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北の山間から吹き下ろす風に、微かに雪の匂いが混じり始めた頃のことである。森の緑は深みを失って枯れ色に変わり、空は鉛色の雲を重く湛える日が増えていた。長く厳しい冬が、すぐそこまで近づいていた。
ライトリム村は、正式に王国の管理下に置かれた。だが、当初危惧されていたような、見せしめのための厳しい粛清や武力制圧は行われなかった。血走った目で聖女信仰を叫んでいた自警団は解体され、武器代わりの粗末な農具は没収されたものの、反逆の徒として村人が冷たい地下牢へ繋がれるような事態には至らなかったのである。
その温情の裏には、一枚の重たい羊皮紙が存在した。王国騎士団第一隊長アルベルト、第三隊長ラヴィニアをはじめとする、今回の遠征に同行した数名の隊長格による連名の嘆願書である。
そこには、今回の騒乱があくまで極限状態における”集団心理の恐慌”に起因するものであり、村人たちに国家転覆の意図はなかったこと。そして何より、討伐対象とされた少女からの、明確で悪意ある攻撃はただの一度も確認されなかったことが、冷静かつ克明に記されていた。幾多の死線を越えてきた騎士たちが、その剣と誇りにかけて記した文書を、王国の上層部も無碍に握り潰すことはできなかったのだ。
数日後、村の集会所で形式的な査問が行われた。王都から派遣された文官の冷ややかな視線の前で、扇動の中心にいた男たちは青ざめ、ただ力なく首を垂れるしかなかった。だが、その息の詰まるような場を動かしたのは、大人たちの沈黙ではなかった。
「……あの子は」
震える――けれど確かな声が、重い静寂を破った。誰より先に進み出たのは、ひとりの幼い少女だった。かつてその命すら諦めかけ、ソラスの魔法により再び大地を踏みしめる力を得た村の子――エルナである。彼女は、怯えて俯く大人たちの背中に隠れることなく、真っ直ぐに文官を見据えていた。
「お姉ちゃんは――ソラスは、私たちから何かを奪ったりなんてしませんでした」
言葉は拙く、止めどない涙で声は震えている。それでも彼女は懸命に言葉を紡いだ。
「私たちが、勝手に縋ったんです。弱かったから。自分たちで決めるのが怖かったから。全部、お姉ちゃんの優しさに背負わせて……逃げていたのは、私たちの方です!」
その痛切な叫びに、集会所にいた村人たちは弾かれたように息を呑んだ。やがて、誰からともなく、後悔に満ちたすすり泣きが漏れ始める。
ソラスは最後までこの村を守ろうとしてくれた。何も命じず、見返りすら求めず、ただ傷だらけの小さな体を盾にして、そこに立ち続けてくれたではないか。突きつけられたその明白な事実が、奇跡に酔い、凍りついていた人々の心を溶かし、深く取り返しのつかない悔恨へと変えていく。
結果として、扇動を主導した数名には軽い労役が課されたものの、その他の村人たちは判断保留として事実上の不問に付された。しかし、それは決して罪の赦しではない。過去の忘却でもない。彼らはこれから、自分たちの弱さが犯した過ちと、永遠に失ってしまったものの途方もない大きさを、その胸に抱えながら生きていくことになるのだ。
季節は容赦なく進む。市場には遅い収穫の根菜が並び、冬支度のための薪を割る乾いた音が、村のあちこちで響き始めた。
王都の煌びやかな大聖堂が説くような立派な宗教など、この辺境の地には届きはしない。彼らにとっての本当の神とは、遠い天の上にいる見えない誰かではなく、日々の糧をもたらす黒い大地であり、容赦なく吹き付ける北風であり、そして――かつてこの村の入り口で、泥だらけになりながら自分たちを庇ってくれた、あの銀色の髪をした少女のことだった。
だからこそ、彼らはふとした瞬間に、手を止めて視線を上げるのだ。森の向こう、鉛色の空に寂しげに突き刺さる黒煉瓦の尖塔へ。それはもう縋りつく先を求めたり、異端を見張るための恐れの眼差しなどではない。ただ純粋に、遠く離れた誰かを案じるためのものだった。
「……ずいぶんと、寒くなってきたな」
「どこも風が強い時期だろうに」
「今頃、ひとりで震えてはいないだろうか」
誰も直接その名を口にしようとはしない。その沈黙の裏側で、皆が同じ少女の面影を追っていた。破れた外套を繕ってやることも、温かいスープを一杯分けてやることも、もう自分たちには許されないのだという、深い無力感を噛み締めながら。
ある晩のことだ。村外れにある、祈りの場と呼ぶにもあまりに簡素な小さな礼拝堂。その入り口の冷たい石段の上に、小さな灯りがひとつ、ぽつりと置かれていた。高価な蜜蝋の蝋燭などではない。欠けた古びた平皿に獣の油を注ぎ、短い芯を浸しただけの、ひどく貧しい灯火だ。誰がそれを始めたのかは、分からない。かつて病から救われた名もなき誰かかもしれないし、ただ罪悪感に苛まれた者かもしれない。
そこに、教義に基づく立派な祈りの言葉は添えられていなかった。都合の良い奇跡を願う身勝手な欲望も、罪の救済を乞う弱さも、もうそこにはない。風に揺れる小さな炎が語っていたのは、ただひとつだけだった。
――どうか、無事でいてほしい。
――どこか遠い空の下で、あの人が今日という日を、笑って過ごせていますように。
それは、いかなる宗教の教えよりも根源的で、切実な、ただの”人”としての不器用な願いだった。
翌日の夕暮れには、その灯りは二つになり、やがて三つに増えた。冬の足音が近づく冷たい夜の闇の中で、小さな光の列だけが、誰かを待つ温かな道標のように静かに揺れている。
黒煉瓦の尖塔は、ただ沈黙したまま、変わらずそこに在り続けている。王国の公式記録に、立ち入りを禁ずる管理区域として冷徹に記され、騎士たちの厳重な監視下に置かれたその場所は。村人たちにとっては今もなお、決して忘れることのできない、たったひとつの優しい聖域として――静かに、雪の季節を迎えていた。
■
それから更に数日が過ぎ、鉛色の空からふたたび白いものが舞い落ち始めた頃。村の中心にある小さな十字路――かつてソラスが古びた台車を停め、ひっそりと行商を行っていたその場所に、数人の子供たちの姿があった。彼らは、かつて”銀髪の魔女”と無邪気に囃し立て、固い雪玉を笑いながら投げつけていたあの悪ガキたちだった。
リーダー格の少年が、足元に積もった新雪をギュッと踏みしめる。凍える手で丸めた雪玉が、彼の手袋の中で固く握られていた。けれど彼は、それを誰かに投げることも、近くの壁にぶつけて砕くこともしなかった。
じっと手の中の白い球体を見つめ、やがて力なく指を開く。歪な白い塊がぼろりと崩れ落ち、足元の雪に虚しく吸い込まれた。
「……痛かっただろうな」
ぽつりと、少年が震える唇から漏らした。凍てつく風にかき消されそうな小さな声だったが、周囲にいた子供たちは誰も茶化そうとはしなかった。
彼らは、知ってしまったのだ。自分たちが化け物と呼んで石や雪を投げたあの細い背中が、最期の最期には、自分たちの親や自分たち自身を、その身をボロボロに削ってまで守り抜こうとしてくれたことを。
「……あの歌、もう歌わないのかよ」
誰かが気まずさを誤魔化すように言う。かつて広場で歌っていた、魔女を揶揄する残酷な童歌だ。リーダーの少年は、強く首を横に振った。
「もう、忘れた」
嘘だった。あの残酷な歌詞もメロディも、まだ耳の奥にこびりついて離れない。しかしその歌を口にすることは、この先一生、二度とないだろう。
彼らは黙り込み、やがて誰もいない十字路の角――ソラスがいつも所在なげに立っていた、その一角の雪を、素手で払い始めた。冷たさで指先が赤く腫れ上がっても、手を止めようとはしなかった。誰に命じられたわけでもない。ただ、そうせずにはいられなかったのだ。
彼女が立っていた証のように、そこだけ黒い地面が露出すると。子供たちは満足したように、しかしどこか泣き出しそうな顔をして、それぞれの家へと帰っていった。
村の大人たちの変化もまた、ひどく静かで、しかし確かなものだった。共同井戸の傍らで、薄いブロンドの髪をした女性が凍りつくような水での洗濯の手を止め、ぼんやりと空を見上げている。彼女の首元には、羊色をした分厚い毛糸のマフラーが巻かれている。端に可愛らしい花柄の刺繍があしらわれた、丁寧な手仕事の品だ。
かつて彼女は、これを広場のソラスから買ったとき、礼ひとつ言わず、汚いものでも見るような目で銀貨を放り投げて代金を支払った。そして、村で”彼女は魔女だ”という告発が燃え上がった夜、おぞましい嫌悪感から、このマフラーを泥の中へ乱暴に投げ捨てたのだ。
だが今、彼女の首にあるそれには、ところどころ不器用に毛糸で補修した跡があった。騒動が終わり、真実を知ったあと、半狂乱になって泥の中を探し回り、泣きながら洗い上げたのだ。
無意識のうちに女性はそのつぎはぎの端を、ひび割れた指先でそっと撫でていた。幾度冬の風に晒されても決して解れない、丈夫で温かい編み目。そこに込められていた作り手のひたむきな誠実さに、当時の彼女は気づこうともしなかった。
「……ありがとう。そして、ごめんなさい」
北風に紛れるほどの、かすれた囁き。あの時、どうしても言えなかった言葉。言う必要などないと思い上がっていた言葉。
今さらどれほど涙を流して懺悔しても、あの銀髪の少女にはもう永遠に届かない。それでも彼女は、マフラーを首元で少しだけきつく巻き直し、刺すような冷たい風の中に身を置いた。この痛いほどの温もりが首筋にある限り、自分がかつてどれほど冷酷だったかを、決して忘れずにいようとするかのように。
通りでは、すれ違う村人たちが、以前よりも少しだけ丁寧に、目を合わせて挨拶を交わすようになっていた。誰かが雪で転べば無言で手を貸し、荷が重そうな老人がいれば自然と声をかける。ソラスが――初めは村中から無視され、冷遇され、石を投げられながらも――彼らに向け続けていた、無償の優しさ。それを今度は自分たちが繋いでいかなければならないのだと、誰もが胸の奥で痛いほど感じていたからだ。
誰の目にも留まらないような、ほんのささやかな変化。けれど、この村は確かに、昨日より少しだけ温かかった。日々の厳しい冬の暮らしの中で、ふとした瞬間に胸を深く刺す、抜けない棘の痛み。それを決して誤魔化すことなく、血を流しながら抱え続けること。それが、ひとりの心優しき少女を追い詰めてしまった彼らに残された、唯一の、そして生涯をかけた誠実さの形だった。
音もなく降り積もる牡丹雪が、村の輪郭を少しずつ曖昧に覆い隠していく。それでも、彼らの魂に深く刻まれた痛みと祈りだけは、決して白く染め上げられることなく、そこに在り続けていた。