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リビングの広さが金持ちであることを窺わせる。
インテリアデザインは快適さが追求されており、豪華ではあるものの決して派手というわけではない。
長方形のテーブルを挟んで設置された、艶やかなソファ達。柔らかさと硬さが両立していることに矛盾を感じずにはいられないが、家具職人の力量に唸るべきだろう。
室内は灰色を基調としていることから、ソファの足や長テーブルの茶色が強調され、色合いに花を添えている。
夕食が済んだことで、今はとても静かだ。メイド達は食器を洗い終えたのか、その姿はここにも台所にも見当たらない。
照明によって昼下がりのように眩いこの部屋で、向かい合って座る二人は父と子だ。
「怪我はしなかったか?」
「はい、大丈夫でした」
ハーロン・エヴィ。父親として、我が子の瞳をじっと見つめながら、久しぶりの帰宅を心底喜んでいる。
ウイルはつい先ほど、ジレット大森林から舞い戻った。一週間近くも家に戻らなかったのだから、親として心配するのは当然だ。
「友達は、出来たか?」
「た、確かに親子の会話っぽいですけど、僕はもう学校には通っていませんから……。その代わり、傭兵として目的は果たせました。多分ですけど」
ウイル・エヴィ。その名の通り、エヴィ家の長男だ。本来ならば、唯一の教育機関でもあるアーカム学校を卒業後、今頃は父の背中から仕事を学んでいるはずだった。
しかし、今は傭兵だ。貴族でありながら魔物と戦える稀有な存在として、知る人ぞ知る異端児として名を馳せている。
「ジレット大森林か……。私も一度くらいは足を運んでみたいものだ。どんなところなんだ?」
「木と虫と動物、それと魔物だらけで、観光スポットみたいなところは特にないですよ。北の湖はちょっとだけ見応えありますけど……」
王国の外は非常に危険だ。傭兵や軍人以外が遠征しようものなら、あっという間に殺されてしまう。護衛をつければ話は別だが、貴族であろうと用事がなければジレット大森林に赴くことはない。
「マリアーヌ段丘、アダラマ森林、バース平原、そしてジレット大森林……か。私の知らない世界をその目で見て歩いているのだから、我が息子ならすごいものだ。よし、お小遣いをやろう。いくら欲しい?」
この提案にウイルは呆れかえる。父の突拍子のない発言はいつものことゆえ、受け流すように状況を伝える。
「今回の遠征でそこそこ稼げたのでいらないです」
「ほう、いくら稼いだんだ?」
「えっと、五十万イールです」
「それはすごいな。トラ狩りというやつか?」
「はい。ジレットタイガーを狩れて傭兵は一人前、みたいなところがあったりします」
ハーロンは茶色の髪を潰すように両手を乗せ、大げさに驚く。息子の働きを心底喜んでおり、この言動は決して演技などではない。
そんな父親を眺めながら、ウイルは心の中で真実を振り返る。
(実際は二百万イールだったけど。フランさんのことを話すのも面倒だし、嘘は言ってないからいいか)
八日間にも及ぶトラ狩りの成果は莫大だった。
倒したジレットタイガーの数は三百五十にも達し、得られた牙の本数はその倍だ。
その結果、平時の三倍価格で買い取ってもらえたことも合わさり、ウイルとフランは二百万イールもの大金を得られてしまった。
今回はギルド会館の窓口を介して金銭の授受を行うも、彼女は金貨の枚数に卒倒し、泡を吹いて倒れてしまう。
居合わせた傭兵の雷魔法を電気ショック代わりに蘇生を試み、見事意識を取り戻すも、話はまだ終わらない。
二人で出かけたのだから、報酬も山分け。エルディアの流儀であり、ウイルもそれに習って二百万イールの半分をフランに手渡した。
慌てふためき恐縮するも、追撃は終わらない。
ウイルはさらに自身の取り分の半分を、寄付という形でフランに譲る。
彼女は当然のように拒絶するも、この少年はわがままだ。一度決めたことは押し通す以上、腕力の差であっさりと押し付けてみせる。
ゆえに、ウイルの手元には五十万イールが残った。
それでもなお十分過ぎるほどの稼ぎゆえ、父親を唸らせることに成功する。
「現地まで一日もかからないのだろう? どんな鍛え方をしたらそんなに速く走れるようになるんだ? 私が真似したら、城下町につく頃にはじん帯が切れてしまいそうだ」
言い終えるや否や、ハーロンは嬉しそうに笑い出す。
鍛錬に励んだ人間でさえ、数十キロメートルを走り切れれば上出来だろう。
一方、傭兵は別格だ。身体能力が根本的に異なるのだから、ウイルが数時間で数百キロメートルを行き来でたとしても作り話ではない。
(お金も去ることながら、フランさんの成長も著しかったな。帰りは自力で走れてたし……。僕が一年くらいかかったことを、たったの一週間で……。さすがに才能ってものを感じずにはいられないと言うか、確かに僕は凡人なのかもな。そうなると、パオラってどこまで強くなれるんだろう?)
旅の目的は金策だけではない。フランを鍛えるためでもあったのだが、その目論見も無事成功した。
回復魔法の使い手がいなかったため、ジレットタイガーと戦わせるような無茶はさせなかったが、帰国の際におんぶではなく彼女自身の足で走ってもらったところ、時間はかかってしまったが完走してみせた。
ありえない成長速度だ。
脚力と体力が、別人のように向上しており、ウイルでさえにわかには信じられなかった。
魔物を倒して強くなる。方針自体は成功したのだから、彼女を妬むのではなく、今は素直に喜べばよい。なんにせよ、ウイルは一仕事を終え、今はリビングのソファに体を委ねている。
そして、思い出したように口を開く。
「あ、そうでした。父様に訊きたいことがあって」
「ん? お小遣いか? いくら欲しい?」
「違います。貧困街について……、ちょっと相談と言いますか、教えて欲しいんです」
「ほう……」
息子の問いかけに対し、ハーロンはドシリと構えるように背筋を正す。話が予想外の方向へ進んだこともあるが、その話題は真面目に向き合う必要があると一瞬で察したためだ。
「あそこの人達を救う手立ては、あるのでしょうか?」
貧困街の浮浪者。つまりは見捨てられて行き場を失った者達なのだが、王国は彼らに対し支援の類を一切実施しない。
放置の理由は、二つ。
彼らをあえて最下層に留めさせることで、王国の民に自分達が一番下ではないと思わせることが出来る。
そして、浮浪者を助けるよりは軍備に備える方が有意義だと考えているためだ。
魔物の脅威は決して消えたくはしない。巨人族を押し返すだけでも軍人をすり減らしてしまうにも関わらず、謎の魔物が現れてしまった以上、武具の増産や軍隊の増員は最優先事項だ。
彼らに構っている余裕などない。これが貴族や四英雄、王族のスタンスと言えよう。
「目標をどこに定めるかで話は変わってくるな。言い換えるなら、何を望むのか、どこまで与えるか……だな」
「確かに……。例えば、衣食住となるとどうでしょうか?」
「それは無理だ。なぜなら、彼らは働こうとすらしていない。そんな者達が人並みの幸せを掴めるほど、この世界は甘くない。厳しい言い方には、なってしまうがな……」
貴族らしい主張だ。義務を果たし、責務を全うすることを生業とする以上、貧困街の人間は落ちるべくして落ちているとしか思えない。眉間にしわを寄せながら、この男はそう考えている。
「やっぱり、働かないことには始まらないのか。仕事をしていれば、みんなの見る目も変わるかもしれないし、収入も得られる」
「ああ。それが出来ないからこその現状なのだろうが……」
「超越者だったら、それこそパオラのような子供だったら、打算以外の何物でもないですけど、引き取り手も見つかるかもしれない……」
「雲を掴むような話になってしまうな」
「そう……ですね。落としどころを見つけないと、この話は前に進まないのか……」
訪れた沈黙は、議論の終わりを意味する。
突破口も解決策も見つからない。そもそも存在しない可能性すらあるのだから、ウイルは天井を見上げ、静かに唸る。
(あそこにいる人達は概ね二種類。気力を失った大人と、捨てられた子供。大人達は働くつもりがないし、子供達は文字の読み書きすらままならないから、働き口なんか見つからない。そもそもの前提として、雇う側だって貧困街のみんなを選ぶ必要がないんだし……)
イダンリネア王国には未就業者が大勢いる。収入が足りているのなら、家族全員が働く必要はなく、子育てに励む者、家事に専念する者、その生き方は多種多様だ。
そういった王国民が控えている以上、教養や品性で劣る浮浪者が選ばれるはずがない。
「彼らに残された選択肢は二つだけだ。現状に甘んじるか、汗水流して働くか」
「だけど、仕事が……」
「真っ当な仕事はそうそう見つからないだろう。だが、裏を返すなら、真っ当ではない仕事ならば選べるはずだ」
「それってどんな……。ま、まさか……」
この瞬間、ウイルは残酷な事実に気づかされる。
正常な人間ならば避ける仕事。
普通の人間には出来ない仕事。
それが何なのか、考えるまでもなかった。
「ああ、傭兵だ。おおよそ現実的ではないが、一人で完結するシンプルな職業なことには違いない。私には想像することすら出来ないが、ウイルだったら傭兵がいかに大変かは骨身に染みているのだろう?」
「え、ええ、もちろんです。僕は運が良かったら生き延びることが出来ましたが、あそこの人達が試験に挑んだところで、全員殺されてしまいます。それはもう絶対に、です。武器の用意が無理ですし、戦い方だってわからない。草原ウサギにすら、勝てるはずがありません。例外は、いません」
当然の帰結だ。
銃を所持していれば話は変わるが、浮浪者は包丁すらも購入出来ず、現状では素手で殴りかかるしかない。
ならば、結果は惨敗だ。相手は可愛らしいウサギではあるものの、野生の動物ではない。れっきとした魔物なのだから、一般人の腕力や脚力では気絶させることすら困難だ。
失敗が許されるのなら、何度でも挑めば良い。
しかし、殺し合いに次はなく、敗者は無残にも命を奪われてしまう。
なんとか逃げ切れるかもしれない。
追い込まれたことで才能を目覚めさせるかもしれない。
残念ながら、そのような人材はほんの一握りだ。ウイルでさえ、エルディアが駆け付けなければ十二歳の若さであっさりと殺されていた。
ギスギスに痩せた浮浪者の中にダイヤの原石が埋もれているとも思えず、暖かなソファに背中を預けながら、少年は再度天井を見上げる。
貧困街の境遇はこのままなのか?
そう思い始めた矢先に、父親が立ち上がりながら語りかける。
「焦る必要もあるまい。一つずつ、もしくは一人ずつでも構わないはず。事業というものはそういうものだ。じゃあ、風呂行ってくる。パオラちゃーん! お父さんと一緒にお風呂入るよー!」
「もうはいたー!」
「そ、そっか……。ぐすっ」
(そこまで落ち込まなくても……。と言うか、パオラの風呂って父様も面倒見てたんだ。今日は母様に先んじられたみたいだけど……)
今にも倒れそうな父親をチラリと眺めた後、ウイルは真正面の長テーブルへ視線を移す。
見飽きた木目だ。ワックスが塗られており、小さな傷なら全く目立たないが、この家の長男よりも長い年月をここで過ごしていることから、触ると多少の擦り傷に気づける。
(みんなに必要なもの……、衣、食、住。倒壊の危険性はあるものの、住む場所には困ってないから、服と食べ物が最優先)
盗むことはご法度だ。最悪の手段であり、当然ながら治維隊に逮捕されてしまう。
(いっそ捕まって、強制労働に従事するってのもアリなのかな? いや、みんなにそんな体力は残っていない。食事は支給されるから、使いたくはないけど切り札として選択肢に残しておくくらいか……)
食事も去ることながら、実は服の類も重要だ。
冷え込む日は厚着でしのぎたい。
一着しか所持していない場合、洗濯すらままならない。
ゆえに、複数枚の衣服が必要なのだが、彼らは捨てられた古着を拾って何年も着続けている。奴隷のような身なりはすっかり彼らの代名詞に成り下がっており、王国民からは奇異の目が向けられてしまっている。
残念ながら、自分達で裁縫することなど不可能だ。
作るための布も糸もなければ、針すらない。
なにより、仮にそれらが揃っていようと知識も技術もないのだから、自己生産は困難だ。
食べ物に関しても同じことが言える。
畑がない。
種がない。
なにより、農作物を育てるノウハウを持ち合わせてはいない。
彼らには時間だけはあるが、それだけだ。
むしろ、その時間が無力さを痛感させるため、浮浪者の多くは二度と立ち上がれない。
(やっぱり、お金が解決してくれる。お金があれば、最低限必要な物は買えるんだし……)
自分達で作れないものも、大通りを少し歩けばすぐに買い揃えることが可能だ。
裁縫を学ぶ必要もない。
畑を耕す必要もない。
金が全てを代行してくれる。
金銭は人間が作り出した発明品であり、これさえあれば、生活必需品が手元に揃う。
しかし、彼らにはその金がない。
一日中歩き回れば、街中で一イールの硬貨を拾えるかもしれない。
それを何十日と続ければ、パンの一つも買えるだろう。
もちろん、その前に死んでしまう。
今はウイルの寄付によって飢え死ぬ者はいなくなったが、この少年に何かが起きた場合、援助はピタリと止まる。
頼れる内に、彼らは自分達で打開策を見つけなければならない。
ウイルもそれをわかっているからこそ、貴族の地位に返り咲いてなお、こうして頭を悩ましている。
(傭兵、確かにありなのかもしれない。一石二鳥なん……、くぅ、僕は……、なんてことを)
この瞬間、少年は歯を食いしばずにはいられなかった。
浮浪者が傭兵になることで、二つの問題が改善される。
お金および彼らの人数だ。
傭兵として魔物を倒せば、金が稼げる。
負けた場合、殺されてしまう。
わずかだが収入が得られる一方、浮浪者の人数は確実に減少するだろう。
その結果、必要なパンの個数も少なくて済む。
淘汰と捉えるか、死刑宣告と考えるか、それは人それぞれだが、ウイルは現実の厳しさに気づかされ、頭を抱えずにはいられなかった。
(エルさんは僕を見捨てなかった。だから僕も、そうしたい。だけどこれって、単なるわがままなのかな? 身の丈に見合ってない、願望でしかないのかな……)
思考を巡らせ過ぎたせいか、ドッと疲れてしまう。
帰宅時に入浴を済ませ、先ほど、豪華な夕食も平らげた。
後は眠るだけ。
今朝、ジレット大森林を出発し、帰国後は黒トラの牙を全て売却した。
運動量としては申し分なく、今晩はぐっすりと眠れるはずだ。自室に戻らずとも、このソファに全身を預ければ、あっという間に安眠が訪れる。
「えほんよんでー!」
「うぐっ⁉ あ、はい……」
その目論見は失敗だ。
風呂上りのパオラが体当たりするようにウイルのまたぐらに忍び込む。
乾ききっていない、瑠璃色の長い髪。
体は普段以上に暖かく、甘い匂いさえ立ち込めている。
ソファに座るウイル。
ウイルにもたれかかるパオラ。
いつも通りの光景だ。
小さな右手は古ぼけた本を所持しており、少年は諦めるように問いかける。
「今日は何を読んで欲しいの?」
「きょちんせんそー」
その瞬間、ウイルは石像のように固まってしまう。言い間違いだとわかってはいても、仰天せずにはいられなかった。
「巨人戦争ね。きょ・じ・ん・せんそう」
「きょじんせんそー」
「そうそう。先週も読んでなかっ……」
パオラの誤りを正せた矢先だった。台所の方から、すなわち後方から、不吉な視線を感じて取る。
少年がゆっくりと振り返ると、メイド姿のシエスタが盗み見るようにこちらを眺めていた。無表情を貫きながらも、なぜかプルプルと震えており、視線が交わったことを受けて口を開く。
「小さいのにきょちん……、ブフッ!」
「誰かー! このメイド解雇してー! メイド服ひん剥いて外に放り出してー!」
「ウイル様にそういう趣味がおありだったとは……。お望みでしたらそのプレイ、お付き合い致します」
「た、助けてー!」
エヴィ家は今日も平和だ。
◆
日中であろうとその部屋は薄暗い。遮光カーテンが外からの陽ざしを遮るためだ。
手入れさえ行き届いていれば、豪邸にふさわしいリビングであったろう。今ではあちこちに埃が堆積しており、そればかりか蜘蛛の巣も一つや二人では済まない。
当然だろう。
この家の主は掃除を指示しない。
残された家長も無頓着だ。
住人はこの二人だけ。従者の類がいないのだから、年月と共に汚れが蓄積してしまう。
例外は中心に陣取るテーブルとソファだけ。
二人にとっての活動範囲ゆえ、座る場所とコップを置く長テーブルだけは拭き掃除が行き届いている。
それら以外は廃墟のようだ。
隅に飾られた壺はひび割れており、床のカーペットもボロボロに傷んでしまっている。
そうであろうと気にも留めない。
彼女らには女神という偶像しか見えておらず、茶会が開ける以上、この部屋にその他の機能を求めたりはしない。
「教祖様、こちらをどうぞ」
非力そうな女の声。その証拠に、コップを運んだその腕はやせ細ってしまっている。
「ありがとう。良い香りですね。これは?」
ソファに腰かけたまま、もう一人の女が鼻をスンと鳴らす。
コップは長テーブルに運ばれ、今はゆらゆらと湯気を舞い上がらせている最中だ。その匂いは茶葉の旨味を存分にまとっており、不気味なリビングに花を添える。
「ガーウィンスティーです。珍しく市場に出回っておりました」
「素敵な香りです。早速、いただくとしましょう」
二人は親子のようにも見えるが、そうではない。
着ている服もフード付きのローブという点では共通だが、片方は血のように赤く、もう片方は染み一つ見当たらない純白。
年の差こそ母親と娘のようだが、実際のところは教祖と信者、それ以上でもそれ以下でもない。ましてや、年配の女は居候でしかないのだが、教祖という立場ゆえか、この家の主と見間違うように振舞っている。
一方、本来の家長は自身の紅茶を用意せず、白いローブの裾を折りながら、向かいのソファへ静かに腰を下ろす。
その容姿は健康的とは言い難い。食事量が足りていないのか、頬はいくらかこけており、首周りも骨が浮き上がっている。
それでもなお、その美しさは失われていない。桃色のロングヘアーは綺麗に整えられており、顔の作りも彫刻像のように妖艶だ。
白いローブが彼女の美貌を引き立てるのか。外を歩けば誰もが振り向く逸材と言えよう。
しかし、この女性は色恋沙汰に興味を示さない。狭まった視野に映る存在は二つだけ。
「女神様と教祖様には心から感謝しております。私に気づきを与えてくださいましたし、こうして暖かな毎日を過ごせております。ですが、いつの時代も暴力で支配され、昨今もそれは変わりません。なぜ……、なぜ暴力は消えないのでしょうか?」
「この国は、この世界は歪んでいます。それでも女神様は我々を決して見捨てたりはしません。信仰には絶対の力が宿ります」
ウルフィエナの創造は女神によって成された。これは王国民であろうとそうでなかろうと、揺るぎない定説だ。疑う者はいないが、一方で創造主に人生を捧げる者は少ない。
そういう意味でも女神教は異端だ。祈るばかりか、その教えを絶対と捉え、人生の指針にさえしている。
神の言葉を啓示という形で受け取り、信者に伝える存在こそが彼女だ。ティーカップを長テーブルに置き、祈るように両手をつなぎ合わせる。
「隠匿された歴史ですが、建国の際、この地を切り開いた存在こそが女神様なのです。考えてもみてください、私達の小さなこの手で山を削ることなど出来ようものですか」
「おっしゃる通りです」
「女神様はこの世界を創造し、我らの住居さえも与えてくださった。ゆえに、ここは安全なのです。神の威光に守られているのですから、軍も傭兵も不要ということになります。むしろ、愚かなその者達が親愛なる隣人を殺し、食してしまうことこそが災いを引き込んでしまいます。なんと、嘆かわしい……」
目尻に小じわを作りながら、白髪の女が呆れるように悲しみ始める。
その仕草は演技のように完璧だ。それゆえに、信者もまた、祈りを捧げずにはいられなかった。
「無力な私にも……、出来ることはあるのでしょうか?」
この問いかけが、赤いローブの女を静かに喜ばせる。口元がわずかに釣り上げ、自身の短い髪をそっと撫でながら、眼前の信者を見つめ返す。
「ええ、もちろんです。あなたの働きは既に十分過ぎるほど……。私をこの家に迎え入れてくださったこと、女神様も大いに喜んでおられますよ」
「と、とんでもございません……」
「その貢献と信仰心は女神教の中でも随一です。ですから今この瞬間をもって、私は教祖としてあなたに……、マリシアに聖女の肩書を与えましょう」
突然の神託に、マリシアと呼ばれた女が目を丸くする。
認めてもらえただけでも十分だった。
女神教の一員として、日々を過ごせていることが幸せだった。
にも関わらず、その次を与えられてしまったのだから、事実をすぐには受け入れられずとも仕方がない。
「聖……女? 私が……?」
「はい。単なる肩書ではありませんよ。女神様が私を通してお言葉を発せられた後に、あなたが信者に……、いえ、全ての人間に伝えるのです。私は単なる代弁者として、そして今日からマリシアが聖女として、女神様の教えを広めなさい。そうすることで、この世界はついに救われます」
驚く信者を眺めながら、教祖が音もなく立ち上がる。
演説するように。
言い聞かせるように。
神の発言を伝えるため、赤いローブ姿の女がその口を器用に動かし続ける。
その効果は絶大だ。マリシアは少女のように涙を流しながらソファからこぼれ落ちると、白いローブが汚れることを気にも留めずにひれ伏す。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
新たな道が提示されたばかりか、世界の救済方法さえも教えられた。
ならば、喜びもひとしおだ。
どれほど感謝してもしきれない。土下座の姿勢で首を垂れるも、それでもなお足りないのか、叫ぶように礼を述べる。
「さぁ、立ち上がりなさい。そして、今日を最後に、二度と涙を流してはなりません」
「は、はい!」
マリシアにとって、眼前の女性は神そのものだ。逆らうという選択肢は鼻からなく、言われた通りに起き上がると、あふれ出た感情をグッと押し留める。
「この国は女神様の声に耳を傾けないばかりか、私達にさえ暴力を振るいます。傭兵への説得さえも実力行使で阻止されてしまいました。かつて、あなたのご両親が軍に捉えられてしまったように……。そうであっても、私とあなただけは諦めてはならないのです。ここまでは、わかっておりますね?」
「はい」
泣いていた女は、もういない。新たな使命に突き動かされた結果、その表情は別人のように力強い。
「女神教は決して間違えることはございません。しかし、この国の現状は別です。正しい人間が捕らえられ、誤った人間が我が物顔で支配している……。ならば、誤りを正すためにも、全ての人間に気づかせる必要があります」
「はい」
リビングは薄暗い。外からの光はその多くが遮られており、灯りも無点灯だ。
それでも、マリシアは眩い光を眺めている。眼前の教祖からあふれ出る威光によるものだが、その光を受けて輝く彼女もまた、祝福を受けた一人と言えよう。
「女神様のお言葉を、全ての人間に」
「はい」
「神を畏れる必要はないのです。人間を恐れる必要もないのです。私は代弁者、あなたは言葉を広める聖なる使者。私達こそが正しいのですから、歩みを止める必要はありません。さぁ、マリシアは何から始めますか?」
突然の問いかけが、一瞬の静寂をもたらすも、彼女は悩んだわけでもなければ、言いあぐねたわけでもない。
呼吸を整えたかった。ただそれだけのことだ。
「女神様の教えを広めるため、王国の人達一人一人に訴えます。そうすることで、少しずつでも理解してもらえると信じております」
「その通りです。さすがはマリシア……。聖女として、存分に尽力するのですよ」
「はい!」
話し合いはほぼほぼ完了だ。
教祖はコップに手を伸ばして暖かな紅茶を口に含むと、補足するように語りだす。
「そうですね、最も愚行を働いている者達から正すとしましょう」
「傭兵のことでしょうか?」
「その通りです。自分達の欲望のためだけに隣人を殺めるその罰、決して見過せないと女神様はおっしゃっております。残念ながら、力づくで止めることは叶わない。女神様は私達に真実を気づかせてはくださいましたが、暴力のための力まではお与えになりませんでした。この意味、あなたならわかりますね?」
「語りかけ、理解させよ、と……」
傭兵と一般人では、身体能力が天と地ほど開いている。大人と子供という次元ではなく、例えるなら魔物と人間か。
仮に女神教の主張が正しいとしても、力づくで彼らを止めることは出来ない。マリシアが信者を率いて押さえつけようと、傭兵なら単身で押し返すことが可能だ。
「毎日続けることが大事なのです。そうすることで、愚かな人間は学び、ついには気づいてくれます。自分達が間違っていたことに、女神教こそが正しいということに。だから、一歩ずつでよいのです。その行いを、女神様は常に見守ってくれます」
「ありがとうございます! 聖女として、必ずや彼らを導いてみせます! 早速、行って参ります」
言い終えるや否や、マリシアは白いローブをはためかせながら、足早にその場を後にする。使命に気づかされ、役目を与えられた以上、居ても立っても居られなかった。
やるべきことは明白だ。
ギルド会館に足を運び、行き来する者達へ教義を訴える。
そうすることで魔物の討伐を阻止出来るばかりか、女神教への参加も促せる。
彼女の足取りは力強く、自分達こそが正しいのだと思い込めている証拠だ。
静けさを取り戻した室内に、カチャリと金属音だけが響く。一人残された女がガーウィンスティーに手を伸ばし、スムーズな動作で口に運んでいる。
「本当に美味しいわね。先におかわりもらえばよかった」
女は満足げだ。
一方で、輸入品でもある紅茶を飲み干してしまい、しょんぼりと肩を落とす。
(あー……、召し使いも兼ねて娘だけは生かしておいたけど、勢いで変なこと言っちゃったな。この家の面倒はどうしよ……?)
ソファに背中と後頭部を預け、口をへの字に曲げるも、天井の染みは答えを教えてはくれない。
マリシアは今日から外出の日々だ。
女神教を広めるため。
傭兵に魔物殺しを止めさせるため。
足しげく、ギルド会館に通うのだろう。
ゆえに、この豪邸には教祖しか残らない。掃除は全く行き届いていないが、明日からはさらに悪化するはずだ。
(王国に忍び込んで、早何年? 千年祭の時だから、えっと……、もう十五年かぁ。気づけば私も四十を超えちゃって、顔や手のしわが誤魔化せなくなっちゃったし……。マリシアのおかげで美味しいご飯を食べられてるから文句は言わないけど、この作戦、本当に成功するのかね~)
女の口から大きなため息が漏れる。一転して前かがみになり、白い短髪をかきむしる。
(このままじゃ、私もおばあちゃんになっちまうよ。だからって、他に手があるとも思えない……。王国の実力は紛れもなく本物だ。そんなことは千年祭の時に痛感させられた。だからこその作戦なんだろうけど、ほんと、気の遠くなるやり方なんだよなぁ。は~、嫌だ嫌だ)
項垂れ、呆れ、途方に暮れる。負の感情をいくつも溜め込みながら、女は赤いローブの内側で足を組む。
(晩御飯、何だろう? というか、何時に帰ってくるのかしら? 門限なんて、教義に組み込んでないし……)
この女の名はトライア。女神教の頂点に収まる、神の代理人だ。
少なくとも、信者達はそう信じている。
信じるからこそ、救われている。
そう思い込みたいだけかもしれないが、心の安寧など、その程度のものなのかもしれない。
神がこの世界を創造した。
確かめる術などないが、誰もが信じて疑わない定説だ。
心の奥底に埋め込まれているのか?
事実ゆえに細胞が覚えているのか?
真実はわからずとも、ウルフィエナの在り様は変わらない。
弱肉強食。
強い者が勝ち、敗者はあっけなく死ぬ。
ならば、騙す方が悪なのか?
騙される方が弱いだけなのか?
答え合わせは、当事者達が行うしかない。