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春の終わり、香水店「MORI」は静かだった。
定休日。カーテンが半分閉められ、いつもより柔らかい光だけが店内に差し込んでいた。
「大森さん、今日は何するんですか?」
「ん、ちょっとだけ僕のわがまま聞いて」
そう言って、大森は一冊の調香ノートを差し出した。ページを開くと、見慣れた「Ryouka」の処方たちが並ぶ。そして、その最後に未記入の一行。
Ryouka No.8:___________
「…最後の処方名、空白にしてあるんだ。僕が“調香師として”藤澤涼架に贈る、最後の一本。……今日のために、ずっと準備してた」
そう言って彼は小さな白箱を取り出した。その中には、見たことのない香水瓶。
半透明のガラスに金の箔押しで小さく「Ryouka No.8」とだけ刻まれていた。
キャップを外すと優しい香りがふわりと広がった。藤澤が今まで纏ってきた処方たちの記憶が、すべて溶け合っているような香り。
「これ、全部混ざってる?」
「うん。No.1からNo.7までのエッセンスを調香して、そこに“これから”の涼架のイメージを加えた。未来の香り、ってやつ」
藤澤はその香りに、目を細めた。
懐かしくて、新しくて、少しだけ涙が出そうになった。
「名前、つけてもいいですか」
「うん。そのために渡した」
藤澤はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開く。
「“Unfading”にします」
「色褪せない、か….いい名前」
「うん、これからもずっと一緒って意味で。香りが消えても、記憶に残ってるみたいに」
「そっか」
その瞬間だった。
藤澤が香水瓶を手に取ると、瓶の底に「何か」が小さく光った。
「….え?」
「開けてみて」
そっと瓶の底を開くと、そこには小さなリングケースが収められていた。
淡いゴールドの指輪。
内側には小さな文字が彫られている。
「for R -君の香りのそばで」
藤澤は言葉を失っていた。大森は彼の前にひざをつき、静かに笑った。
「涼架を“処方”じゃなくて、“人生”の隣に置いてもいい?」
「…それ、プロポーズですよね」
「うん。香りでも、記憶でもない、“今”の君に言ってる」
藤澤は小さく息を吸って、そして笑った。
「じゃあぼくいいよって意味の香水、作ってきていいですか」
「え、それ逃げじゃん」
「違います。大森さんの隣で香水を作ることがぼくの“未来”です」
大森はしばらく黙って、それから立ち上がり、そっと藤澤を抱きしめた。
「もう香水なんていらないくらい、好きだよ」
「それでも、香水でちゃんと伝えてくださいよ」
「じゃあ今夜の枕元に置いておく」
「大森さんはサンタさんかなにかですか」
ふたりはくすくすと笑った。
「ねえ、涼架」
「え、急に改まってどうしたんですか」
「…朝の香りも、夜の香りも、泣いたときも、笑ったときも、全部涼架に似合う香りを考えて、隣で届け続けたい。
でもそれだけじゃなくて歳を重ねても、もし香りが消えてしまっても、変わらず隣にいて、好きって言い続けたい。
藤澤涼架さん。僕と、結婚してくれませんか。」
指輪は香水瓶の中で小さく、確かに光り続けていた。
この恋は香りから始まった。
でも、香りがなくてもふたりの心には永遠に残る。
これが、ふたりの「処方の終わり」であり「物語のはじまり」だった。
_____________
ありがとうございました。