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若干時間が押したものの、会議は無事閉会となった。
若手を中心にして後片付けを終えたところで、誰かが飲みに行こうと言い出す。
「岡野さんも行こうよ」
隣の部署の同期から誘われたが、私は断った。
「ごめんね、今夜は友達と先約があって」
「そっか、それなら仕方ないね。またの機会に飲もう」
彼女は私が言った理由に納得して、そのまま席に戻って行った。
嘘ついてごめんね――。
彼女の後ろ姿に向かって私は心の中で謝った。
実はこの飲み会には宍戸も参加すると聞いて、行きたくないと思ったのだ。今朝給湯室で会った時に彼の態度に感じた引っかかりは、まだ私の中にあった。それがあるうちは、なんとなく彼と一緒にお酒を飲んだりするのを避けたいような気分だった。
それに。ここ数日の残業続きで抜けきっていない疲労感と昨夜の寝不足解消のためにも、今夜は部屋でのんびりと寛ぎたい気分でもあった。
私は自分の机の上を片づけるため、席に戻った。
遼子さんは資料らしきものを眺めていた。
「お疲れ様でした」
彼女は私の声に振り向き、笑顔を浮かべた。
「お疲れ様。久しぶりに残業なしね」
「はい」
私もにこりと笑顔を返す。恥ずかしさがまだ残ってはいるけれど、昨夜話をしたおかげで、彼女に対してのわだかまりのようなものは、もうない。
「ところで遼子さん、何か作業が残ってるんですか?お手伝いしましょうか」
「大丈夫よ、全然急ぎじゃないから。それより今日はもう、仕事は残っていないんでしょ?帰っていいわよ」
「遼子さんはまだ帰らないんですか?」
「えぇ、あと少しだけね。本当に私のことは気にしないで、先に帰っていいんだからね」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
「はい、お疲れ様でした。また明日ね。気を付けて帰ってね」
「ありがとうございます。お先に失礼します」
私はぺこりと彼女に頭を下げると、廊下に向かって歩き出した。
ロッカールームに着いてドアをノックしようとした時、突然ばたんとドアが開いた。ちょうど誰かが出てきたところで、私は慌てて体を後ろに引く。
「す、すみません!」
「ごめんね!ぶつからなかった?」
出てきたその人も慌てた様子で私に気遣う言葉をかける。が、すぐに「あらっ」と目を見開いた。
「あら、岡野さん」
「橋本さん」
私も目を見開いてその人を見た。
「今お帰りですか。お疲れ様でした」
私は頭を下げた。
仕事で直接関わったことはないのだが、彼女は遼子さんと仲が良い人で、その関係から私のことも何かと可愛がってくれる人だった。
「さっき聞いたんだけど、この後の飲み会は行けないんだって?宍戸君も来るみたいだけど、行かなくていいの?彼、寂しがるんじゃない?」
からかうような口ぶりの彼女に、私は眉をしかめて反応した。
「どうしてそうなるんですか?宍戸と私はただの同期ですよ」
「そうなの?私、二人は付き合ってるんだと思ってたよ。もしくはその前段階とか」
一体どうすればそういう話になるのだろう。私は呆れた口調で言った。
「笑えない冗談はやめてくださいよ」
「私の勘違いというか妄想だったかな。でも、なぁんだ。密かに応援してたんだけどな」
だ、か、ら、その勘違いはいったいどこから?
相手が先輩だということを一瞬忘れそうになったが、なんとか平常心を保ちながら私は訊ねる。
「応援って、何をですか?」
私の目が笑っていないことに気づいたのかどうかは分からないが、彼女は自分でその妄想にブレーキをかけた。
「おっと、いけないいけない。こういうところ、旦那に怒られちゃうんだよね。お前は勝手にペラペラ喋りすぎだ、って。あ、私もそろそろお店に向かわなきゃ。引き留めちゃってごめんね。気を付けて帰るのよ。また明日ね!」
「はい……」
まるでつむじ風のように人を翻弄して去って行くその後ろ姿を、私は呆気に取られて見送った。
彼女は明るくて裏表がなくて豪快で、好きな人ではある。だけどごくたまに、今のように暴走してしまって周りを困惑させることがあるのだ。
それさえなければ、本当の本当にいい人なんだけど……。
しみじみとそう思ったら、深いため息が口をついて出た。
橋本さんが帰った後、ロッカールームにいるのは私だけだった。疲れがさらに加わったような気がして、のろのろと帰り支度をする。
こんな時には実家の晩ご飯が恋しくなるが、一人暮らしの自由さには代え難いと思ったりもする。
「適当にコンビニご飯でいいや」
一人つぶやき、私は廊下に出た。エレベーター前に着いてボタンを押し、階数表示が動くのをぼんやりと眺める。柔らかな音がして扉が開く。誰もいない箱の中に乗り込むと、指を伸ばして「閉」のボタンを押した。
扉がゆっくりと閉じ始めた時、肩から滑り込むようにして乗ってきた人がいた。その人は私に気がつくと、驚いたように言った。
「岡野さん?」
声をかけられて私もまた驚き、うろたえた。
「補佐……。お疲れ様です」
「今帰り?」
「はい……」
胸の奥がトクンと鳴る。私は顔を隠すように会釈して、奥の方へと移動した。
補佐に会えたことはとても嬉しい。けれど、周りと上下をぐるりと囲まれたこの箱の中は給湯室以上に狭く、彼との距離があまりにも近すぎて息苦しくなる。心臓の音だけでなく、息遣いまでもが聞こえてしまいそうで、呼吸ひとつするのにも慎重になる。おまけに、倉庫での一件も緊張感はさらに上乗せされる。私は全身を強張らせて、バッグの持ち手をギュッと握りしめた。
そんな空気が伝わってしまったのか、補佐が苦笑しながら私を見た。
「俺といると、そんなに緊張する?」
「え、いえっ。そういうことでは……」
私は弾かれたように顔を上げて否定した。
「あるよね。今朝給湯室で会った時も、ものすごく緊張していたよね」
そう言って彼は、ますます苦い顔をして笑う。
「違うんです。いえ、確かに緊張しますが、良くない意味での緊張ではなくて……」
「ごめんね。エレベーターが下に着くまで、もう少しだけ我慢してもらえる?」
補佐の声に拗ねたような響きを感じ取り、私は慌てた。
「あの、本当にそういうのではなくて……」
「大丈夫だよ。俺は全然気にしていないから」
私の緊張の理由はただ一つしかない。
あなたのことが気になっているからなんです――。
けれど、それを口にはできない。しかしこのまま誤解されたままなのも嫌だった。
すると補佐が突然、謝った。
「ごめん」
補佐の態度が急変したことに私は戸惑う。
「つい意地悪したくなってしまった」
補佐は目を優しく細めて私を見ていた。
「意地悪……?」
私は目を瞬かせた。
補佐の顔に照れたような表情が浮かんだと思ったが、それはあっという間に消えてしまった。
「なんでもない。こっちの話。……ところでさ」
補佐の口調が変わった。
「今夜の飲み会は行くの?」
「え?あ、いいえ」
話題の変化に乗り切れなくて、私はぼうっとした頭で補佐の顔を見た。
「断りました。えぇっと、補佐は参加されるんですか?」
私の問いに、彼は首を横に振った。
「いや、俺も行かない。誘ってもらったけど、俺はいない方がみんな気楽だろうと思ってね」
「そんなことは……」
ないと思います――。
そう言いかけた言葉を私は飲み込んだ。今夜の飲み会はきっと打ち上げ的な意味がある。そうであれば補佐自身も言っているように、彼のような立場の人はいない方が場は盛り上がるだろうと想像できた。だから私は曖昧な相槌を打つだけにとどめたのだが、それと一緒に会話も止まってしまった。
コミュニケーション能力が高い人だったら上手に話を繋げて、例えば食事に誘ってみるなどするのかもしれない。けれど私には難しい。気の利いた言葉が頭に浮かばないし、せっかくのこの時間を活かす方法を知らない。
そんな自分をもどかしく思っているうちにエレベーターは目的の階に到着し、扉が無慈悲に開く。
補佐は扉を押さえながら、私に先に降りるよう促した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げて、私は補佐の前を横切った。そのまま立ち去ってしまうわけにもいかないと、彼が降りるのをそのまま待った。
「気を遣わなくていいのに」
「いえ、新人の私が補佐より先に帰るわけにはいきませんから」
「本当に岡野さんは真面目だよね」
補佐はため息を交えながら笑う。
「行こうか」
その言葉に頷いた私は、長い足で歩を進める補佐の後ろを数歩離れ着いて行った。
外の空気に触れた瞬間に緊張から解放されたような気分になって、私はようやく全身でほっとした。このままここで補佐を見送ろうと頭を下げる。
「今日はお疲れ様でした」
うん、お疲れ様――。
補佐からそんな言葉が返ってくるだろうと思っていた。ところが彼は言ったのだ。
「この後、約束とかある?」
予想していなかった言葉に驚いて、私は思わず補佐の顔を凝視してしまった。
「え?」
彼は頬を指先で軽く掻くような仕草をして、こう続けた。
「もし何もなければだけど、晩飯に付き合わない?」
「でも……」
その誘いは飛び上がりたくなるほど嬉しいのに、即答できない。
私の困惑を察した彼は、その言葉をすぐに撤回した。
「急に迷惑だったよね。ごめん、今の忘れて」
「いえ、そうじゃないんです」
私は首を大きく横に振った。
「迷惑なのではなくて……」
この誘いに頷いてしまったら、補佐に対して期待が生まれてしまうと不安になった。彼にとっては部下あるいは後輩とのただの食事に過ぎなくても、私にとっては特別な出来事だ。
補佐は私の返事を待っている。
こういう場合、何も考えずに素直に喜びを表した方がきっと可愛いし、相手も嬉しいと思う。頭では分かっているがそういう反応ができない。早く早く、と思っているうちに余計に焦って言葉が出てこなくなる。
だからその音が鳴ったのは、絶妙なタイミングだった。ぐるぐると考えこんでいた私を止めるかのように、それは盛大に鳴った。
キュルキュルキュル――。
私は瞬く間に赤面した。そんなことをしても意味がないのに、補佐の目から隠すように自分のお腹に手を当てる。
恥ずかしすぎるでしょ……。
私の様子に補佐は目を瞬かせたが、笑いたいのを堪えるように口元に手を当てた。
「お店、どこでもいい?」
私は耳まで熱くなりながら、今度こそ素直に頷いた。
補佐が連れて行ってくれたのは、私自身も以前から気になっていた居酒屋だった。
元々は旅館を経営していたという夫妻が諸々の事情でその旅館を畳み、心機一転始めた居酒屋だと聞いたことがある。何と言っても女将が作る料理がおいしいとの評判だった。
店内にはテーブル席が四つと、四人も座ればいっぱいになるカウンター席があった。女性好みの雑貨が飾られた清潔感ある店内の様子に加えて、夫妻が醸し出している雰囲気が好ましい。
「二人なんですが、大丈夫ですか?」
そう訊ねる補佐に、ご主人らしき大柄な男性がにこやかに応じる。
「カウンター席になるけど、いいですか?」
テーブル席はすでに埋まっていたから、私たちに選択の余地がないことは明白だったが、補佐は確認を取るように私を見た。
「大丈夫?」
これからまた移動するのは億劫だと思ったのと、入ってみたかったお店ということもあって、私は即座に頷いた。
補佐はご主人に言った。
「カウンター席で大丈夫です」
それから補佐は私の背にそっと手を触れると、カウンター席までは短い距離だというのに寄り添うようにして歩く。
その行動に、私はドキドキした。けれど、これはいわゆるエスコートなのだと自分を納得させて、うるさい鼓動をなだめようと努めた。
ご主人が私たちに声をかける。
「奥の方から座ってもらっていいですか?」
私は席の手前で足を止めた。この場合は奥の方が上座になるから、そこには補佐が座るべきだと思った。
しかし早速彼は私の考えを察したらしく、笑顔で言う。
「奥へどうぞ」
私は躊躇したが、補佐に再び目で促されて仕方なく腰を下ろした。
「岡野さんにはあっちの席の方が良かったんだろうけど。来る前に確認しておけば良かったね。だけど今夜は急にここで飲みたい気分になってしまってね」
補佐は私の隣に座ると、言い訳めいた口調で言った。
「いえ、ここのお店には前から来てみたいと思っていたので。連れてきて頂いて嬉しいです」
私は強張った笑みを浮かべながら答えた。
嬉しいは嬉しい、それは本当なのだが――。
パーソナルスペースを無視した、近すぎる彼との距離に落ち着かなかった。この狭すぎる間隔は心臓に悪い。椅子は床に固定されていて動かせず、ほんのわずかでも体の向きを変えようとするだけで、隣の補佐に自分の腕や膝がぶつかりそうになってしまう。右側には壁があって、まさかそちらを向いたままというわけにはいかないし、前だけを見続けているわけにもいかない。二人して前を向いたままでいるのはやや窮屈で、どちらかが相手の方に少し体を向けるような姿勢を取らざるを得ない。そもそもこのカウンター席というもの自体、親密な間柄にある人たちのためのものなのではないのか、などと思ってしまう。
今の状況に困惑していた私は、補佐の声が間近で聞こえた時にはますますどきどきした。
「岡野さんは、好き嫌いってある?」
その声は私の耳を優しく撫でた。同時に、言葉を発した時に生まれた彼の息が私の首筋をかすめる。そこからぞくぞくとした感覚が広がって、私はそれに抗うようにこぶしを握りしめながら体をぎゅっと固くした。
「いえ、特には……」
「じゃあ、適当に注文するね。ここはなんでも美味しいんだ」
私の動揺に気づいた様子はない。補佐は慣れた様子で女将さんに注文を伝え終えると、私の前にメニューを広げた。
「何呑む?」
「え、っと」
私はメニューに目を通した。気になる日本酒や焼酎の名前がずらりと並んでいる。気になっていた銘柄のワインもあった。本当ならぜひ味わってみたいところだったが、この状況と自分の体調を考えてノンアルコールドリンクを選んだ。
「では、ウーロン茶を」
「あれ、飲めなかったっけ?」
首を傾げる補佐に、私は曖昧に笑った。
「いえ、明日も仕事ですし……」
そんな私に補佐はにやりと笑う。
「俺も仕事だよ。しかも早出。一杯だけでいいから、つき合ってくれない?一人で飲むのは寂しいから」
そう言って彼は悪戯っぽく笑う。会社ではきっと見られない表情を目の当たりにしてしまって、私はあっけなく前言をひるがえした。
「じゃあ、一杯だけ……」
私はもっとも悪酔いしなさそうなウーロンハイを注文しようとしたが、補佐が悪魔のように囁く。
「このワイン、美味しいんだって」
「っ……」
それは気になっていたワインだった。
私は自分に言い聞かせる。
一杯だけでやめておけば大丈夫――。
誘惑に負けた私はワインを選んでしまった。
それから小一時間ばかり、店にいただろうか。
「そろそろ帰ろうか」
私を促す補佐の声で私は席を立った。
「ありがとうございましたー」
店の主人の声に見送られて、私たちは店の出入り口に向かった。
結局最後まで、心臓はドキドキしっぱなしで緊張感から解放されることはなかった。おかげでほとんどと言っていいほどリラックスできなかったが、嬉しいことには変わりはなく、私はふわふわした気分の中にいた。
しかしそのふわふわは、実際にはただの「気分的なもの」ではなかった。
時間的にそんなに深い時間でもないし、長居をしたわけでもなかったが、私は酔ってしまっていた。今さらではあるが、やっぱりやめておけば良かった。普段であればたかだか1杯のワインで酔うことはない。やっぱりこれは、近頃の疲労の蓄積と寝不足、それに加えて今夜の様々な緊張状態が原因だろう。しかし、そんなことを冷静に分析できているくらいだから、一応はまだ大丈夫だと思う。
顔を上げると、補佐が私を待つかのようにドアの側に立っているのが見えた。焦って彼のもとへ急いだ。うっかり何かにつまずいてしまったのは、ドアまであと一、二歩という所だった。
しまった、転ぶ……。
瞬時にして事態を悟った私は、せめて顔は守りたいとギュッと目を閉じて地面に手を突こうとした。
しかし、間髪入れずに私の体を受け止める腕があった。
「岡野さん!」
慌てた補佐の声が頭上で聞こえて、私は恐る恐る目を開いた。
転んでない……。
床と自分との間に距離があることを確かめて安堵した。しかしすぐに、混乱とともに疑問が浮かぶ。
どうして?
続いて自分の姿を確かめようとして、胸の下の辺りに私の体を支えるがっしりとした腕を認めた。
補佐の腕?
動揺した私はあっという間に酔いが醒めた。
「す、すいません!」
私はもがくようにしながら彼の腕から身を離して、深々と頭を下げた。ドッドッドッと、これまでに感じたことのない重たげな音が心臓の辺りで響いている。
「失礼しました。すみませんっ」
頬が熱すぎるくらい熱い。きっと今の私の顔は、うす暗い街灯の下でも分かる程に、茹で上がったタコのように真っ赤な色をしていることだろう。
何度も謝る私に、補佐は冗談めかして言った。
「役得、ってやつだね」
さらに付け加える。
「こういう時は、ありがとうって言われた方が嬉しいかな」
「す、すみません…」
思わず謝る私に、彼は先の言葉を促すように笑いかける。
その表情に見惚れそうになりながら、私は頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「どういたしまして。とりあえず、外に出ようか」
補佐は私を気遣うのが分かる歩調で歩き出す。
その後を追いながら、私は補佐の腕の感触を思い出していた。鼻先に残る補佐の香りが私の心をかき乱していた。