通りに出たところで、補佐は足を止めた。
「お酒、無理に勧めてしまったのかな。申し訳ない……」
謝る補佐に、私は慌てた。
「飲んだのは自分の意志ですから。補佐のせいではないので気になさらないで下さい」
しかし補佐は申し訳なさそうな表情を崩さない。
「でも、やっぱりごめん。タクシーを拾うから、せめて家まで送らせて」
「いえ、そんな……」
私は遠慮の意思を示した。鼓動はまだ収まっていないのに、この上また狭い空間で隣り合って座ることになったら、これ以上は心臓がもたないのではないかと心配になった。
「お時間を取らせてしまうのは申し訳ありませんし、私なら本当に、もう大丈夫ですので」
しかし補佐は私の言葉を遮る。
「『俺が』心配なんだよ。一人で帰して何かあったら大変だろ?だから、ここは素直に頷いてほしい」
補佐はやや身をかがめて、私の目を覗き込んだ。
彼の言葉と声が私の耳を甘ったるくくすぐった。一瞬麻痺したように頭の中が真っ白になったが、すぐに冷静さを取り戻す。
――これは親切心からの申し出なのだ。自分に都合のいいような展開を期待してはいけない。それ以前に、こんな地方都市の片隅で何かなんて起こるわけがないんだから。
自分にそう言い聞かせて、私はなおも告げようとした。
本当に大丈夫ですから――。
ところがそれよりも先に補佐が口を開く。
「あの時も、こんな感じのやりとりをしたよね」
彼はくすっと思い出し笑いをする。
「あ……」
会話の流れが変わったことで、私は出かかっていた言葉を飲み込んだ。
「そういえば、そうでしたね…」
相槌を打って答えながら、私は微妙な気持ちをにじませながら微笑んだ。
初めて補佐に会うことになった懇親会の夜、結局は一緒のタクシーで帰ることになった私たち。不調を訴える彼を、私はやむを得ず部屋へ上げることになった。そして、あの日聞いてしまうことになった彼の寝言は、あれからずっと私の中にいつまでも抜けない棘のように残っている。その感情の名前を、今の私はもう知っている。これは「嫉妬」だ。
私がそんな黒い感情を抱いていることを補佐はきっと知らない。できれば知られたくはない――。
強くそう思う私の前で、補佐はその時のことを悔やむように言った。
「あの日君を送るつもりでいた俺の方が、岡野さんに迷惑をかけてしまったんだったな」
私はおずおずと訊ねた。
「もしかして、まだ気にされているのですか?」
あの一件についてはもう「終わり」にしてくれて構わないのに、と思う。その翌日すぐに私を訪ねてきた補佐は、お詫びとして十分すぎる礼を示してくれたのだから。
「私は迷惑だったなんて思っていませんでしたし、だからもう本当に気になさらないで下さい」
「ありがとう。でも、自分の失態が許せないというか、忘れたくてもなかなかできなくてね。あんなことは本当に初めてだったんだ。でも安心して、今日は大丈夫。これからも気を付けるから」
「これからも……?」
最後の方にひと言が気になった。そこに深い意味はないと分かっていたが、補佐の言葉に私の心が揺れる。
「そう、これからもね」
まるで念を押すかのように、補佐はそのひと言を繰り返した。ほんの少しの茶目っ気を含ませながら。しかし、私から視線を外すとためらうように続けた。
「だけど岡野さんは、俺といるのはやっぱり緊張する?」
そう問いかけられて、私は補佐の顔を見返した。
少しだけ答えに迷ったものの、結局私は正直に答えた。
「緊張します」
補佐は苦笑いを浮かべた。
「即答なんだ」
そのまま気まずい雰囲気になりたくなくて、私は急いで言葉を探す。
「でもそれはたぶん、私自身の問題なんです」
本当の理由――彼に心を寄せていることは言えない。私はこうも付け加えた。
「補佐と私とでは立場が全然違いますから……」
「立場?」
「補佐はエリートで、将来の役員候補なんですよね?私はこの前入社したばかりの新人です。本当なら、そんな方とこんな風にご一緒できるような立場ではないという意味です」
補佐の顔に苦笑が広がった。
「岡野さんは、俺のことを買い被りすぎてるよ」
その声に不満そうな響きを感じ、私はうつむいた。
「買い被りではありません。補佐のお仕事ぶりは社の誰もが認めていますし、取引先の方々からの信頼も篤い。社長や他の役員の方々と一緒に行動されることも多いと聞きます。そういう話を聞く度に、私とは別次元の方なんだと改めて思うんです。だから、緊張しない方がおかしいんです」
「それなら、初めて食事した時も?今みたいに緊張していた?」
「はい」
私は頷いた。けれど本当は、あの日の緊張の種類はちょっと違っていたと思う。なぜならあの時はまだ、補佐のことは「気になっている」程度で、「恋心」は生まれていなかったから。
補佐は大きなため息をつく。
「俺は普通のサラリーマンで、仕事するくらいしか能のないつまらない人間なんだけどね」
「そんなことありません。補佐が普通だったら、私はそれ以下ということになってしまいます。それに私は、補佐と一緒にいてつまらないなんて思ったことはありません。それどころか楽しくて……」
「それなら……もう少し気楽に接してくれたら嬉しいんだけどな」
「気楽に、ですか……」
「そう。難しいかな?」
難しい――そう答えようと思った。けれど、私の返事を待つ補佐の顔を見たら、ここは頷いた方いいと思ってしまった。
「……努力は、してみます」
補佐が嬉しそうに笑う。
「うん、よろしく。会社の中で自然に話せるのは岡野さんくらいなんだ。だから正直に言うと、岡野さんが俺に対して壁を作っているようなところ、少し寂しく感じてる」
「えっ……」
私はどきりととした。補佐の言葉の一つ一つが私の心を揺さぶる。今の「寂しい」の意味も、その真意を知りたくなってしまう。
「酔っていらっしゃいますよね」
私は決めつけた。そうした方がきっと、いい。その方が傷は浅くて済むはずだから。
「そうかもしれないね」
補佐は素直にそれを認めて小さく笑った。
「でも、この前みたいなことにはならないから大丈夫。でも、どうしてだろうな。自分でも不思議なくらい、君といる時は気が緩んでしまう」
それを聞いて、私の鼓動は再び早くなる。
「補佐はどうして……」
私を翻弄するようなことばかり言うのですか――。
直接彼にそうぶつけたくなるのを、私は飲み込んだ。
このままずっと補佐と一緒にいたら、勘違いを起こしてしまう。そうなる前に、もう帰った方がいい。
「補佐、帰りましょう。タクシーを拾います」
私は補佐の返事を待たずに、通りを流して走るタクシーをつかまえようとした。
「岡野さん、待って!」
補佐の声に反射的に振り向いた時、彼の手が私の手首をとらえた。
予想外だったその行動に驚いて、私はその場に固まった。掴まれた手首から彼の体温が伝わってきて、どきりとする。力強い彼の手を自力で解くことができない。私は戸惑いながら、補佐を見上げた。
そんな私の視線に気がついて、彼ははっとした様子を見せた。慌てて私の手を離し、動揺が見て取れる両の瞳を揺らしながら、彼は謝罪の言葉を口にした。
「いきなりごめん……。大丈夫?痛かったよね。すまない」
「いえ、痛くはありませんが、驚いてしまって……」
私は彼に掴まれていた自分の手首を、もう片方の手でそっと覆った。
これまでの短い間、補佐のことを直接知る機会は数えるほどしかなかった。そんな中私の目に映る彼は、いつだってスマートで颯爽としていて、穏やかだけど冷静な表情と態度を崩さない人だった。だからまるで真逆のような、熱を感じる行動はとても意外に思えた。
私はおずおずと訊ねた。
「どうか、されたのですか?」
補佐はためらうような表情を浮かべたが、すぐに穏やかな顔に戻って言った。
「もう少しだけ、つき合ってくれないか」
「え?」
聞き間違えかと瞬きする私に、補佐はもう一度ゆっくりと言った。
「俺の酔い覚ましに、つき合ってもらえないかな」
「酔い覚まし、ですか……?」
戸惑いながらもその誘いを嬉しく思った。けれどすぐには頷けない。
少しでも長く彼と一緒にいたいと思っているのは本当だ。しかしこれ以上傍にいたら、より強く彼に惹かれてしまうことが予想できて怖かった。
私の沈黙を、補佐は「否」と解釈したようだった。不自然さを感じる明るい声で短く言う。
「忘れて」
「いえ、あの……」
「帰ろうか」
補佐は通りに目を向けた。
彼の横顔が目に入った瞬間、私は弾かれたように顔を上げ、そして言ってしまった。
「私で良ければ、お付き合いします」
「えっ?」
驚く補佐に私は重ねて言った。本当は彼の傍にいたいだけという本心を隠して。
「心配なので……。ご自分では自覚がないようですが、今夜の補佐も酔っていらっしゃいますから」
「本当に、この前ほど飲んでいないんだよ」
「いいえ」
と、私は強い口調で返した。
「確かにこの前ほどの量ではないと思いますが、絶対に酔っていらっしゃいます。そうでなかったら……」
私をあんな風に引き留めたりはしないと思う。表情を揺らす私に彼は訊ねた。
「そうでなかったら、何?」
「なんでもありません」
私は彼の視線から逃げた。
補佐の顔に怪訝な表情が浮かんだが、それ以上追及しようとは思わなかったらしい。彼は私を促した。
「近くに公園があったはずだから、そこまで行こう」
「はい」
私は補佐の後を追った。
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