が読めないという愚痴に紫水晶の尾が動揺する。沈丁花は同情もせずに周囲を怒鳴りつけると、満ちた殺気と嫌悪感に終止符を打った。
「軍獣ならば堂々と言え。文句を垂れるな!」
付け加えてエヴァンにも大概にするよう指摘する。其の刹那、水を打った様な静寂を突き破り破滅音が響き渡る。騒々しいなと思いながら状況を聞くと、既にヨルガンに到着したらしい。下に散らばる街は火の海、誰かの働いていた建物は兵器という塊に粉々にされて、火の粉を撒いて倒れている。煙草から立つ煙とは違う硝煙は、此の輸送機へと向かって伸びていた。蒸せるような黒と赤の世界。黝の波を立てている海を横眼に基地へと離陸する。転ぶ獣、黒い悪魔の様な爆撃機。音が無くても鼓膜に響く泣き声。鼻腔に棲みつく血腥さが、今となっては涙が堪えられなくなる程苦しい。此の飛行により見捨てた命が何千を超えている事は明白だ。其の場に居る全員が死を覚悟して、輸送機から戦場へと足を踏み入れた。煙を吸って乾いた風を頬に浴びながら、待機していた別基地の軍獣が並んで敬礼をする。
「死んでたら許さない」
パロマが周囲を睥睨する。軍医軍獣は強く頷いて、返事をする。それからは互い別々に別れ、一方は軍病院へと足を向かわせた。数分もしない内にL字五階建ての病院が聳えて見え、各部屋へと分かれる。普段白い廊下には青い布が敷かれ、毛の燃え焦げた獣が横たわる地獄絵図が繰り広げられていた。服かと思えば垂れ下がった皮膚であったり、地雷で肉塊になったが尚、痙攣している何かが蠢いている。軽度火傷で煤まみれの鳥竜は精神が崩壊して笑い続けている。屍体と焦げた物体の行列が治療室まで絶え間なく続いている。愕然とする中、エヴァンが一言クルルに向けて発した。
「屍体の使える部位を剥がせ。移植する。壊死した部分は切断しろ。予想していたよりも急所は守れている」
「……わかりました。其処の方、此の死体を運ぶの手伝ってくれませんか!」
黒毛の月輪熊を呼び止める。すると、静かに振り返り、堪えていた物を吐き出すように返事をした。
「はい……先輩」
「えっお前、ペランサ?」
「知り合いですか?」
紅玉が興味深そうに身を乗り出した。三頭は恥ずかしそうに顔を見合わせる。
「医学部の後輩だ。私は治療室の患者からするから二頭でやれ」
エヴァンが硬直している紅玉を連れて部屋へ入る。残された二頭は返事をして次々と屍体を運び始めた。暗闇だからこそ燦然とする希望は太陽の様に動かない。然し手を伸ばしても届かない様にも見えて、患者は気力を失い眼を閉じる。絶望しなければ希望など見出せない筈である。