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影喰らいが消滅した夜。
世界は静かに震えていた。
黒い霧は晴れ、赤月は裂け目を閉じ、
都の上には久しぶりに“ただの夜空”が浮かんでいる。
だが、誰も安心してはいなかった。
影喰らいの断末魔が夜空に焼きつけた一言――
“……二つ、残る……”
その呪いのような囁きが、
吸血種たちの心から眠りを奪っていた。
カイラスは廃墟となった審議の塔から都を見下ろし、
横で息を整えるリリスへ視線を向ける。
赤の紋様は消えつつあるが、胸の奥に眠る力は、
依然として熱を放っている。
「……疲れてるか、リリス」
カイラスが優しい声で問うと、
リリスは首を横に振った。
「ううん……まだ大丈夫。でも……カイラスの方こそ」
カイラスは軽く笑って肩を竦める。
「吸血種は疲れない。おまえの“完全な血”のおかげで、今はむしろ力が満ちてる」
その言葉に、リリスは胸の奥が温かくなるのを感じた。
カイラスは近寄り、彼女の首筋を指先でなぞる。
新たな咬み痕――
第二の咬痕は、赤黒く美しい紋のように浮かびあがっている。
触れられるたび、身体の奥で甘い衝撃が弾ける。
「……そんな顔をするな。噛みたくなる」
「……っ、カイラス……」
リリスの瞳が揺れ、身体がわずかに震える。
それは恐怖ではなく、吸血種との契約が深まるほどに感じるようになる“渇き”だった。
カイラスは喉を震わせ、首元に顔を寄せかけ――
「……だが、今は後回しだ」
彼は息を整え、距離を取った。
「影喰らいを倒した今だからこそ……第二の影が動く。準備が整う前に、動いてくるはずだ」
その言葉が終わるより早く――
地面が震えた。
都の外れ、古い地下水脈の方向から、
不穏な黒い霧が噴き上がった。
リリスが足を止める。
「また……影喰らい……?」
「違う。あれは……もっと低くて、重い気配だ」
カイラスは目を細め、霧を見つめる。
「影喰らいは“夜そのものの化身”。だが、第二の影は――」
ゴゴゴゴゴ……ッ
大地が低く唸り、塔の破片がカタカタと揺れる。
「――“深淵の怨霊”だ」
リリスの心臓が跳ねた。
霧の中から、
巨大な“腕”のような影が伸び出す。
腕と言っても、形は人のそれとはかけ離れている。
節が多すぎ、指が長すぎ、何かが千切れた跡が見える。
まるで、闇の底で無数の亡者を喰らい続け、
膨れ上がってしまった怪物の一部。
「なに……あれ……!」
「“深淵の影《アビサル・シェイド》”だ」
カイラスはリリスの手を握り、低く囁いた。
「影喰らいより強い。おまえの血を求めてくるのも同じだが……やつはもっと狡猾だ。影喰らいが“本能”なら、あれは“悪意”だ」
深淵の影が、突然動きを止めた。
そして、リリスの方を向く。
リリスが息を呑む。
――呼んでいる。
(また……私を……?)
身体が勝手に動きそうになる。
「リリス!」
カイラスが引き寄せる。
だが次の瞬間、影は霧のように姿を消した。
「……消えた?」
「違う。位置を変えただけだ」
カイラスは空気の揺らぎに耳を澄ます。
「リリス、おまえを包囲している」
「包囲って……そんな……」
「ひとつだけ忠告する。あれはおまえを“殺すため”じゃなく――」
カイラスがリリスを抱き寄せ、彼女の耳元で囁いた。
「――おまえを“奪うため”に来ている」
都の中心に戻ると、すでに吸血種の長老たちが集まっていた。
彼らは影喰らいとの戦闘の疲労を引きずりながらも、
緊張した面持ちでカイラスとリリスを迎える。
「リリス様……」
「赤の巫女よ……第二の影が……」
長老たちの声は震えていた。
「影喰らいを倒したことで、封印が弱まりました。残る二つは、互いに力を共有しているのです。ひとつが消えれば、他の二つは必ず目覚める」
「そして……“深淵の影”は、知性を持ちます。あなた様を誘惑し、自分側へ引き込もうとするでしょう」
リリスは唇を噛む。
「誘惑って……どういう意味?」
「奴は“声”を使います。心の奥底に潜む孤独、渇き、恐怖、願望……そうした弱さを、すべて吸い上げて囁くのです」
リリスは無意識に首元――
カイラスに刻まれた咬痕へ触れた。
「……歌の中の『呼ぶ声』みたいに……?」
長老たちは目を見開き、互いに顔を見合わせた。
「赤の巫女は……歌に導かれるもの。まるで……その歌に、未来が描かれていたかのように……」
リリスは震えた。
(また……“呼ばれてる”……影喰らいのときとは違う……もっと……深い……)
胸の奥が疼く。
だが、その疼きを鎮めたのは――
カイラスが彼女の手を強く握った瞬間だった。
「リリス。歌に惑わされるな」
「……カイラス?」
「影はおまえを手に入れたがっている。あいつにとっておまえは“鍵”であり、獲物でもあり……」
カイラスの瞳が赤く光る。
「――俺のものでもある」
その言葉に、リリスの身体が熱を帯びた。
その夜、都で奇妙な現象が起き始めた。
人の影が、勝手に揺れる。
壁に映った影が、持ち主と別の動きをする。
月明かりを浴びた瞬間、影が黒い霧に変わって消える。
影を失った者は――
命の光まで奪われ、崩れ落ちる。
「……これが、深淵の影の力……?」
「魂の“裏側”を喰っているんだ」
カイラスは倒れた吸血種の影を観察しながら言う。
「人間は影と魂が緩く結びついているだけだが……吸血種の影は、ほぼ“魂そのもの”。影を喰われるということは――死と同じだ」
リリスは震える。
「じゃあ……これが続いたら……?」
「都が……いずれ空になる」
「空……?」
「人も、吸血種も、影を奪われて……ただの殻だけが残る」
その言葉が終わる前に――
突然、城全体が黒い霧に包まれた。
「……来た」
カイラスが構える。
霧の中心に――
ひとりの“影の女”が立っていた。
人の形をしている。
だが、輪郭はぼやけ、常にゆらゆらと揺れている。
目だけが――深淵そのものの黒を宿していた。
女はゆっくり、リリスへ近づく。
「――やっと、会えた」
声は甘く、美しく、残酷で、
人の心を直接撫でるような響きだった。
「赤の巫女……リリス」
カイラスがリリスを守るように立ちはだかる。
「近づくな」
女は笑った。
「嫉妬深い王様ね。でも、もう遅いわ。彼女の中にはもう……“深淵の欠片”が入っている」
「何……?」
「影喰らいを倒したときよ。あなたの光が強すぎて、影の破片が彼女に入り込んだの」
リリスの身体がびくりと震えた。
胸の奥で、何かが鼓動している。
――“こっちへ来い”
――“おまえを満たすのは、あの男じゃない”
「やめて……やめて……!」
耳を塞いでも聞こえてくる。
「リリスに触れるな!」
カイラスは影の女へ飛びかかった。
しかし――。
「――遅いわ」
影の女が手を振ると、
無数の黒い手が地面から這い上がり、カイラスをまとめて押し潰す。
「リリス!! 逃げろ――!」
カイラスが叫ぶ。
だが、リリスは動けなかった。
影の女が、リリスの頬へ触れようと手を伸ばす。
「あなたは……戻るべき場所へ戻るの。深淵の王のもとへ」
その瞬間――
リリスの胸の咬痕が赤く光り、
影の女の手を弾いた。
「ッ……何……この力……!」
リリスが震える声で答える。
「私の血は……カイラスと結んでる。あなたのものになんて……ならない!」
影の女の表情が歪む。
「そう……なら、奥の手を使うしかないわね」
女は指を鳴らし、影が広がる。
「次に目覚める第三の影……“影王《シャドウロード》”に捧げるために――あなたを“壊す”」
影がリリスを飲み込もうと迫る。
カイラスが立ち上がり、叫んだ。
「リリス!! 俺のところに来いッ!!」
リリスは――走った。
影が足に絡みつき、世界が黒く染まる。
それでも、咬痕が導くように光り、
カイラスのもとへ飛び込んだ。
彼はリリスを抱きしめ、
その額へ自分の額を重ねて言う。
「リリス……俺を呼べ。おまえの声で。影ではなく……俺だけを」
リリスは震えながら、彼の名を呼んだ。
「カイラス……ッ!!」
次の瞬間、二人の咬痕が鮮烈な赤を放ち、
影の女の身体が裂けた。
「――ッ!!」
断末魔とともに霧が散り、女は姿を失った。
だが最後に残った囁きが、
リリスの心に深く刺さる。
“深淵は……あなたを諦めない”
“次は……影王が迎えに来る”
影の女が消滅した後も、
リリスの胸の奥では黒い痛みが残り続けた。
それはまるで、二つ目の影が
すでに彼女の中へ根ざしてしまったかのようだった。
カイラスが彼女の手を取る。
「リリス……大丈夫だ。おまえは俺が守る」
リリスは頷こうとした――
だが、その瞬間。
地の底から、ゆっくりと、
巨大な影の“王冠”が現れた。
深淵の王の影。
三つ目の影――“影王《シャドウロード》”。
その気配だけで、世界がひび割れた。
――“赤の巫女よ”
――“次は……私だ”
リリスの咬痕が燃え上がる。
カイラスは彼女を抱きしめ、
夜空へ牙を向けた。
「来いよ……影王。リリスは絶対に渡さない」
Raphael
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#お嬢様
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