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店から離れて通りに出たところで、山中が足を止めて振り返った。申し訳なさそうに詫びの言葉を口にする。
「お酒、無理に勧めてしまったかな。申し訳ない」
先程みなみがつまずいたのは、そのせいだと思っているようだ。
「いえっ、補佐のせいじゃありません。飲んだのは自分の意志ですから」
みなみは慌てて彼の誤解を解こうとした。
「いや、でも、やっぱり悪かった。せめて家まで送らせて」
「自分で帰れますので、お気遣いなく」
山中は身をかがめて、遠慮の意思を示すみなみの顔をのぞき込む。
「一人で帰すのは心配なんだ」
その言葉はみなみの耳に甘ったるく聞こえ、自分に都合のいいように解釈しそうになった。しかしそれは親切心からの申し出なのだからと、すぐに冷静さを取り戻す。
「本当に大丈夫です」
控え目ながらも頑なに断るみなみに、山中はくすっと思い出し笑いをする。
「あの時も、こんな感じのやりとりをしたな」
「あの時、ですか?」
「ほら、歓迎会の帰りにさ」
言われてみなみはその時のことを思い出した。歓迎会帰りのその夜、一台のタクシーを前にして、山中と今のようなやり取りをした。最終的には一緒にタクシーに乗ることになったわけだが、その後不調を訴える彼を自分の部屋で休ませることになったのだった。
「あの日君を送るつもりだった俺の方が、岡野さんに迷惑をかけてしまったんだよね」
翌日になって訪ねてきた山中から十分すぎる礼を受け取ったことで、その日のことはみなみの中では完結していたが、彼の方は未だに失態を犯してしまったと悔やんでいる様子だ。
「私は迷惑だなんて思っていませんでしたし、もう気になさらないで下さい」
「ありがとう。でも、その日会ったばかりの君にみっともないところを見せてしまって、まったく恥ずかしくてさ。これからは気を付けるよ」
「これから……?」
みなみは困惑し、その言葉をどう解釈すべきか迷った。いつかまた、今夜のような時間を持てるかもしれないという意味かと、期待に心が揺れそうになる。
「また機会があったら一緒に晩飯でも、と思ってね。あぁでも、俺と一緒にいると緊張するんだっけ?」
苦笑する山中にみなみは正直に答える。
「緊張します」
「あはは、即答か」
乾いた声で山中は笑う。
本当の理由、つまり、彼に心を寄せていることを口にできないみなみは、こう続ける。
「補佐と私とでは立場が全然違うので、緊張するのは仕方ありません」
「立場?」
「補佐は将来の役員候補だそうですね。私はこの前入社したばかりの新人です。本当なら、そんな方とこんな風に一緒に過ごせる立場ではないという意味です」
「岡野さんは、俺のことを買い被りすぎてる」
山中の口からため息がこぼれた。
みなみは首を横に振る。
「買い被りではありません。補佐のお仕事ぶりは社の誰もが認めていますし、取引先の方々からの信頼も篤い。社長や他の役員の方々と一緒に行動されることも多いと聞きます。そういう話を聞く度に、私とは別次元の方なんだと改めて思うんです。だから、緊張しない方がおかしいんです」
「それなら、初めて食事した時も?今みたいに緊張していた?」
「はい」
みなみは即座に頷いた。とは言え、あの日の緊張の種類は現在のものとは違う。なぜならあの時はまだ、山中に対する「恋心」がみなみの心に生まれていなかった。
「俺は普通のサラリーマンで、仕事するくらいしか能のないつまらない人間だよ」
「そんなことありません。補佐が普通だったら、私はそれ以下ということになってしまいます。それに、私は補佐と一緒にいて、緊張こそすれ、つまらないなどと思ったことはありません。それどころか色々なお話を聞けて楽しいですし……」
「それならもう少し気楽に接してくれたら嬉しいんだけど」
「気楽に、ですか」
「そんなに難しいかな?」
「一応努力はしてみます」
「ぜひよろしく。今の会社の中で、俺が自然体でいられるのは岡野さんの前くらいなんだ。だからね、君が俺に対して壁を作っているようなところ、実は寂しく感じてる」
「えっ」
どきりとして山中の顔を見上げた。彼が言った「寂しい」の言葉に心が揺さぶられ、その真意を知りたくなる。しかしきっと酔いに任せて口が滑っただけだろうと、その言葉に期待しそうになった自分に苦笑する。
「酔っていらっしゃいますよね」
「そうなのかもしれないね。どうしてだろうな。自分でも不思議なくらい、君といる時は気が緩む」
彼の言葉にみなみの鼓動が早まる。
『どうして私を翻弄するようなことばかり言うのですか――』
喉元まで出かかった台詞をみなみは飲み込んだ。このまま彼といては勘違いを起こしてしまうと警戒する。早く別れなければと焦った。
「タクシーを拾いますね」
山中に声をかけて、みなみは大通りに目をやった。見つけたタクシーに手を挙げかけたところを、山中に手首をつかまれた。
「待って、岡野さん」
彼の行動が予想外でみなみは驚く。彼の手は力強く、自力で解くことができない。
困惑顔のみなみの視線に気がついて、彼は慌てて手を離した。双眸に動揺の色を揺らして詫びる。
「いきなりごめん。大丈夫?手荒に掴んだりして申し訳ない」
「えぇと、大丈夫です。びっくりしましたけど……」
みなみの目に映る今までの山中は、いつだってスマートで颯爽としていて、穏やかだが冷静な表情と態度を崩さない人だった。そんな彼の、熱を感じる今の行動は意外だった。
山中は穏やかな口調で言う。
「もう少しだけ、つき合ってくれないか」
聞き間違えたのかと、みなみは目を瞬いた。
「俺の酔い覚ましに、つき合ってもらえないかな」
「酔い覚まし、ですか……?」
戸惑いつつも、みなみはその誘いを嬉しく思った。まだ彼の傍にいてもいいのだと喜ぶ本心を隠しながら、みなみはおずおずと答える。
「私で良ければ、お付き合いしますが」
「いいの?」
言い出したのは自分のくせに、山中は驚いた顔をしている。
それが可笑しくて、みなみの口からはくすっと笑みがこぼれた。
「はい。だって、ご自分では自覚されていないようですが、酔っていらっしゃるようなので心配ですから」
山中は顔をくしゃっと歪めて苦笑する。
「この前ほどは飲んでいないんだよ」
「いいえ」
みなみは強い口調で返す。
「確かにこの前ほどの量ではないと思いますが、絶対に酔っていらっしゃいます。だって、そうでもなかったら……」
私を引き留めたりはしないはずだとみなみは表情を揺らす。
言葉を飲み込んだみなみに山中は訊ねる。
「そうでなかったら、何?」
「なんでもありません」
みなみは山中から視線を逸らした。
彼は怪訝な表情を浮かべたがそれ以上は追及しようとせずに、みなみを促す。
「近くに公園があったはずだ。そこに行こうか」
みなみはこくりと頷き、彼の後を追った。