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「……あ、……」
泥水に顔を伏せたまま、私は背後に立つ男の気配に絶望を感じた。
パンドラは死んでいなかった。
ジャマーでシステムを焼いたはずなのに
この街に渦巻く「悪意」そのものがパンドラの代替サーバーとなって、暴走を始めたのだ。
スマホの画面を光らせ、私を囲む野次馬たち。
彼らの瞳には、もはや「正義」のカケラもない。
ただ、自分の罪を完全に消去し、莫大な報酬を得るための「金」と「自己防衛」の光が宿っていた。
「……栞。お前さえいなければ、俺たちは『真っ当な人間』のままでいられたんだ」
一人がナイフを振りかざす。
私は目をつぶった。抗う力はもう、指先一つ分も残っていない。
——バババババッ!!
空気を切り裂くような乾いた音が響き、私の目の前の地面が弾けた。
男が悲鳴を上げて後退る。
「……動くな。これ以上近づけば、次は足を撃ち抜く」
聞き慣れた、低く冷静な声。
アパートの影から、血塗れの包帯を腕に巻き、足を引きずりながら一人の男が現れた。
九条刑事。
胸の血文字は、防弾チョッキの上から愛華に書かされた「演出」に過ぎなかったのだ。
彼は死を偽装し、屋上で愛華たちが油断する瞬間を待っていた。
「九条、さん……」
「喋るな。…まだ終わっていない」
九条は私を片腕で抱き寄せ、耳元に無線機を押し付けた。
そこから流れてきたのは、警察の暗号通信ではない。
結衣が構築したパンドラの裏側に、九条が独断で仕掛けていた「トロイの木馬」の作動音だった。
『……栞。聞こえる? 演出家を降りるって言ったけど、気が変わったわ』
無線の向こうで、結衣が焦燥した声で囁く。
『愛華が暴走して、パンドラの制御を奪った。彼女、街ごと心中するつもりよ。……九条刑事に渡した暗号キーを入力して。あなたの声がないと、物理ロックが解除できないの』
愛華は屋上で、結衣すらも切り捨てたのだ。
本当の怪物は、演出家さえも食い殺す「欲望の塊」だった。
「栞さん。君の『声』が、この街を救う唯一の周波数だ。……出せるか?」
九条が私の喉に、小型のマイクを当てる。
周囲では、パンドラの懸賞金に目を眩ませた暴徒たちが、警察の制止を振り切ってじりじりと距離を詰めてきている。
私は、焼けるような喉の痛みの中、必死で空気を吸い込んだ。
自分を裏切った親友、自分を売った刑事、そして自分を殺そうとする街の人々。
すべてを許すためではない。すべてを終わらせるために。
「……ぉ、……お、おぉぉぉぉぉぉ!!」
それは歌でも言葉でもない、魂の咆哮だった。
マイクが私の声帯の震えを拾い、九条の端末を通じて街中のスピーカーへと伝播していく。
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