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優しい風が庭の石畳を撫で
遠くで鳥の囀りが微かに響いていた。
時也はキッチンの作業台に
最後の皿をそっと置くと
隣で静かに控えていた青年に声をかけた。
「エルネストさん
では、庭に運ぶのを
手伝っていただけますか?」
その言葉に
エルネストは僅かに頷いた。
無言のまま立ち上がると
時也から手渡された白磁の皿を受け取り
両手で丁寧に支えた。
皿の上には
ふっくらと握られたおにぎりと
丁寧に切り揃えられた果物
そして涼やかな色の小鉢に入った和え物が
美しく並んでいた。
そのどれもが
慎ましくも心のこもった〝朝〟のかたち。
時也もまた別の皿を手にすると
二人は言葉少なに並んで裏庭へと向かった。
硝子扉を開けると
庭に流れ込む朝の陽光が
彼らの影を柔らかく伸ばす。
その中心──
季節を問わず
まるで時間の常識を拒むかのように咲き誇る
桜の霊樹が、静かに枝を揺らしていた。
その足元には
青龍が敷いた深藍のレジャーシートが一枚
花びらを受けるように広げられている。
繊細なレース模様の縁取り、金糸の刺繍が
朝の光を反射して淡く煌めいていた。
「こちらに並べましょうか」
時也は膝を折り
青龍が整えた位置へと
皿を一つずつ並べていく。
その仕草はまるで
神聖な供物を祭壇に捧げる儀式のようだった
「では
アリアさんとレーファさんを
お連れしてきますので
ここでお待ちくださいね?」
その声に
エルネストは黙って小さく頷いた。
そして桜の根元に咲き誇る花々──
薄紫のクロッカスや
露に濡れたスノードロップに視線を落とした。
その瞳には
鋭さよりも柔らかな静けさが宿っていた。
時也は静かにその場を離れ
屋内へと戻っていく。
廊下を進み、階段を上がりながら
足音ひとつ立てぬよう気を配った。
やがてレーファの部屋の扉の前に立つと
丁寧にノックする。
「レーファさん。
お支度は済みましたか?
朝食の用意が整いましたので
裏庭へご案内いたします」
すると──
「い、今⋯⋯行きます!」
慌てたような足音と共に
扉がぱたんと勢いよく開いた。
現れたレーファは
背丈よりも長い煤竹色の髪を
腕で押さえるようにして
さらに小さく身を縮めながら時也を見上げた
「ご、ごめんなさい⋯⋯
髪が、邪魔で、遅くなってしまって⋯⋯」
彼女の言葉に
時也は腕に抱えていたティアナを
片手で支え直しながら首を傾げる。
「邪魔⋯⋯ですか。
その髪は、伸ばしていらっしゃるのでは?」
その長さは、椅子に座れば床に届くほど。
整えられてこそいないが
手入れされずに放置されたような
印象ではなかった。
それは寧ろ
孤独の年月を静かに物語っているかのようで
レーファは視線を伏せ
少しだけ震える声で答える。
「一人になってから⋯⋯
切ってもらえなくて⋯⋯
人の側に行くことも、避けてた、から⋯⋯
でもでも!毛先だけは、何とか自分で」
時也は
そっと彼女の傍にしゃがみ込んだ。
柔らかな表情で
煤竹色の髪の先に触れると
それは絹糸のように細く繊細だった。
「差し支えなければ⋯⋯
食後に僕が切って差し上げましょうか。
貴女くらいの年頃の方に
気に入っていただける技術があるかは
やや心許ないですが⋯⋯」
彼の声音は
まるで父が娘に語りかけるような
温かな優しさに満ちていた。
レーファは驚いたように目を丸くした後
ぱっと表情を輝かせて
こくり、こくりと何度も頷いた。
彼女の瞳に浮かぶ光は
朝の光よりもずっと澄んでいた。
やがて
時也はティアナを抱えたまま立ち上がり
レーファと共に階下へと降りていった。
階段を下りる彼の足取りは静かで
レーファはその背を追いながら
どこか誇らしげに肩を張っていた。
リビングに戻ると
アリアは変わらぬ無言で
その場に佇んでいた。
桜の花びらを思わせる薄紅のドレスを纏い
瞼の奥に深い静謐を宿している。
時也はそっと
ティアナを抱えていない方の手を差し出す。
手の甲は陽の光に透けるように白く
彼女への敬意がそのまま形となっていた。
「お待たせいたしました、アリアさん。
──では、参りましょうか」
アリアは目を伏せ、ゆっくりと頷いた。
その動作は
言葉よりも確かな返答であった。
⸻
陽光が穏やかに降り注ぐ裏庭には
桜の霊樹から風に舞う花弁が
静かに降り注いでいた。
満開の薄紅が空を彩り
足元の芝に儚い絨毯を織り成す。
その下──
金糸の縁を施された藍色の布の上で
小柄なレーファが膝を揃えて座っていた。
掌の中には、小さなおにぎりが一つ
ふっくらと包まれている。
海苔の巻かれた形は
まるで童話の中の動物のように愛らしく
端にちょこんと刻まれた桜の花型の紅生姜が
ひときわ可憐な彩りを添えていた。
「ご飯が⋯⋯可愛い形になってるの⋯⋯!」
レーファの朽葉金色の瞳がぱっと輝き
口元を両手で覆いながらも
おにぎりを愛おしそうに見つめた。
長い煤竹色の髪が陽を透かし
淡く光を弾いて揺れる。
その様子に
時也は柔らかな笑みを浮かべた。
「ふふ。
僕の故郷での食べ方なんですよ。
これは、手で食べるのが正しい作法なんです」
それはただの懐古ではなかった。
昨夜──
スプーンをすら持ち慣れぬ様子で
戸惑いながらも
懸命に食事を取っていたエルネストの姿を
思い出しての配慮。
手で包んで食べることが許される〝形〟に
ささやかな肯定の意味を込めていた。
エルネストもまた
言葉少なにおにぎりを手に取り
口へと運んでいた。
ふくよかな炊き立ての米が唇に触れた瞬間
ほのかに顔の筋が緩んだように見える。
中に忍ばされた紫蘇味噌の香りが
咀嚼するたびに鼻腔をくすぐり
喉奥へと柔らかな温もりを流し込む。
二人の様子に
時也は隣でポットの蓋を開け
琥珀色の紅茶を
陶磁のティーカップへと注いだ。
カップの縁から立ち上る薔薇と林檎の香りが
ふと風に乗って辺りに広がる。
「どうぞ、アリアさん」
時也の手元から差し出された紅茶を
アリアは無言で受け取った。
深紅の瞳を伏せ
そっと唇をカップに寄せる。
熱にくぐもった香りを含むと
その瞼が微かに震え、わずかに頬が緩む。
続いて、白い指先が
皿の上に置かれたフィナンシェへと伸びる。
外はかすかに香ばしく
中はしっとりとした金色の菓子。
彼女の動作は、飾らず
だがどこまでも上品だった。
その穏やかな空気の中
時也はふと、上空に目をやった。
桜の枝の向こう──
屋敷の二階
寝室の窓が静かに開いていた。
レースのカーテンが風に揺れ
その隙間から
レイチェルが顔を覗かせている。
彼女は既に元気を取り戻しているようで
笑顔を浮かべ
おにぎりを片手にふりふりと手を振っていた
陽を受けて揺れるエメラルドの瞳と
黒髪のコントラストが
まるで春の精のように軽やかだった。
その隣──
窓辺に肘をかけて寄り添うように佇む
ソーレンの姿があった。
まだ目が完全に覚めていないのか
表情に疲労の影が見えたが
レイチェルを見守るその眼差しには
確かな安堵が宿っていた。
目を細めた時也は
軽く手を掲げて彼らに応えた。
風が再び、花びらを巻き上げる。
静かに揺れる桜の下
手で食べるぬくもりと、香る紅茶と、笑顔。
それはまさに〝家族〟の食卓だった。
言葉ではなく、温もりで紡がれる
何よりも確かな絆。
朝の光と共に──
そのひとときは、ゆっくりと流れていった。