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空が裂けた。
ひび割れた赤月の向こうから、暗い闇の奔流が世界へと溢れ出す。
その中心に――“それ”はいた。
影喰らいの獣《シャドウイーター》。
夜の王が恐れ、千年前の吸血種たちが総力を挙げて封じた、夜そのものを喰う古代の災厄。
世界が揺れた。
地面に広がる影がざわめき、崩れた城壁の破片が宙に浮き上がる。
リリスはカイラスに抱きとめられたまま、その巨大な影の姿を見つめた。
獣の体は輪郭が定まらず、常に揺れ、渦を巻き、形を変え続けている。
黒い霧の奥で、巨大な瞳だけが赤い光を宿していた。
その瞳が――リリスを見つめる。
呼吸が止まった。
(……呼んでる……?)
耳の奥で、誰かが囁いたような気がした。
――“来い”――
「…………ッ」
身体が勝手に前へ動きそうになり、リリスは震えた。
その瞬間、カイラスが強く腕を回す。
「リリス、離れるな」
「カイラス……あれ……何か……私の中に……」
「感じろ。おまえの血は“鍵”だ。あいつが目覚めたのも、おまえの力のせいじゃない」
カイラスはリリスの額に触れ、視線を鋭く獣に向けた。
「だが、おまえがいるからこそ――封じることもできるはずだ」
その言葉と同時に、影喰らいが咆哮した。
音ではない。
空気を裂き、魂を震わせる“衝撃”だった。
都全体が震え、吸血種たちが悲鳴を上げる。
宴の余韻は完全に吹き飛んだ。
祝祭は終わり、代わりに“永夜の終わり”が始まった。
獣の影が都へ落ちてくる。
黒い波のように押し寄せ、建物を呑み込み、街灯を折り曲げ、人影を覆い隠していく。
「来るぞ――離れろ、リリス!」
カイラスはリリスの手を強く引き、影の波を跳び越える。
しかし、その影は地面に接した瞬間、別の“口”となって二人を噛み砕こうと迫ってきた。
「クソッ……!」
カイラスは牙を剥き、影の口へ飛び込むように拳を叩き込む。
衝撃で影が霧散するが、すぐに別の影が再構築される。
影喰らいは“形”を持たない。
破壊すれば分裂し、斬れば増える。
それは、まるで世界から“夜”だけを切り取って生まれた怪物。
「カイラス! どうすれば……!」
「まだだ……まだリリスが全部の力を使ってない」
その言葉に、リリスの咬痕が赤く光った。
あの日、カイラスに噛まれた跡。
運命を刻み、血で結びついた証。
その咬痕が、獣の怒りに呼応するように熱を帯びる。
「ねぇ……カイラス。影喰らいは……私を狙ってる。どうして?」
「たぶん――おまえの血が“完全じゃない”からだ」
「……完全じゃない?」
「血誓はまだ途中だ。王の影を倒し、契約を深めても……おまえの力はまだ“未開”。本当の赤の巫女になっていない」
影喰らいが再び咆哮する。
建物が一斉に崩れ落ちる。
リリスの身体が震えた。
「じゃあ……私が“完全”になったら……?」
「影喰らいは必ず倒せる」
カイラスは迷いのない目で言った。
「だけど――同時に、おまえの身体はもう人じゃなくなる」
リリスは唇を噛んだ。
人間か。
吸血種か。
それとも、もっと別の存在か。
選ばなければならない。
影喰らいの影が波となり、二人へ迫る。
避け続ける戦いは限界に近い。
リリスは息を整え、決意を固めた。
「カイラス……もう一度……私に噛んで」
カイラスの目が大きく開く。
「リリス……それは……!」
「あなたの血で、私の血を“完全”にして。そうしなきゃ、あれは倒せない」
咬痕が赤く燃える。
二人の血が共鳴し、激しく疼く。
「でも……」
カイラスは苦しげに言葉を漏らす。
「一度の咬み痕なら、ただの契約の証。二度目は――完全な“血誓”になる。おまえの魂は俺のものになる」
「いいよ」
リリスは迷いなく言った。
「もう……あなたなしじゃ、息もできない」
その言葉は、影喰らいの咆哮よりも強烈に、
カイラスの心臓を揺らした。
獣の影が再び迫る。
カイラスはリリスを抱き寄せ、耳元で低く囁いた。
「……本当にいいんだな?」
「うん……カイラスに喰われたい」
その瞬間、彼の瞳から理性の光が消えた。
吸血種の王の牙が現れ、リリスの咬痕へ――深く、ゆっくりと沈んだ。
「――ッ!!」
熱い疼痛が走り、全身が痺れる。
血が混じり、世界が赤と黒の光に弾けた。
影喰らいが苦しげに咆哮する。
空が裂け、赤い光が二人を包んだ。
痛みはすぐに快楽へ変わり、快楽は力へ変わる。
リリスの身体が光に包まれ、肌に赤い紋様が浮かび上がる。
その紋様は、まるで赤い月の裂け目が彼女の中に刻まれたようだった。
リリスが静かに目を開ける。
瞳は――完全に“赤”だった。
カイラスが息を呑む。
「……リリス……」
「大丈夫。あなたの血が……私を“完成”させた」
影喰らいが怯えたように一歩退く。
その反応に、都の吸血種たちがざわついた。
「赤の巫女が……完全に目覚めた……?」
「予言が……現実に……!」
「影喰らいすら恐れる存在……!」
リリスは影喰らいへ歩みだした。
影が彼女に襲いかかるが、近づく前に赤い光が弾き返す。
まるで彼女自身が“闇を焼く炎”になったかのようだった。
リリスは影喰らいの巨大な瞳を見つめた。
「……私を探してたんだね」
獣の影が震える。
――“おまえの血を喰らえば、夜を支配できる”
――“世界を闇で満たせる”
声なき声が、直接脳へ響く。
リリスは静かに首を横へ振った。
「私の血は……カイラスのためにある。あなたにはあげない」
影喰らいが怒号をあげて飛びかかる。
世界が黒く染まり、空間が歪む。
だが、その瞬間――。
「リリス! 行くぞ!!」
カイラスが飛び込み、リリスの手を掴む。
二人の血が共鳴し、赤黒い光が爆ぜた。
影喰らいの体が貫かれ、断末魔が世界中に響き渡る。
リリスは腕を振り、赤い刃を生み出した。
それを影喰らいの中心――“核”へ向けて放つ。
「カイラスと生きる未来を……奪わせない!!」
刃が影喰らいの胸に突き刺さる。
世界が赤と黒に染まり、獣の形が崩れ始めた。
獣の身体が黒い霧となり、夜空へ昇っていく。
赤月の裂け目が閉じ、空が静かに戻っていった。
都に――本当の静寂が訪れた。
リリスは膝から崩れ落ちそうになる。
カイラスが支え、そっと抱き寄せた。
「よくやった……リリス。おまえの血が、この世界を救った」
「ううん……カイラスがいたから……私……」
リリスの瞳が揺れる。
彼女の内側ではまだ、残った力が渦巻いていた。
「ねぇ……カイラス」
「なんだ?」
「私、もう……完全に吸血種になったの?」
カイラスは少しだけ困った顔で微笑んだ。
「いや……違う」
「え……?」
「おまえは“吸血種を超えた存在”だ」
リリスの手を包み、彼ははっきりと告げる。
「おまえは――“永夜の巫女”。俺と、この世界と、未来を繋ぐ唯一の鍵だ」
リリスの胸が高鳴る。
その時、老吸血種が膝をつき、深く頭を下げた。
「新しき夜の王よ……そして、赤の巫女よ。影喰らいの封印は成功しましたが……」
「……まだ何かあるのか?」
カイラスが問い返す。
老吸血種は震える声で告げた。
「影喰らいは――“三つの影”の一つにすぎませぬ」
リリスの背筋が凍る。
老吸血種は続けた。
「残る二つが……もう間もなく……目覚めましょう」
風が吹き、赤月が再び震えた。
カイラスはリリスへ視線を向ける。
「リリス……まだ、終わりじゃないらしい」
リリスはカイラスの手を強く握った。
「うん……一緒に戦おう」
二人の咬痕が赤く輝いた。
その光は、夜空のどんな星よりも強く――二人の未来を照らしていた。