無事会議が終わった。若手を中心に後片付けを完了したところで、誰かが飲みに行こうと言い出す。
隣の部署の同期に誘われたが、みなみは断った。連日の残業で抜けきっていない疲労感と、昨夜の寝不足解消のために、部屋でのんびりと寛ぎたい気分だったのだ。
「ごめんね、今日は帰るわ」
「そっか、分かった。じゃあ、次の機会にね」
同期はあっさりと言って自分の席に戻って行った。
彼女の後ろ姿を見送って、みなみは自分の机に向かう。
隣の席の遼子が何かの資料を眺めていた。ところどころに付箋紙が貼られている。
「遼子さん、お疲れ様です。何か仕事が残っているんですか?私、お手伝いしますよ」
「あ、岡野さん」
顔を上げて、遼子は笑みを浮かべる。
「お疲れ様。大丈夫よ、急ぎじゃないから。今日は久しぶりに残業なしなんだから、もう帰っていいのよ」
みなみは椅子に腰を下ろしながら、遼子に訊ねる。
「遼子さんはまだ帰らないんですか?」
「えぇ、あと少しだけ。私のことは気にしないでいいからね」
「それじゃあ、お言葉に甘えようかな」
みなみはささっと机の上を片づける。
「それでは、お先に失礼します」
「えぇ、お疲れ様。また明日ね。気を付けて帰って」
「はい、ありがとうございます」
彼女に挨拶をしてみなみは廊下に出た。ロッカールームに着いてドアノブに手をかけようとした時、ドアが突然開いた。出てきた誰かと鉢合わせしてしまい、慌てて体を後ろに引く。
「すみません!」
「ごめんね!大丈夫?ぶつからなかった?」
出てきたその人はみなみに気遣う言葉をかけてすぐに、「あらっ」と声を上げた。
「岡野さんじゃない!今帰り?」
「あ、橋本さん?お疲れ様です」
みなみはぺこりと頭を下げた。仕事で直接関わったことはなかったが、彼女は遼子と仲が良く、その関係でみなみのことも何かと可愛がってくれていた。
「さっき聞いたんだけど、この後の飲み会は来ないんだって?宍戸君は来るみたいだけど、行かなくていいの?彼、寂しがるんじゃない?」
からかう口ぶりの彼女に、みなみは呆れ顔を見せた。
「なんですか、それ。宍戸と私はただの同期ですよ」
「え、そうなの?私ってば、二人は付き合ってるんだって思ってたわ」
一体どうしてそういう話になるのかと、みなみはため息をつく。
「笑えない冗談ですよ」
「なんだぁ、私の勘違いというか妄想だったかぁ。でも、そっかぁ。実は密かに応援してたのに、残念」
相手が先輩だということを一瞬忘れそうになったが、みなみは平常心を保つ努力をした。宍戸とは単なる同期であることを改めて強調しようと口を開く前に、橋本が肩をすくめて陽気に言う。
「おっと、いけないいけない。こういうところが旦那に怒られちゃうんだよねぇ。お前は勝手にペラペラ喋りすぎだ、って。あ、そろそろお店に向かわなきゃ。引き留めちゃってごめんね。また明日ね!」
「はぁ……」
まるでつむじ風のように小走りで去って行く橋本を、みなみは呆気に取られながら見送った。気を取り直してロッカールームに入り、帰り支度をする。夕食には何を食べようかと考えながら廊下に出て、エレベーターの乗り場に向かう。
他に待つ人はおらず、到着したエレベーターの中も無人だった。中に乗り込み、扉がゆっくりと閉じ始めるのを眺めていると、肩先から滑り込むようにして乗りこんできた人がいた。それが山中だと知って、みなみは息を飲んだ。
「岡野さん?」
みなみはどぎまぎしながら会釈した。
「お、お疲れ様です」
「今帰り?」
「は、はい……」
どきどきした。表情を隠すように顔を伏せて、みなみは奥の方へと移動した。山中に会えて嬉しかった。しかし狭すぎるエレベーターの中では彼との距離があまりにも近く、息苦しくなるほど緊張する。
「俺といるのは、そんなに緊張する?」
「え、いえっ。そういうことでは……っ」
みなみは慌てて否定した。
「気を使わなくてもいいよ。今朝給湯室で会った時も、岡野さんがものすごく緊張していたことは分かっていたしね」
「あの、違うんです。いえ、確かに緊張はしますが、良くない意味での緊張ではなくてですね……」
「ごめんね。エレベーターが下に着くまで、もう少しだけ我慢してもらえる?」
山中の声に拗ねたような響きが混じる。
「あの、本当にそういうのじゃないんです」
「大丈夫だよ。俺は全然気にしていないから」
みなみは困った。彼の近くにいて緊張するただ一つの理由、すなわち、あなたのことが気になっているからだと言えるものなら言いたい。けれど、エリートの彼と一般社員の私の間にある壁は高く、簡単には言えない。
「ごめん」
山中が突然詫びの言葉を口にした。
「つい意地悪したくなってしまった」
「意地悪、ですか……?」
困惑しているみなみを見て、山中の顔に照れたような表情が浮かんだが、それはあっという間に消えた。
「なんでもない。こっちの話。……ところで今夜の飲み会は行くの?」
「え?いいえ、断りました。えぇっと、補佐は参加されるんですか?」
彼は首を横に振った。
「いや、俺も行かない。誘ってもらったけど、俺はいない方がみんな気楽だろうと思ってね」
「そんなことはないと思いますが……」
「さぁ、どうかな。あ、着いたね」
エレベーターが一階に到着した。
山中は開いた扉を押さえて、先に降りるようみなみを促す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
山中の前を通って外に出た。そのまま立ち去るわけにはいかないだろうと、彼が降りるのを待つ。
「気を遣わなくていいのに」
「いえ、新人の私が補佐より先に帰るわけにはいきませんから」
山中はため息をつく。
「本当に岡野さんは真面目だねぇ。とにかく、行こうか」
みなみは山中の言葉に頷き、長い足で歩を進める彼の後ろを着いて行く。ビルの外に出たところで、このまま彼を見送ろうと頭を下げた。
「今日はお疲れ様でした」
お疲れ様、あるいはさようならと、一般的な別れ際の言葉が返ってくるだろうと思っていた。ところが山中の口から出たのは予想していなかった別の言葉だった。
「この後、約束とかある?」
「え?」
みなみは驚き、思わず山中の顔を凝視した。
彼は頬を指先で軽く掻く仕草をしながら続ける。
「もし何もなければだけど、晩飯に付き合ってくれない?」
彼からの誘いは飛び上がりたくなるほど嬉しかった。しかし、倉庫での一件を問い質す目的で誘っているのだろうかと疑心暗鬼を生じて、返答に迷う。
みなみの躊躇を察して、彼は誘いを撤回する。
「単純に一緒に飯でもって思ったんだけど、やっぱり急には迷惑だったよね。ごめん、今のは忘れて。それじゃあ……」
「迷惑じゃありません」
気づけばみなみは反射的に言っていた。
山中は踏み出しかけていた足を戻して振り返る。
「無理しなくていいんだよ?」
この誘いに頷いたら、彼に対する期待が生まれてしまうのではないかと葛藤が起きていた。しかしみなみはそれをねじ伏せる。
「無理などしていません」
「なら、俺の知ってる店だけど、行ってみる?」
盛大にその音が鳴ったのはみなみが頷くより早かった。
キュルキュルキュル……。
その動作に何の意味もないのに、山中の目から隠すようにみなみは自分のお腹に手を当てた。
山中は笑いを堪えた顔つきで、口元に手を当てる。
「お店、どこでもいい?」
みなみは耳まで熱くなりながら頷く。先ほど生じた疑念が本当のことになったとしても、もう構わないという気持ちになっていた。
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